ミラノサローネ2010(15) 言葉を嫌うな!

昨日、原宿でワールドカフェに参加してきました。ワークショップ的な場といってよいでしょう。前半はゲストスピーカー、井口奈保さんの話。米国で組織心理学を勉強し、今、コミュニケーション・プロセス・デザイナーと自らを定義するに至った経緯とその手法を紹介します。思考プロセスの可視化がテーマです。出された課題は、それぞれの参加者が、今自分のなかで重要な言葉や概念あるいは想念なりを3つ選択し、それらを言葉ではなく、絵にします。複数の色のマジックを使い、3つを表現していくのです。そして同じテーブルの人たちの他の3人に、その意味するところを説明し、質問に答えます。その感想を約40人くらいの参加者に何人かが述べたなかで、「言葉は対立を生むが、絵は質問を生む」というコメントに頷く人たちが多かったのが、Twitterでの#ライブや後の発言で分かります。

後半は主宰者の西村勇也さんのイニシアチブ。言葉以外のコミュニケーション手段で何が生まれるか?というテーマを同じテーブル4人で話し合います。テーブルには大きな模造紙とマジック、そして一つの石があります。発言する人は必ず石を手に握るのがルールです。同時に複数が話せないシステムになっています。それぞれが思い思いに喋り、聞いている人がーあるいは話しながらー何かピンとくることがあれば、模造紙にメモを書いたり、スケッチを描きます。一定時間を経ると、一人を残し、残りの3人は別のテーブルに移り、同じテーマで話し合います。残った一人の役目は、そのテーブルで前のメンバーが何を話していたかを要約し、他のテーブルからきた3人に説明。その3人は模造紙に書かれたメモを眺めながら、その説明を聞くという具合です。即ち、合計7人の人たちと同じテーマに関して話し合うということです。

前半と後半は直接的には関係ないですが、もちろん深層ではリンクします。ぼくが前半と後半を共通して感じたことは、デザインやインターフェースが共通のキーワードー日常生活用語のようにーなっていることです。ネット情報でここに参加している人たちが多そう、iPhone保有率が高そうという印象がありましたが、業種そのものは多岐にわたっているようです。そういうなかでも、デザインやインターフェースがキーになるということは、それだけコミュニケーションの問題に敏感になっているのだろうと思います。昨晩の二番目のテーブルの模造紙にアフォーダンス・デザインというメモがあったのをみたとき、コミュニケーションはディテールだけでなくコンテクストが重要であることを意識しはじめているのだなと感じました。

ぼくは「ミラノサローネ2009」において、盛んに「作品の前にあるパネルの解説を読むべし!」と書きました。確かに、色やフォルムのトレンドをつかむのも大事ですが、もっと重視すべきなのは、「人々は何を考え、どういう方向に向かおうとしているのか?」を知ることです。表現の選択の前段階のレイヤーをつかまずして何ができる?と問うたのです。およそ10数人のデザイナーのパネルを熟読し、望むべくは直接そのデザイナーと話していれば、向かう方向があっちなのか、こっちなのかという傾向が見えてきます。それを解説を読まずして作品のプロトだけから判断することは至難の業です。表現手法の流れはわかっても、その手法を択ぶ根拠を知らないと、世の中は読めません。それを読めるという人は、読んだつもりになっているだけです。あるいは既に世の中に流布した解釈をなぞるに過ぎません。そういう行為を「読む」とは言いません。

昨年、ヨーロッパ文化部ノートに「日本人はコンセプトそのものを無視する?」というエントリーでアート作品においても言語化が重要であることを書きました。アート作品を展覧会で発表したときに、東京では鑑賞者から質問もでないのに対し、ローマでは質問が相次ぐ・・・こういう社会的傾向の差異を実際に直視し、そして「説明のない」日本の作品ーアートに限らずビジネスモデルも含めーが海外市場で困難に立ち向かう現実をみているぼくは、「言葉は対立を生むが、絵は質問を生む」に即うなづくには時間を要します。

そのようなところで「やっぱり、言葉以外のコミュニケーションだよね」とは言えず、それ以外の手段ー表情やそぶりなど五感レベルへのアプローチーが重要であることはぼく自身、ユーザーインターフェースの仕事をしていてよく理解します。またオリーブのような食品ビジネスなど、まさしく一見(!)非言語的世界です。言葉が棘を持ちすぎている今の風潮をも危惧しています。しかし、だからこそ、言葉の世界に還元せざるをえないことが世の中にはあまりに多い現実に、言葉を丁寧に扱いそのうえで言葉で立ち向かっていく覚悟の大切さをつくづく思います

そのとき、1968年のプラハの春を描いた加藤周一の『言葉と戦車』を思い出すのです。大袈裟かもしれませんが・・・。あるいは、管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』に「文章でこんなに言いたいことを伝えられるんだ!」と思うとき、言葉をそんなに悪く言うことはできないと感じます。因みに、ぼくは上記の後半のディスカッションで石をもって最初に発言した内容は「言葉以外の手段で伝えて分かることは、言葉の重要性を再認識することだ」ということです。そして「言葉という手段を独立して考えないこと」

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Category ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之