Date:16/4/20

デザインウィークの面白さの一つは、才能ある若い人たちに会えることでしょう。それも誰かに評価された才能の確認ではなく、何気なく偶然に出会う才能です。偶然といっても、あるゾーンがあります。サローネサテリテ、ランブラーテ、トルトーナの出会える確率は高いかしれないけど、ブレラ周辺は既に評価を受けている才能になります。もちろん既に評価を受けているか、まだ評価を受けていないかは、ぼくの知る範囲のことであり、何らかの近しい人の評価によって背中を押されている場合が多いのでしょう。若いという基準は、この場合、30代の半ばくらいまでですかね。サテリテの出展基準も35才までだし。

レクサスのデザインコンペで最終選考に残っていた作品は既にある程度評価されているとみてよいかもしれないですが、ぼくは審査中の作品からカナダ人のアンジェリン・ローラ・フェヌータさんが気になっていました。モジュール型のデザインで着る人の好みに対応するというプロトタイプの写真をみて、そのシルエットが柔らかいと思ったのですね。モジュール型というとプロダクトデザイナーの発想によるような気がするのに変だな?と。なぜぼくはそう思ったのでしょうか?

数年前、このブログでも「プロダクトデザイナーのデザインしたファッションはどうしてダサいのか?」というテーマについて書いたことがあります。カーデザインの巨匠のジュージャロでさえファッションデザインはあまりかっこよくないのです。ご本人が着ているファッションはかっこいいのですが。それで「プロダクトデザイナーの弱点克服講座」というワークショップをやってみたことがあります。プロダクトデザイナーは静止画でアイデアを作る。一方、ファッションデザイナーは動画によりシルエット。輪郭をきっちりと描くトレーニングを受けたプロダクトデザイナーは、流れるようなイメージができにくいようです。そこでファッションデザイナーに講師になってもらい、プロダクトデザイナーにモノの見方やシルエットのつくり方を教えてもらったら、プロダクトデザイナーもコツがわかった様子。

そういうわけでフェヌータさんというロンドンのセントラル・マーチンズでファッションを学んでいる学生が、どう輪郭の陥穽に落ちないでシルエットを確保することを意識したのか?は興味がありました。彼女に「プロダクトデザイナーのファッションデザインはダサいよね」と言ったら、「そう、そう!」とニコニコしながら返事。いろいろと聞いていったのですが、一枚のテキスタイルだから自由なシルエットが作れるわけではない、その壁を超えるにモジュールというシステムアイデアに至ったのですね。一枚のテキスタイルという素材から手をつけていく。最近、素材の存在感を出すため(あるいはリサイクル目的)にファッション化する試みを色々とみますが、このモジュールはそういうところからの発想ではない。そこにフェヌータさんの頭の働きには何か面白いものがあるのではないか、と感じました。

ランブラーテで展示をしていた日本のTAKT Project の作品も、メンバーの頭の働きに「これは何かありそうだ」と思わせるものがありました。彼らも既に評価を受けている人たちの部類に入るのでしょうが、その彼らが「何か分からないけど、こんなのどう?」とカジュアルに見せているのは良いです。アクリルの立体の中に電子部品が入っていて、アクリルの中が光ります。スマホのアプリで明かりを調整もできます。ぼくが面白いなと思ったのは、多くの人は、まずその美しさに目を奪われ、それが何であるかは分からずともただじっと見入るのです。アクリルの中に物理的なモノを入れ込むのは、それこそ倉又史郎の椅子もそうだし、ぼくの友人のアーティストである廣瀬智央さんの作品にもあります。ある世界観を瞬間的に閉じ込めた感があってかなりドキッとします。

「アート作品とみられてもいいのですが、新しい家電の可能性を示すかもしれないとぼくたちは考えているんですよ」とTAKT project の本多敦さんが説明してくれます。なるほど、なるほど。この人たちは、これを単なる一つの電気製品のデザインのバリエーションとしてとも考えていないのだろうなと、ぼくは想像します。一バリエーションなどというのは「志の低い」言葉であり、もっと空間やインターフェースそのものにイノベーションをおこすヒントにならないかと考えているのでしょうね。でも、そういうことはあまり言わないで、小さいオブジェで語りかけるわけですね。それがいい。

まったくの印象なので当たっているかどうかまったく分からないのですが、かなり前からサテリテをみていても、メカニカルやエレクトロニクスの要素のあるアイデア勝負の作品って日本の若い人に多いような気がしています。先週、石巻工房の(2008年ころにはサテリテに出展していた)芦沢啓治さんと話していた時、「スカンジナビアの若い人は家具のつくり方とかうまく、パッと見てスカンジナビアって分かりますよね。それに対して、イタリアの若い人の作品はイタリアとは分からない。日本の人の場合は不足感みたいので、日本の人と感じますね」と語っていました。この日本の人の不足感というのは、サイズだったり、色だったり、コンテクストとの相性の不足だったりという点でぼくも思うのですが、一方で何かゴソゴソと電子部品なんかも使いながら作り上げてきたのは日本の人、という感じがするわけです。これは良い意味で。

それも当たり前のようにデザインを意識している。印刷回路の作品を出していたAgICの杉本雅明さんも「ぼくたちの世代ではデザインを考えるのはもう前提っていう感じがあって、シリコンバレーなどと違うところで勝っていくには、文化の多様性に対応できることだと思うのですね」と話しています。これはローカリゼーションマップをやっているぼくにとっても嬉しいコメントです。日本の大企業の展示を見ていると、相変わらず大がかりで硬いだけがとりえで、カジュアルな新しいコンセプトに縁遠いことが多いのですが(どうしてもスーツの内ポケットから出してくる感じがあるんだあ)、中小企業、ベンチャー企業、個人の展示には新しい息吹を感じるものも少なくないです。実際の世の中の変化は、こういうところから起こってくるでしょう。きっと3-5年もすれば、ミラノデザインウィークの風景もガラリと変わっていくはずです。本多さんや杉本さんのような作品がもっと主流として見られるようなカタチになっていると思います。

下の写真2つは、©TAKT PROJECT

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
Date:16/4/18

日本の漫画が教科書的説明の補助に使われたりしても、「漫画みたい」という表現はあくまでも「バカみたい」という意味であるケースが殆どでした。平面的な描写が浮世絵的であるという流れで歴史文化背景を説明したとしても、「漫画は知的表現である」と言われるのは、あまりないことでしょう。あくまでも「空想的」「非現実的」が漫画的という言葉の指す中身だっと思います。繰り返しますが、コンテンツとしての知的レベルの高い面白さがあったとしても、漫画が比喩するモノはそういうことだったのです(という理解は的がはずれているのかな?)。だからnendoが漫画の椅子を50脚を展示すると聞いたとき、一瞬、クールジャパンの何かを始めたのかと思ったくらいで、その展覧会をみるまでどういうことを意図しているのかよく分かりませんでした。

会場でモノをみて合点がいきました。これはほんとうに漫画と呼ぶしか言いようがない椅子が並んでいるのです。脚が歩いているようだったり、マンガのセリフの吹きだしそのもののカタチが椅子についていたり。それこそ、一つ一つはバカみたいです。実に何ともない。だからこそローカル言語であった漫画がいつの間にかユニバーサル性を獲得しはじめている状況をうまく逆手にとった発想に、ぼくは感心しました。これは状況説明の展示だと。

「無用の用」の極みとのカタチの数々をみながら、数日前にみたコルソ・コモ10で開催されているGufram の展覧会を思い出しました。グフラムは家具に初めてポリウレタンを採用したメーカーで、ここでは50年の歴史を振り返っています。60年代のラジカルデザインの作品の数々は、それまでの機能をアシストするデザインに反旗をひるがえし、「これ、どうやって使うの?」というものを世に問うていました。

ここでぼく自身のことを振り返ると、トリノでぼくが活動をはじめた当初に知りあった建築家が、唇をイメージしたソファ BoccaをデザインしたStudio65のメンバーでした。そしてこの建築家に紹介された家具メーカー(ぼくが初めて訪問したイタリアの家具メーカー)がグフラムだったのです。90年代前半です。「日本市場に関心がある」と、よくある打診です。が、その頃、ポストモダンもビジネスになりにくいと言われているだけでなく、バブル経済が崩壊して「こういうのもあっていいんじゃない」というデザインには距離感をもっていた時代なので、ぼくはかなり怯みました。「う~ん、これらを商売とするのは成功率が低そうだ」と唸りました。一応は日本でも反応はみたのですが、案の定の否定的な返事しかありません。ぼくが日本のデザイン雑誌などでGuframの家具を一品ものとしてースタイリストが作る空間の小道具としてー見かけるようになったのは今世紀に入ってからです。要するに、バカにするには楽しい。が、これ一つを買うには、これをアンチとする大きなコンテクストの用意がないと面白がれるものでもない。

一方、90年代、日本のアニメや漫画が欧州で人気があると一部で「囁かれて」いましたが、パブリックな情報というよりも、あくまでも知る人ぞ知る情報にとどまっていました。80年代にフランスのTV局がコンテンツ不足を補うために日本のアニメを使ったというのは、この10年くらい、後になって知ったことです。

いずれにせよ漫画は表現としてはローカル言語であり、日本の企業がビジネスシーンで漫画をコンテンツ以外に漫画の表現をまともに海外で使うこともあまりなかった(ルイヴィトンが村上隆のアートを採用したとしても)。ハロー・キティなどのキャラクターの浸透と漫画の浸透がどう絡み合ったか並行したのかわかりませんが、「バカみたい」な漫画表現がポストモダンの流れの中に実は「正々堂々」と入ってきているのではないか?という鳥瞰図を見せているのが、今回の展覧会の示唆するところかなとぼくは思いました。

ただそれだけといえば、ただそれだけ。でも、ただそれだけでも、ある一歩を見せてくれることもある。そういう心境です

 

 

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
Date:16/4/12

レクサスのEUでの年間販売台数は5万を越えるが6万には至らない。リーマンショックで台数が減った後、ハイブリッドなど車種を増やしてきたにも関わらず、です。米国の20万に遠く及びない。この欧州と米の差がとても興味深いところです。どうしてこうも売れないのでしょうか。それをこの10年間ほど、レクサスがミラノフオーリサローネに出展をはじめた2005年からずいぶんと考えてきました。

ミラノでの出展が販売結果に直結する確率は低いでしょうが、レクサスがブランド向上を図る「思考実験」(レクサスのブランド戦略を考える方法)としてみると、ここで頷ける点が多いかどうかは一つの指標になるだろうと思ってきました。石上純也氏、吉岡徳仁氏、乾久美子氏と続いたころの展示は、ほとんど欧州の文化土壌を踏まえていない一方的なプレゼンであると、ぼくの目には映りました。特にデザインフィロソフィーのL-Finesse (先進技術と物言わぬ美学的な文化の融合)が、高級量産車の顧客の耳には届かないだろうに、ここを強調するところに無理を感じました。

2008年のnendoによる展示が女性イメージから男性イメージへの転換を思わせ、マーケティング的な側面での期待を抱かせてくれます。というのもエクステリアはさておき、コックピットのインターフェースが「なよなよしている」という欧州人の声をずいぶんと聞いていたので、少なくても女性イメージを増加する方向は得策とは見えなかったのです。しかしながら、藤本壮介氏の次年度にもその路線が続くというわけでもなかった。結論として、これら5年間の(今から見る)前哨戦イベントはクルマが売れるためのマーケティングにはあまり役立たないだろう、と見る人に思わせるものだったと言えます。

2013年から、L-Finesseを取り下げるわけではないですが、若い人を対象にしたデザインコンペを行い、イベントの名称をLexus Design Amazing Milan と変更します。クルマそのものがメインに展示されるのではなく、デザインの方向性を純粋に探る体裁をとりながら、レクサスブランドに重層性を持たせようとの意図が感じられました。世の中でソーシャルイノベーションやソーシャルデザインに目が向いてきた時代において、そうした要素を入れることで「レクサスはがっついた成金ばかりをファンにつけるつもりじゃないんだよ」と牽制しながら語り始めたような印象をもちました。欧州のラグジュアリーブランドがある程度成功したところで、文化財団をもち美術や若者に投資するー欧州貴族における勲章はキャリアに対してではなく、これから伸びるであろう若き才能に箔をつけるもので、それによって勲章を与える側も高い位置に立つー戦略と似たところに居場所をおいたのだと思いました。

・・・とは言うものの、何らかの強い確信がみえたかというとそうでもない。紆余曲折感は拭えないにせよ、それはトヨタがもつ美点である試行錯誤の一つであると見るべきではないか、と徐々にぼくも考え方が変わってきます。あいかわらずL-Finesseがちょっと顔を出すのが玉に瑕にせよ、レクサスが高級ブランドになりたいとの欲をもち、成功するための思考プロセスを公開しながら検討しているのだと見るならば、販売実績とはまったく違うレベルで観察することができます。この観点でいって、今年の展示にオランダのフォルマファンタズマを迎えたのは良い選択です。ぼくがそう思う理由は、マーケティング主体のインターナショナル(言語の)デザインと地域アイデンティティを重視するローカル(言語の)デザインの狭間で迷い続けてきたレクサスというブランドに、地域、伝統、文化をキーワードに活動するフォルマファンタズマはフィットするはずだからです。(多分、このあたりのテーマに興味のない見学者にとっては、彼らの登場に格別の面白味を感じないかもしれない)

彼らがトヨタは織機の会社からスタートしたことを知り、日本の建築空間にある障子の曖昧な光に興味をもち、トヨタの工場でのロボットと手作業の分業に目がいった。その結果として色が塗られた多数の糸がみせるクルマの姿(ここで聞こえるノイズは工場の生産現場の音)は、一瞬、2006年の吉岡徳仁氏の空間ー無数の糸の向こうにクルマが透けてみえるーへのオマージュ的であり(デザイナー本人のコンセプトに、それはなかったと否定しています)、ユニバーサルとローカルな言語のバランスが良いと思いました。そこで、ぼくはフッと考えます。2006年の展示にあまり納得がいかなかったのに、どうして似た表現に首肯するのかと。一つは前に書いたように、ぼくの見方が変わったのもあるでしょう。あるいは、吉岡徳仁氏の表現にはユニバーサルとローカルの配分は伺えなかったが、フォルマファンタズマにはそれが見て取れる、ということもあります。

彼らーアンドレア・トリマルキ氏とシモーネ・ファルジン氏ーに、「レクサスのクルマのコックピットに対して、何が不足していると思う?」と聞いてみたら、クルマはいわば門外漢であると断ったうえで「自然素材とシンプルさ」という2点を挙げてくれました。これほどにミニマリズムやシンプルな美を主張してきたレクサスが、実際のところ、それらの点に不足点があるとみられるのは皮肉です。でもとても的確な意見であり、レクサスは今回の展示に限定しないカタチで、フォルマファンタズマと付き合っていくのが良いのではないかとぼくは考えました。この(1)でも書いたように、繰り返しますが、デザインの2つの言語の微妙な使い分けが現代のデザインの勝負所です。それはグローバル製品のローカリゼーションを下に見るような視点ではなく、あるいはブランドの確立に急ぎ足になるためにローカル言語を使い過ぎるレベルからも離れた地点にあります。

最後に。このレクサスの会場の近く(Via Vincenzo Forcella 7) で慶応大学SDM (システムデザインマネージメント)の学生やOBが展示しています。印刷回路や薬を飲みやすくするストローなどがあります。すごく分かりにくい路地を入って、番地に行きついてもそこから該当の場所にたどり着くのも一苦労します。しかし、美大系デザインではない工学系のデザインの人たちが、サローネのサテリテでもなく(彼らは去年サテリテに出ました)フオーリに参加するようになったのは、日本のミラノデザインウィークへの見方の変化とフオーリサローネの質的変化を物語っています。この視線からみると、レクサスの展示も変化して当然ということにもなります。トルトーナに行ったら両方を見比べてみてください。

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
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