ローカリゼーションマップ の記事

Date:12/2/7

ミラノの街を歩いていてよく思うことがあります。この街の精神風土がなんらかのカタチで変わるとしたら、中国人街を起点にする以外考えられないのではないかということです。かつての倉庫や工房を中心としたゾーンに新しいアートギャラリーやスタジオが生まれたとしても、それは精神風土にはあまり影響を与えないかもしれない。やはり変化はマージナルやボーダーと定義づけられるゾーンと人々の「専売特許」ではないか。強いモチベーションをもたざるを得ない状況にない人たちが、自ら変化を求めることは遊戯に過ぎないでしょうー挑発的に言うならば。

「グローバル人材」という奇妙な言葉が流通をはじめてそれなりの時間がたちました。これを現象として眺めていてつづくづく思うのは、ユートピア志向を背景にした完璧主義のひとつなんだということです。「英語人間」はコモディティ化した買い替えのきく消費財であり、「グローバル人材」を付加価値の高い消費財である。ないものねだりに近い・・・。「インディジョーンズのように頭脳が柔軟で機転がきき、視野の広い教養あり、リスクを自らとる」なんてめったにいない人たちを理想像と描くのは精神的にきつすぎるように思えて仕方がありません。いっそうのこと、流暢な英語が取り柄であることが「グローバル人材」であると言い切った方がどんなに楽なことかーしかし、人々は決してそう言いたがらない。

人間は与えられた状況でそこそこのことをする存在です。あえていえば状況選択にしか人の能力の発揮するところがない。自分を追い込む能力とでも表現しましょうか。追い込まれた状況をもたざるえをえない人たちースイスやベルギーのような小国で多言語を操る人が多いーにおいて、インターナショナルはユートピアであるよりマージナルからの必然であるという側面が強いはずです。北欧の人たちが英語が上手いのも同じです。今日、ソーシャルイノベーションの教授と昼食をとりながら「非完璧主義」ーいわゆるβヴァージョン主義ーというのが、今、非常に大切になっているということを話し合いました。完璧主義では要請されるスピードとマッチせず前進できないことがあまりに多いのです。ぼくは、日本で言われている「グローバル人材」も、非完璧主義の視点で再考すべきではないかと考えます

現代の社会要求の変化の大きさとスピードを問題にしてβヴァージョンを選択するのであれば、そこに対応する人間もβヴァージョンであることを認めないとおかしい。それにも関わらず、状況が難しいから人間のレベルはより高次を求めるー気持ちはわかりますが、人間の質がそう自動的にあがるわけはなく、その難しい状況のなかで人は「生物」ーカメレオン的に!-として適応していくしかないと諦めるのが良いーと思います。すべてがコモディティ化していくから、コモディティ化しない小さなエリアを探していき、そこに傑出した人間であることを望むというのはストレスだけが積もりゆく見果てぬ夢ではあるまいか・・・それこそドンキホーテ的妄想に駆られている!

・・・・それにしても、変化の大きさとスピードの速さを前提に語っていますが、ここに疑問を投げかける必要はないでしょうか?どうもマッチポンプ的に状況をクリティカルにみせ、そこで「怪力グローバル人材」の登場を待望するように芝居が仕組まれているとも見えるんだよなあ・・・もっと深呼吸して腹を据えて世界を眺めてみようよ。

 

 

Date:12/1/28

ぼくは宗教に関して典型的な日本人です。要するに無神論ならぬ脱宗教。だからイタリアで子供を育てていれば、どこかのタイミングで宗教の問題にぶつかるのは分かっていましたが、「そろそろだなあ」と思っていたら、そろそろがきました。小学校の宗教の時間も選択制でしたが、「キリスト教のことは知っていたほうがいいよ」と言って押し込んで(!)おきました。その時間、イスラム教の子たちは別の学習をしているのですが、息子は幼児洗礼をうけているほとんどの子供と一緒にキリスト教について勉強してきました。本人は面白いと言うし成績もよかったので親としてガードが甘くなっていました。

今年の9月からはじまる中学の申込書を書くにあたり、宗教の授業をどうするかが親子のテーマになりました。宗教のほかにも選択しはいくつかあります。1)第一外国語は英語で、第二外国語をフランス語かスペイン語 2)週の授業合計時間を30時間か36時間 3)給食をとるかどうか(とらない場合は自宅で昼食をとり学校に戻る) 4)カトリックの授業をとるか(とらない場合、他の学習をするか、早く帰宅するか、などの選択もある)  1)はフランス語であっさり決定 2)は若干もめたけど36時間 3)も若干もめたけど給食あり で話し合いがすんだのですが、4)が決まりません。

「今の宗教の時間でも、みんなは教会で(教理を教える)カテキズモをやっているから、どうしても差がでるんだ。お祈りのしかたを知らないし・・・・カテキズモをやっていればよかった」と言い、その差を味わうのが嫌だから宗教の授業はとりたくないというのです。そして「みなはもうカテキズモを終えている今、一人でカテキズモに行きたくない」と。カテキズモをどうするかを数年前に話し合ったとき、「親である自分たちが信じていない宗教の教理をかなりの時間を割いて無理をすることもないだろう。自分で宗教を考える年齢になったとき、勉強すればよい」という判断をしていました。

中学の宗教については当初どちらでもいいかなと思っていたのですが、息子のNOの理由を聞いているうちに、それも良くないなあと思い始めました。「そういう理由なら、宗教の授業をとるほうを勧めるよ。パパもママもキリスト教をもっとよく知っていたらいいなあと思うことはたくさんあるからね。でもだからといって勉強できていないんだけど」と説得を試みるのですが、どうもかたくなにNOと言い続けます。ぼく自身、なにかのときに教会のベンチー日本であれば寺や神社ーで思いにふけることがあります。宗教的な場がもつ雰囲気の大切さは認識しています。しかし、くキリスト教を知っているというにはおこがましい。

息子が赤ん坊のころから孫のように面倒を見てくれているイタリア人のお祖母さんに相談すると、「分かったわ。私が言って聞かせてあげる」と引き受けてくれ、翌日、息子を彼女の家へ一人で行かせました。「なにか話があるみたいだよ」と。結果はYESです。「何が決定打だったの?」とぼくが息子に聞くと、「宗教は文化のひとつだっていうこと」。彼女に「ケンはこれからもイタリアで長く生きていくに、イタリアの文化はよく知っていたほうがいいわよ。お祈りの言葉なんか知らなくてもいいのよ」とかなり長時間にわたって説かれたようです。「脱宗教」の人間が宗教は文化理解の一つであると説明しても説得性に欠けますが、毎週必ず教会のミサに通う信者に言われれば受けるほうも違いますーだいたい息子は両親がイタリア文化をよく理解していると思っていない!-。

中学の申し込み書には「宗教の授業を受ける」にしるしをつけ、授業を受けていて考えが変わればやめる、あるいはカテキズモを勉強することを息子が自分で判断することになりました。

やれやれです。

Date:12/1/27

昨日午前1時ころ、卓上のライトが揺れ始めた時、地震だと思いながらほんとうに地震であろうかと一瞬迷いました。ぼくがイタリアに住み始めてからの21年間、地震とはっきりいえるものを経験したのは2-3度です。中部や南部などでは大きな地震があってもミラノで体感する地震の数はそんなものです。もっとあったかもしれませんが、記憶に残っているのはその程度です。地震がミラノにいる自分の文脈にないのです。昨年の3月11日に日本で大きな地震を経験して以降、発生する揺れがすべて地震であると判断が傾いたのと反対です。11日の後は、たとえ強い風で窓ガラスがビシビシ鳴っても、「地震か?」と感じ取ったものです。

米国の大学の医学部は街の外れにあることが多い。イェール大学も同様だ。大学近くのアパートに入ると11階の部屋なのに窓ガラスが1つ抜けていた。不思議に思ったが、管理人にガラスを入れてもらい、そのまま生活をスタートした。

夜になると、しょっちゅう「パーン」という音を耳にした。「またパンクか。ずいぶん安いタイヤを使ったクルマが多いな」と思っていた。だが、ある時、 「パパーン」という音を聞いて、今まで聞いていた音が銃声だと気付いた。そんな危険な地区だとは知らなかった彼は、初めてガラスが抜けていた理由を知っ た。

「要するに、ぼくは街のコンテクストを知らなかったわけですね」と安宅さんは述懐する。

ガラスの状態で「街の安全度」を測らなかったのは、11階のガラスが銃弾で破壊されるなどという経験がなく、また教えてくれる人もいなかったからだろう。銃弾が飛び交う街と窓ガラスの破損が、経験としてシンクロすれば分かる。

「脳神経系で『理解』とは物理的に存在しません。2種類の情報からの信号が1つの神経上で重なり合う現象のことなんです。つまり、複数の情報が何らかの 重なる関係を持つ時、我々は『分かる』という状態になるのです。だから、コンテクストを共有することがものすごく重要なわけですね」

長い引用ですが、安宅和人さんと対談したとき日経ビジネスオンラインに書いた文章です。地震の判断に躊躇した際に即思い出したのが、このエピソードでした。ミラノでは、その8時間後、再び地震が発生しました。お互いの震源地が離れているにせよ、またおよそマグニチュード4であったとしても、これまでの頻度からすると珍しい現象です。イタリア人たちは大いに驚き、建物からの落下物を恐れ建物から離れながら、地震について一生懸命話していました。

ネットを見ていてふと気になりました。この地震を経験した北イタリアに住む日本人たちの書き込みをみていると、イタリア人の地震への反応が過剰であるとやや嘲笑気味です。「地震国に生まれた人間は、こんな地震ではあわてない」という態度です。ある自然現象に対して恐れを抱くのは冒頭に述べたように文脈の問題です。震度そのものではない。だいたい耐震構造との関係を考慮すれば、普段地震がない地域では震度の小さい地震でも十分に危険なはずです。それだけでなく、心の構えがないところでの異常事態は予期せぬ行動パターンを生みます。少なくても嘲笑の対象にはなりません。

豪雪地に南国から来た人がつるつるの靴底で歩けば、「お前、分かっていないなあ」とからかわれるかもしれません。それはいいのです。雪のある世界の文脈に来るときには、その文脈を理解することが求められるからです。日本で地震にあって怖くなりあわてて自国に帰るイタリア人に「馴れていないから仕方がないなあ」とつぶやくこととは妥当ですが、ミラノで地震にあって右往左往するイタリア人に日本人が「情けない動きをするなよ」と言うのは、的が外れているとしか言いようがない。

自然現象への見方は、実は文化価値体系のもととなっています。