ミラノサローネ2012 の記事

Date:12/2/10

村上春樹の『1Q84』が各国語で出版され話題になり、ヨーロッパのどこの書店でも三島由紀夫やよしもとばななの本を見つければ、日本の作家の本はそれなりに海外で流通しているのだろうという気になります。ただ、それは日本の出版社が営業した結果がダイレクトな現象となっているというよりーこのあたりの事情は素人の想像ですがー、各国語の出版社かエージェントがリスクを負って翻訳本を出版してきた功績ではないかと思います。一方、アカデミックな研究者が世界で成果を評価されるには、一流の英語の学術誌に論文が掲載されないといけないと言います。このフィールドも疎いのですが、要するに「舞台」にのらないで観客席で何をやろうがー貴賓席であろうが!-それは評価の対象に入らないのです。しかし、そのサーキットにのりきっていないことが現実であることをいろいろなランキングで見せつけられます。

さらに学問の成果を世に問うには、雑誌掲載だけでなく書籍の出版という手段が必要です。京都大学学術出版会の斉藤至さんの『国境を越える学術出版ー英文共同出版の10年』という文章を読み、日本の出版社が英語の学術出版でほとんど主導権を握れていない事情を知りました。まず第一に、査読体制が不十分であるとの指摘があります。

特徴や評価基準の文化差から、相互の査読体制が食い違う(split)場合も生じるが、共同先に向けて企画の刊行意義を説得的に提案する工夫が求められる。

共同先とは海外の出版会を指しています。

日本からは英文書を海外に普及するまとまったチャネルが存在しない。北米ISBS社とはTPP社(豪のTrans Pacific Press)の仲介により2009年から直取引を開始した。ただし共同出版では、お互いが市場を侵犯せず共存するべく販売先を地域ごとに分担(share)し、小会が日本国内販売、共同先が日本国外販売を分担する。共同先の単独出版物を日本で販売する場合は小会が代行し、日本国外で直に普及が可能なのは、小会の単独出版物に限られる。

共同先と一緒に出版物を作っていくことがメインのビジネスであると想定されており、しかも、その書籍の企画を独自に推進するには敷居が高いようなのです。「なお契約上は、共同先の管轄しない地域ならば直販売できる。フランクフルトでのEurospan 社、南ムンバイでのAllied Publishers社との接触は、今後の有益な取引資源である」ともありますが、影響を及ぼしやすく商売のうまみもある市場へのアクセスが限定的であることが伺えます。が、かといって肩に力が入り過ぎてもいけません。

しかし問題は、英語化のトレンドに遅れるという焦燥に駆られ、地域の固有性を十分に経由せずして英語化へと走る事態であるように感じる。英語化のトレンドはむしろ英語をハブとした新たな翻訳交流を切りひらくものだろう。中心文化から周辺文化への侵略という言辞で「否定性」を煽り立てるのではなく、ローカリティに密着したユニークな知見を積極的に発信する好機として受けとめたい。

<中略>

また特に地域研究の分野でも、日本人が欧・米的な分析手法で対象地域を研究する著作よりも、各国人がそこから内在的に引き出した基準で各々の共通性と差異を比較しあう著作が有力な学術賞を多数受賞している。

これはとても示唆に富みます。現状、多かれ少なかれ、市場の流通と企画を先導できないのは日本の企業活動の弱点であり、学術出版が周回遅れであるわけでもありません。いやむしろ、学術出版の世界であらたなモデルを作ることが不可能ではないとの印象は与えてくれます。

デザインの世界のヒントがここにも満載されています。特にデザイン言語という見地で考えるべきことが多数あります。

 

Date:12/1/27

昨日午前1時ころ、卓上のライトが揺れ始めた時、地震だと思いながらほんとうに地震であろうかと一瞬迷いました。ぼくがイタリアに住み始めてからの21年間、地震とはっきりいえるものを経験したのは2-3度です。中部や南部などでは大きな地震があってもミラノで体感する地震の数はそんなものです。もっとあったかもしれませんが、記憶に残っているのはその程度です。地震がミラノにいる自分の文脈にないのです。昨年の3月11日に日本で大きな地震を経験して以降、発生する揺れがすべて地震であると判断が傾いたのと反対です。11日の後は、たとえ強い風で窓ガラスがビシビシ鳴っても、「地震か?」と感じ取ったものです。

米国の大学の医学部は街の外れにあることが多い。イェール大学も同様だ。大学近くのアパートに入ると11階の部屋なのに窓ガラスが1つ抜けていた。不思議に思ったが、管理人にガラスを入れてもらい、そのまま生活をスタートした。

夜になると、しょっちゅう「パーン」という音を耳にした。「またパンクか。ずいぶん安いタイヤを使ったクルマが多いな」と思っていた。だが、ある時、 「パパーン」という音を聞いて、今まで聞いていた音が銃声だと気付いた。そんな危険な地区だとは知らなかった彼は、初めてガラスが抜けていた理由を知っ た。

「要するに、ぼくは街のコンテクストを知らなかったわけですね」と安宅さんは述懐する。

ガラスの状態で「街の安全度」を測らなかったのは、11階のガラスが銃弾で破壊されるなどという経験がなく、また教えてくれる人もいなかったからだろう。銃弾が飛び交う街と窓ガラスの破損が、経験としてシンクロすれば分かる。

「脳神経系で『理解』とは物理的に存在しません。2種類の情報からの信号が1つの神経上で重なり合う現象のことなんです。つまり、複数の情報が何らかの 重なる関係を持つ時、我々は『分かる』という状態になるのです。だから、コンテクストを共有することがものすごく重要なわけですね」

長い引用ですが、安宅和人さんと対談したとき日経ビジネスオンラインに書いた文章です。地震の判断に躊躇した際に即思い出したのが、このエピソードでした。ミラノでは、その8時間後、再び地震が発生しました。お互いの震源地が離れているにせよ、またおよそマグニチュード4であったとしても、これまでの頻度からすると珍しい現象です。イタリア人たちは大いに驚き、建物からの落下物を恐れ建物から離れながら、地震について一生懸命話していました。

ネットを見ていてふと気になりました。この地震を経験した北イタリアに住む日本人たちの書き込みをみていると、イタリア人の地震への反応が過剰であるとやや嘲笑気味です。「地震国に生まれた人間は、こんな地震ではあわてない」という態度です。ある自然現象に対して恐れを抱くのは冒頭に述べたように文脈の問題です。震度そのものではない。だいたい耐震構造との関係を考慮すれば、普段地震がない地域では震度の小さい地震でも十分に危険なはずです。それだけでなく、心の構えがないところでの異常事態は予期せぬ行動パターンを生みます。少なくても嘲笑の対象にはなりません。

豪雪地に南国から来た人がつるつるの靴底で歩けば、「お前、分かっていないなあ」とからかわれるかもしれません。それはいいのです。雪のある世界の文脈に来るときには、その文脈を理解することが求められるからです。日本で地震にあって怖くなりあわてて自国に帰るイタリア人に「馴れていないから仕方がないなあ」とつぶやくこととは妥当ですが、ミラノで地震にあって右往左往するイタリア人に日本人が「情けない動きをするなよ」と言うのは、的が外れているとしか言いようがない。

自然現象への見方は、実は文化価値体系のもととなっています。

 

 

Date:12/1/18

イタリアの子供たちをみていていろいろな点に気づきますが、そのひとつに自分をさらけ出すのにあまり躊躇がないということがあります。たとえば、何か人前でするときにアガルとしても、「今、あがっちゃってる」と言える。何か発言をしなければいけないとき、「もし言って間違っていると恥ずかしいから言わない」と言う。黙ってうつむくのではなく、非力な自分をそのまま表にだすわけです。反対に言うと、だからこそ言い訳が上手い子供になりやすい。それこそ「可視化」が訓練されています。良くも悪くも・・・・。

今、「可視化」がとても流行っています。暗黙知が避けられ、文章が避けられ、図式化されるーインフォグラフィックの隆盛ーことが情報伝達の効率を向上させると思われています。ただ、効率の向上が実質的な理解にどこまで貢献するかについては別の話になります。とっかりはいいけど、分からないものは分からない。何でも漫画にすれば深い理解を促すのではなく、漫画はあくまでも親しみを喚起するだけです。あまり動きのない登場人物が難しい言葉で話し合っている漫画はやはり難しいのです。

「可視化」と並んで「ワークショップ」が多方面で活用されています。正直に言います。かつてーこの10年くらい前までー、ぼくはワークショップはもとより講演会も嫌いでした。一対一で質問をしながら聞く話は良いのですが、多くの人と一緒に一方的に話しを聞くことに関心がありませんでした。ワークショップは参加したときは清々しいが、日常に戻ると「あれは何だったのか?」と非日常への逃避のように思えたものです。そのぼくが、現在、講演会で人の前でしゃべりワークショップを実施しています。これは、ぼく自身の変化だけでなく時代の変化によりところがあるのではないかと思います。

あることの理解には自らの体験がどうしても必要です。しかし、すべて体験が必要であると言い張っていれば、人は膨大な時をかなり非効率に生きざるを得ません。のんびりした時代はそれも良かったでしょう。大きな失敗をしてもリカバーの余地のある時代はそれも通用しました。だが、あらゆることがスピードアップし、おおらかな失敗をしている余裕のない今、「如何に小さな失敗を効率よく自らこなしていくか」が成功の秘訣になりつつあります。しかも、そこにはリアリティがないといけません。

これがビジネスの現場で「可視化」と「ワークショップ」を後押しする理由ではないかと考えています。いや、少なくてもぼくはそういう意図で講演会を行いー文章を読んでの理解を視覚的にアシストするー、ワークショップで小さなずれを微調整しながら既定の枠を柔らかいものにしていくのです。同時に、小さなミスは大きな可能性の前に矮小化され、大きな展開の活性剤となることも学んでいきます。これを「非日常の発想の転換」ではなく、日常のなかのテーマを解決するために利用していくことに意味を見出すのです。

ミラノサローネというイベントの位置づけも、こういうフレームで眺めてみると納得のいく点が多いはずです。

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