ミラノサローネ2012 の記事

Date:12/4/14

「日本では地方から都会の大学を行くとそのまま残って就職するのがかなり一般的だと思うが、イタリアでは大学を出て地元に戻る人も少なくないと聞いてローカルの意味を悟った」というような発言を聞いて、ローカルの価値の違いについて、いい線をついているかもしれないなぁと思いました。ミラノ工科大学でのイタリアの学生と東大i.school の学生のワークショップの一場面です。

i.school の学生はメインが工学系、ミラノ工科大学はデザイン系。一部の学生を除き、今日が初めての顔合わせです。最初にi.school ディレクターの田村大さんがi.school が目指すイノベーションのあり方や、気仙沼を起点としてローカルとローカルが新しい価値を創造する狙いーMARU PROJECT- を説明。その後、学生がフィールドワークで見つけた「気仙沼の宝」ーライフスタイルや海を挟んでの外国との直接交流のしるしーをプレゼンします。次に2月に気仙沼に滞在した感想をイタリア人学生が述べ、アレッサンドロ・ビアモンティ教授が気仙沼で得たインスピレーションから繋がるヨーロッパのコンテクストを表す映像ーたとえば、エットーレ・ソットサスがみる「現代の遺跡」-を見せ、かつ学生のコンセプトプレゼンの動画を紹介しながらコンセプトに至るアプローチを説明します。

昼食をはさみ学生たちは数人のグループに分かれ、前半に説明した「気仙沼の宝」の数々のカードー表が画像で裏に説明ーを前にし、日本から持ってきた菓子を食べながら「イタリアの宝」を想起するための対話が始まります。あるモノやコトを自分の文脈にのせるとどういう説明が成立するか?というのが入口で、そこでお互いが解釈の相違に気づき、違いのバックグランドを追っていくと何らかのインスピレーションを得るというプロセスが想定されています。ぼくが各テーブルのブレーンストーミングを覗きながら思ったのは、コスモポリタン的文化ーアップル文化に象徴されるーを媒介にしないでローカルとローカルをぶつけると、かなり「身体的」「生理的」が乖離が見えてくるということです。これはどういうことかと言えば、「心や身に沁みついた」痕跡の整理のしかたはまだまだ開拓すべき余地がたくさんある、と。エドワード・T・ホールが何十年前にも提示した時間や物理的距離の文化差以上に明らかになっていることは意外に少ないのではないかと思ったのです。

ワークショップが始まる前にルカ・グエリーニ教授と雑談していて一つ考えるべきことがありました。「先月のPh.Dデザインコースで案外学生が質問しないのに驚いたんですが・・・イタリア人は街中であんなにいろいろな人と気楽に話しているのに。あれは英語で質問するという言語の問題があるんですか?」と切り出すと、「いや、言葉が原因ではない。対話を引き出すのには苦労するよ。特に教師がいる場合や数人ではなく何十人かの聴衆がいる場合、質問はぐっと減ってくる」と意外な答えが返ってきました。「でも小学校の授業なんか見ているとすごく活発じゃないですか。中学校、高校、大学ときてだんだんと閉じていくというわけですか?」とさらに突っ込むと、「そう。残念ながらそうなんだ。表面的には結構オープンな会話が交わされているようにみえて、世代間ギャップもぼくが学生だった30年前と比較しても広がっていると思う。若者と老人の会話も減少している」と指摘。「そのギャップに情報革命が相当の役割を担っている?」と別の方向に話しを向けると、「すべてが情報革命に要因があるとは考えないが、それは大きな要素だと思う」と。

今、ローカルとローカルが大都市を介在させずに直接対話する意義は、前々からぼくが想像していた以上に大きいのではないかと感じました。イタリアでのi.school の学生の活動は来週も続くので、追って考えたことをメモしていきます。

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Date:12/3/24

「今年のサローネは興味しんしんだよね。経済がこれだけ厳しく絞った予算でどれだけの表現を見せるか?って見ものじゃない」とイタリア人の若手建築家が話します。日本のバブルがはじけた後のモーターショーやリーマンショック後のサローネを思い起こします。マイナス経済変化と商品開発や見本市の展示に関係があるのを感じるのは、およそ寂しいことが多いと思っていたぼくは、彼の「どういうエコロジカルな展示材料で出してくるかを見るのが楽しみ」というセリフに感覚の変化を感じました。マイナス経済変化を彼のビジネス文脈で否定的に捉えていないのです。チャンスとして考えています。

さて、時代の空気の変化を感じ取る場所はいろいろとあります。携帯電話のショップもそうです。1990年代後半から2000年代前半には華やかさがありました―ミラノの風景を言っています。トレンディな情報はあの場所にあると、用事もないのにショップに集まっていた。そこで性能や機能はもちろんのこと、デザインを語り合っている若い人たちが集まっていました。今、気のせいかもしれませんが、そういうムードが携帯電話のショップにはありません。だいたい携帯電話というモノ自身が、スマートフォンを前にして劣勢です。そして、統一感あるインテリアでまとめたキャリアの店舗がトレンドショップ的なムードをもっています。しかし、タッチパネル全盛の今、個々の商品のデザインを語り合う空気は減少しているようにみえますーTVのデザインが話題にのぼらなくなったと同様。

電源をONにしないと世の中の姿が見えてこない。それが生活の隅々まで浸透しはじめてきた現在、逆に物理的な店舗デザインが意味をもってくる・・・という方向にあるのかもしれません。ぼくたちは目に見えるデザインを捨てることはできない。よくセミナーなどでローカリゼーションの必要性を説明するとき、「馬鹿なロジックのインターフェースのカーナビを搭載したクルマは、どんなにスタイリングがよくてもクルマ自身もバカにみえる。だから、ユーザーの市場にあったロジックを提示すべき」と言います。しかし、それはカタチが造形力が不要になっていることを意味するのではありません。そこまでヴァーチャルとリアルが拮抗している、その力関係を指しているのです。アップルの店舗があれだけ凝っているのも、その一例でしょう。

リアルな経済が落ち込む → 展示が貧相になる ということではなく、リアルな経済が落ち込む → ヴァーチャルで積極的意義が議論される → 展示が内容的に豊かになる → 展示が見るべきデザインとなる というサイクルが生まれることを期待する人たちがいる。これが冒頭のエピソードをバックアップする背景ではないかと思います。それには電源ONがない限り、このサイクルが続かない・・・というかどうかがエコロジーや社会的持続性を考えるときに岐路を描きます。考えてみると実にーそれも猛烈にー微妙な危ういところに立っていることになります。あらゆる世界観のベースに「一杯のコップの水」のように「ひとかけらの電気」があることに思いをはせると、エラソーな世界観ってなんだかなと思わないでもありません。

Category: ミラノサローネ2012 | Author 安西 洋之  | 
Date:12/2/20

この約2か月、ネットで日本のTVドラマを徹底して見てきました。過去のアーカイブもカバーしたので、この1-2年のドラマをまとめてみた感じです。タイトルやキャストから想像して「くだらないじゃない」と思えるものでも無視することなく、少なくても1-2回は見てみる・・・ということを続け、今の日本のTVドラマ動向がかなりわかってきました。脚本の比重がより増しているのではないかというのもその一つです。演じる俳優の質を問わずに一定レベルのドラマをアウトプットできる。これが大事なんだと思います。

しゃべりや演技が下手であるのは、もしかしたら演技に型があった時代の幻影と比較しているに過ぎないのかもしれません。舞台や映画で役者としての経験が少ないと、同じ演技を何度も繰り返して練りこむ度合が減るのは必然でしょう。また現在TVドラマでは役者的なしゃべりより、「隣のお兄さんお姉さん」のどこでも聞くふつうさが視聴者から求められているとしたら、舞台俳優的うまさは余計です。だから脚本が重要な位置を占める・・・これが、ぼくの仮説です。

脚本が面白いというとき二つのポイントがあります。セリフまわしの妙とストリー展開のダイナミズムです。「なるほど、こういう言い返しのしかたがあるわけか」と唸らせるだけでなく、本当は言いたいんだけどなかなか言えないセリフも妙です。後者も先が読めないような意外な筋書きだけでなく、「ありそうでナク、なさそうでアル」綱渡り的な緊張感。あるいはまったく予定調和的に見たい物語をそのまま経験させてくれるというパターンもあります。この二つの要素がうまくかけ合わせられると面白いドラマとなります。

キムタクや松嶋菜々子など視聴率をとるためのタレントの配役はあるのでしょうが、脚本の時代において俳優は誰でも良いのではないかと思わせる・・・・そういう印象はあります。かつて、演技に型があったように俳優に型がありました。時代劇の侍をやるなら彼で、刑事役ならあの人、と。俳優はドラマを選び、できるだけ自分の俳優イメージを構成できる役以外は避ける傾向があった。しかし、今、俳優はどんな役柄もこなすことで、大会社の役員を演じるなら誰々ということが少なくなっているのではないでしょうか。

石原裕次郎も加山雄三も決して演技が上手い役者ではなかったという意味で、かつてのスターが必ずしも質の高い演技力でもっていたわけではない。松嶋菜々子の家政婦のミタも見せ場はありましたが、上手いかどうかといえば上手いとはいえない。放映中の『ラッキーセブン』の彼女の探偵事務所社長役で光ったところはないでしょう。『最後から二番目の恋』の小泉今日子はかなり良い味を出していますがー特に中井貴一との掛け合いにおいてー、『贖罪』の足立麻子役では、あのキレの悪いしゃべり方がマイナスになっていました。これは仲間由紀恵のような女優が向いているけれど、仲間は『恋愛ニート』のようなコミカルな役ではウンザリさせる。つまり、俳優は誰でもいいドラマになる傾向でありながら、質ではなくタイプはやはり選択を厳しくさせないといけないと言えます。

誤解を招かないように繰り返し強調しておかないといけませんが、「俳優は誰でもいい」とは突出したブランド力をもたないレベルの俳優であればという条件がつきます。そして、そのレベルのレイヤーが薄くなってきたがゆえに、誰でもよいレイヤーの比重が増し脚本の時代になっていると考えられます。「物語」や「共感」が喧伝されるのは、その他の要素の存在感が低下したために相対的に浮上した地位ではないかという仮説は成立するでしょうか?

 

Category: ミラノサローネ2012 | Author 安西 洋之  | 
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