証言者としての価値を高める

この正月、日本人の友人と酒を飲みながら話題がイタリアの教育とアートのアーカイブになりました。イタリアの学校で重視されるのは口頭試問です。テーマに対して定義の設定から論理を構築していく力が試されます。どこかにある正解をなぞるのではなく、ある問題に対して自分なりの解釈をほどこすことが求められるわけです。それを書くのではなく話す。これが小学生の段階から徹底されています。一方アートの世界におけるアーカイブとは、批評空間に存在感があるという意味合いの話です。図書館でアート作品を検索すると、日本とは比較にならない桁の数で批評文が一つの作品について出てきます。よって、批評コンテクストでの位置づけを前提に作品を構想する訓練を作家は重ねることになります。

「自分の解釈を作る」という基盤があるから批評空間に存在感があると言えますが、時とともに生き残れる作品こそに価値があるという考えが強いので、批評の量と変遷にウエイトが置かれるのではないかと思います。言ってみれば、そこに石があること自身にさほど意味があるのではなく、そこになぜ石が置かれ、どのような年月をもって石が人に見られ、その石が何十年後にどのような価値をもつかが記述される・・・・マーケットを構成するシステムが「言葉が不要な感動」のみによって成立していないのです。

考えてみると人の人生も同じです。生きてきたプロセスを記録に残すことがセルフブランディングになります。年末から正月にかけ、少なからぬ人たちがフェイスブックに自分の幼少や青年時代の写真をアップさせていました。当たり障りのない話題提供や年の変わり目に過去に思いを馳せるという動機なのでしょうが、タイムラインに揺れ動く自身の姿の背景を知っておいてもらいたいとの欲求の表れなのだろうとも想像します。自分は身長が1.何メートルで体重が何十キロで過去現在の名の知れた人の顔に似ているかどうかではなく、世界で有史以来唯一である自分の生まれた瞬間からの営みの数々にしかーしか!-証がない。それは過去の誰とも同じではないし、将来、同じ人が出現することはありえない。人は「時」によってアリバイを獲得する存在なのです。

日記は自叙伝にまさり、自叙伝は作家が書いた伝記にまさるのは、その瞬間のありようは本人が一番の証言者だからです。これまで名の知れた人のライフヒストリーが評価されたのは、その人の世間的に認められた実績ゆえでありましたが、実は世間的に認められるシステムに入る「通行手形」をたまたま手にした幸運によるとの側面がなかったわけではありません。「通行手形」の入手が相対的に容易になった現在、何に対する証言者であるかがより問われます。ネットのおかげで証言者という地位はほぼ平等に与えられるのであれば、どこに証言者として立ち会うかがポイントになります。ゆえに、その点について意識をさらに高めることが自己肯定の契機になるとの理屈が幅を利かしそうです。証言者とは状況定義と解釈を開陳できる存在ですから、当然ながら、与えられた地位を十全に使いこなせるかどうかは別の問題としてあります。

やったことの結果もさることながら、どんな天気の時に、どんな道を辿っているかがセルフブランディングの肝になるわけです。ただし、初夏の暖かい日のヴェネツィアで昼寝をするのではなく、晩秋の霧の濃い海上でヴェネツィアへの足止めを食うことが証言者の生き方として重みがありそうで、実はそうではない。あまりに平凡な日常的な風景のなかで証言者であるー日曜日午後のイトーヨーカ堂の下着売り場で世界を語るーほうが存在感があるかもしれないのです。

文章の結を急ぐためにやや飛躍を許してもらえるなら、「今に生きる」ことが、かつてと比較にならないほど自己アイデンティティとブランディングのために重みを増していると考えてしかるべきです。無駄にできる時間はなにもないのですーいや、すべての時間はあなたが思う以上に価値がある。しかし、だから息苦しくなるのではない。逆に、だから開放された気持ちになるにはどうすればいいか?と考える人がー社会経済的に激しく揺さぶられるー2012年を生き残れるでしょう。

 

 

 

 

 

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Category イノベーティブ思考, 子育て | Author 安西 洋之