Date:16/4/9

今回はちょっとアングルを変えて話します。

イタリアの人が「世界の人はイタリアの食について、あまりに無知である」と欲求不満をもっていると聞くと意外に思われる方もいるでしょう。これほどに世界市場で成功している食もあまりない。「何が不満なの?」と聞きたくもなりますよね。しかし「パルミジャーノが何であるか分かっていない」「地方の料理がバラエイティに富んでいることが知られていない」「あまりに米国化したイタリア食ばかりが世界に広まっている」と言うのです。

イタリアの農産品・食品の年間輸出金額はおよそ3兆5千億円です。日本の昨年の数字が7千億円に近いとすると、5倍はあります。だから日本の食関係者は「イタリア食の成功をモデルとしたい」と語ります。「日本の酒が何たるか、全然知られていない」「和牛はオーストラリアのWAGYUと同じと思われている」「醤油はキッコーマンとウヤマサが全てだと思われている」という不満は、イタリア食ほどに世界で認知が高まれば消えていくだろうとの期待感も漂わせて。

しかしながら世界にこれだけ普及したと傍目には見えるイタリア食の関係者も、「本物が伝わっていない」と不満だらけなのです。ここから気づくことがいくつかあります。1つは、世界であるものが普及するとは、いわばスタンダード化したものの認知度が高くなるということです。別の表現をすれば、ステレオタイプへの寛容度が高まる。これは消費者だけでなく供給者においても、です。

だからこそ逆に、移民第一世代のイタリア食がステレオタイプの形成と定着に(結果的に)尽力し、ローカルで生まれた世代、創作系の新しい料理の担い手、テロワール的なテーマに関心のある人たち、この人たちが「より深い」イタリアの食を紹介しているからこそ、普及におけるレイヤー差により目がいくようになっている、とのストーリーが見えてくるのです。ステレオタイプであると批判を受けるのは、ステレオタイプではないものを知っている人たちが現れているとの反証ですからね。

2つ目、これは仮説ですが、イタリアの食関係者がこれほどに不満を抱えるのはハイコンテクストのタイプだからこそではないか、ということです。「パスタを味わうというのは、ボリュームも含めたことなのに、その重要な要素が入っていないじゃないか!」「テーブルクロスがない?なんて衛生観念が低いんだ」「時間をかけない食事なんて食事じゃない」という類の指摘が数多出てくる。出発の時間が遅れ、ものすごく急いでいるミーティングを前にして高速道路を150キロ以上で走り、その途中のサービスエリアで食事をするときに、「さあ、ワインは飲まなくちゃあ」と言う。

食空間に対する感度があり、食事のコースへのバランスに意見がありワインを選択する。これらを全て視野に入れて、イタリアの食スタイルが成立する。どこの国でも、そういうスタイルはありますが、ハイコンテクスト文化の国はそのスタイルのキープ度が高いというのが、ぼくの見立てです。(因みに、エドガー・T・ホールのリサーチの中では、イタリアはハイコンテクストとローコンテクストの中間ですが、ローコンテクストの北ヨーロッパと比較してハイコンテクストという位置にあります)

3つ目、食と住をトータルにライフスタイルとして「意識的に」おさえているところにイタリアデザインの特徴があり、それが(日本における懐石料理が日常の料理ではないのと対比して)日常生活をベースにしているがゆえに、様式美であるよりもカジュアルな美がより評価の対象になる。したがって、この文脈(あくまでも、この文脈で、ですよ!)において「本物の美」とはどこかの教科書で説明されていることではない、とぼくは思っているのですね。好き嫌いの要素も入り込みやすい。これで、ますます「本物が伝わっていない」欲求不満の背景が浮き彫りになってきますね。主観の強い本物ですから。

で、デザインです。

イタリアデザインはタイプとしてはハイコンテクスト文化であり、それは「人、モノ、スペース」の相互関係を重視しているから、と何度か書いてきました。それが自然との関係をみていたスカンジナビアデザインへの問いだった、とも。ハイコンテクストな傾向とは、「これが分かるには、あれが分からないといけない」との欲求が強いということでもあります。ローコンテクストが「あれが分からなくても、これだけで判断する」という傾向ですから、ハイコンテクストは効率と相いれないことも多い。ただし、一度うまくはまり込めば愛着の度合いが強いというか、そこから離れる動機を見出すのが大変であるわけです。

最後に。ぼくは本物という言葉に疑問をもっており、本物なんかどこにある?という気持ちをもっています。実はイタリアのデザインにある「本物なんかないけど、本物としか言いようがないからとりあえず本物と言っておく」というレベルのデザインが語りかけてくるものは、往々にしてコンテクストへの理解度でこちらを試してくるわけです。それも、ハイコンテクストとしてね。効率が悪く、しつこい。だから、やっかいなのです。このあたりに日本のデザイン研究者がイタリアで博士号を取りたがらない要因があるのなかなぁ・・・と想像したりして 笑。

 

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
Date:16/4/8

ファッブリカ・デル・ヴァポーレは不思議な場所です。もと工場だったのをミラノの新しい機運を生む場所とすべく市が動きだし、若いクリエイターや起業家のメッカにするという謳い文句のもと、期待が込められたのは10年以上前です。実際、「若いクリエイター」とは40才周辺の行政にコネがある人たちが多かったのですが、決して「つまらないことをやっている」人たちの溜まり場であったわけではありません。しかしながらトリエンナーレがミラノ工科大学の建築やデザインの学部があるボビーザに別館を作ったことで、ファッブリカ・デル・ヴァポーレは、ある意味、煮え湯を飲まされることになります。別館とその周辺にクリエーターのスタジオに脚光が浴びるような仕掛けができたからファブリカ・デル・ヴァポーレは劣勢に立たされたのです。それに追いうちをかけるように、デザイン学校であるスコーラ・デル・ポリテクニコやコンテンポラリーアートのギャラリーがあるランブラーテの周辺がフオーリサローネの重要なゾーンー特に北欧関係のクリエイターの展示の場所としてープロモーションを開始します。

ファッブリカ・デル・ヴァポーレは何からのイベントをそれなりに毎年サローネ時も開催してきました。また、ちょっと社会派を任じるこの場を好んでぼく自身は訪ねてきたのですが、どちらかというと外れたカードのムードは拭えなかった。

他方、この10年間はミラノの風景を変えました。1990年代後半から、ファッブリカ・デル・ヴァポーレ近くはかつては洒脱な住宅街だったゾーンが中華料理店や服などの卸しが占拠し、卸の客しか路面店の場所に近寄れなくなります。暴動や違法労働などで新聞の社会面を騒がせる地域となったのです(中国の高度経済成長と並行して)。が、このゾーンが再びトレンドにのった地域に戻りつつあります。オシャレなカフェやエノテカができたきただけでなく、中国人の経営する個人商店も世代が変わり店舗デザインにも気を使うようになります。路面は中国人街風であっても建物の2階上には中国人ではなくイタリア人の住居が多かったという背景もあるでしょう。予想より早い足取りで街の雰囲気が「正常化」してきたのです。それに加え、ファッブリカ・デル・ヴァポーレの近くに新しい地下鉄路線M5のモニュメンターレ駅ができました。

それだけでなく数年前、ボビーザのトリエンナーレ別館は閉鎖しました。ボビーザの駅を挟み、ミラノ工科大学のデザイン学部を中心とした地域の周辺には新しい開発がされているのですが、エネルギー学部やMBAなどがある反対側は地域発展から若干取り残され、トリエンナーレ別館ができても活性化ができなかったからなのか理由は分かりません。「あの地域」がファッブリカ・デル・ヴァポーレのライバルの地位から転げ落ちたのは確かです。もう一つ。ランブラーテのコアであったスコーラ・デル・ポリテクニコが市内の南に移転したのです。ここも相対的な求心力を失ってきているわけです。やや長い説明になってしまいましたが、10年ほどの苦労を経て、ファッブリカ・デル・ヴァポーレはやっと「まともな」ことができる環境になってきたのです。トリエンナーレの一環としての「New Craft」が、ここで展示されている意味を、ぼくはこう解釈しました。

「New Craft」に展示されているものは、3Dデータなどの新しいテクノロジーにより洋服をつくるプロセスが変わるとか、生活雑貨品の制作がよりオーダーメイド化されるとか、表現の対象はさまざまです。よくある工芸品の「アート化」現象もみることができます。ぼくは、ここでふと立ち止まります。クラフト品は嫌いじゃないのに、どうしてこういうスペースでみると、ぼくの腰がひけちゃうのだろうな、と考えました。家の中、小さな店、アンティークショップ、レストラン、これらの空間で出会うクラフトには心が休まったりするのに、クラフトをタイトルにした展覧会はあまり好きになれない。もったいぶった重さが苦手なんでしょうかね。それで正直言うと、「New Craft」にもあまり期待せずに出向いたのです。ただ、足を踏みいれて一つ心躍る例外がありました。それは自転車です。「自転車がクラフトのイメージリーダーになる!」との力を感じたのです。

自転車が都市空間の主役に躍り出てそれなりの時間が経過しています。先進国だけでなく新興国でも自転車は魅力的なツールになっています。バイクシェアリングも珍しいニュースではありません。インテリアやファッションの世界でも「小物」として自転車が登場します。単に「アンチ自動車」ではなく、スポーツやカジュアルな生活スタイルの定着のなかで自転車それ自身の力でステイタスを獲得してきました。そういう社会性も含めた上昇気流、外向きの明るさ、ファッション性などがクラフトを「跳ねる」ものとして表現されるー例えば、画像の一番上のバイクは漆塗りですーとクラフトの展覧会でも受け入れることができるのか、と気づきました。職人の心とか語るのはとりあえず脇において、クラフトよ、街へ! です。

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
Date:16/4/7

戦後、イタリアのデザインがスカンジナビアを超えたのは「人、モノ、空間」を重視したためだと(2)に書きましたが、住空間への目の配りようには並々ならぬものがあります。10年以上前に今は亡きガエ・アウレンティと話したとき、「私は(自分のデザインした)空間を前提としない家具や照明器具はある時からデザインしないことにした」とクラシックな言葉を聞き、そこに底知れないプライドを感じたものです。モノだけが先走ることを良しとしないというのは、コンテクストを重視することですね。つまりイタリアデザインはハイコンテクストの性格が殊更強い、ということになります。

そのポイントをもう一度見つめなおそうというのが、トリエンナーレ美術館で開催している「Stanze」です。これは意欲的であり、イタリアデザインを実感させてくれる展覧会です。特に各ルームのコンセプトが、どの本にヒントをもらっているとの説明は抜群に面白い!これを読まないと、この展示をみた意味はないでしょう。


さて今年のミラノデザインの目玉はトリエンナーレの復活です。トリエンナーレ美術館だけでなくさまざまな場所で分散して実施されますが、上記の「Stanze」以上に身体にドスンとくるのがトリエンナーレ美術館での「Neo Preistoria」(新先史時代)です。アンドレア・ブランジと原研哉が100の動詞を選んで、それにマッチしたモノを展示しています。まだ人類が服をまとわずに活動していた頃からの動詞ー「殺す」とかーからスタートして「仮想する」「極小化する」という現代まで至ります。他の展示を見なくても、この展示だけは見逃してはいけない。そういうレベルです。正直なところ、トリエンナーレ美術館は昨年のアートと食の展覧会がものすごく良かったので、冒頭で紹介した「Stanze」以外はやや残念な感は否めない。でもその残念さを帳消しにしてくれる力が「Neo Preistoria」にはあります。

この展示は鏡に囲まれた暗い空間に、一つの動詞がイタリア語、英語、日本語で記載されており、その意味も説明があります。その横に黒い台の上にガラスの展示ケースがあり、その中に展示品があるー小さなモノはーという形式をとり、番号順に1から追っていけばよいようになっています。これを見ながら気づいたのは、遠い昔の石を使った道具の時代にある動詞ー「磨く」-は、イタリア語、英語、日本語、どれをとっても共通の文化要素であることがあまり考えずに理解できます。これらはアンドレア・ブランジも原研哉もけっこうスムーズに言葉のリストアップができていったと思います。 しかし、現代に近づいてくると、2人の協業はどうだったのか?という興味がわいてきます。「拡張する」(expand)とか「極小化する」(minimize)というのは、日本語では一言の動詞ではありません。一方、イタリア語と英語は一つの動詞です。原研哉が最初から英語なりでリストアップしていれば違いますが、どうも日本語の言葉をみていて、そうではない印象をもったのです。

「あっ、近代哲学が日本に輸入された時の苦労そのものが表現されているな」と感じました。欧州近代哲学が日本で定着しづらかったーあるいは結局において定着することはなかったーのは、欧州言語においては日常的な言葉であるにも関わらず、日本語に翻訳するに際して対応する言葉がなく、漢字で熟語を作ったわけです。抽象的な表現は殊にです。この翻訳努力が文明開化を完遂させた一方、思想的なエッセンスは身に着かなかったーいわばコンテクストなしの言葉ではコンセプトを総体的に理解するのは難しい.ーという反省を強いることになりました。その延長線上に(やや無理な)日本文化への固執があるのですが、まったく企画者が意図していなかったであろう日本近代の歪んだ点を、この展覧会で日本語を理解するぼくは確認せざるをえなかったのですね。

コンピューターにせよ、ヴァーチャル世界にせよ、イタリア人も英国人も動詞として掴んでいる。でも日本語の世界では、やや遠回りした硬い漢字で理解しないといけないわけで、「これは極めて不利だなあ」と思わず独り言を言ってしまいました。グローバル化が進んでいるITの分野になればなるほど、かつてあった共通性の高い「動詞という性格」の道具が文化性を帯びてくるというように見えてしまうパラドックスがある。不思議な感覚です。

いずれにせよ、鉄器時代や石器時代という時間や地域のカテゴリーから石や鉄の道具をみていくのではなく、「研ぎ澄ます」「渡る」「崇める」「射る」といった動詞からモノをみると一瞬にして世界の歴史を身体で感じることができる、というのは今後いろいろなモノをみていくときの参考になる見方です。名詞ではなく動詞で世界を掴めとか頭では分かっていても、なかなかできるものでもない。でも、その癖をどうやってつけていくか? そのヒントは十分に得られます。

 

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
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