Date:11/9/2

9月に入りました。そこで、『ヨーロッパの目 日本の目』に書いたエピソードを思い出します。アイルランドの友人が長い海外生活を終え、ダブリンに久しぶりに戻ったとき、両親が「9月に入ったから、そろそろクリスマスの準備を考えないとね」とつぶやきました。それを聞いた友人が、「もうクリスマス?」と季節や時間の感覚に対して大きなギャップを感じたのですが、実は小さなことでありながら、とても大きな差異の象徴的なことであったと後になって気付きます。

いわゆる年中行事や伝統行事に対するアプローチは、その土地やその習慣にどの程度「はまりこむか」が表現されています。友人の両親の世代では夏が終わり、9月に入ればクリスマスを考えることが当然だった。それだけイベントが少なかったとも言えますが、それだけクリスマスが重要なポジションを占めていたのでしょう。そして、それは家族や親せきの結束をも暗示しており、この「固さ」が友人家族にその後、窮屈な思いをさせることになります。

ある年中行事そのものが嫌いではないのに、それにまつわる「面倒」を回避するために、行事自身に消極的になるという事例です。日本でもおせち料理が嫌いではないけれど、その準備や親せきとのつきあいを考えると、正月はどこか旅先で過ごしたいという人たちがいます。欧州でも、クリスマスは相変わらず重要な家族のイベントで一緒に過ごすことが「義務」のようになっていますが、この数年感じる変化は、クリスマスの食事が終わったら、そそくさとリゾートに出かける率が高まり、なおかつ、その日が早まりつつあることです。25日に皆で集まったら、翌日は即スキー場に向かうといった具合です。

重要なイベントは維持しながら、その時間が準備も含めて短縮化されるわけです。それがイベントの濃度を上げるか?といえば、そうではないでしょう。希薄化の傾向のほうが強いはずです。年中行事はその時だけでなく、その前後の長い時間をもって成立しているのですから、その特別な日だけにエネルギーを費やし自己満足度が高くとも、本来の文脈でいうならば、「テーマパーク的」であると評されても仕方がありません。ですから、年中行事が商業的なイベントとして、さまざまに地域を越えて拡散するという現象もあります。いつの間にか、日本でもイタリアでもハロウィンが普及した様子をみると、「もっと正月とか、クリスマスの方にエネルギーを費やすのが妥当では?」とも思うことがあります。

そう、そう、何から何まで付き合っていられません。となると、年中行事も世界のいろいろなものを自分で選択して「自分流」にしている以上、必要なのは「自分にとって重要な行事に如何に長期的に向き合うか」ということかもしれません。これが「文化選択の時代」の一つのカタチなのかなとも思います。すなわち、世界にある、さまざまな習慣や考え方が、それぞれの土地にある文脈から切り離され新たな構成を図るーアラカルト的にーことを志向する人が増加したのが、20世紀後半以降の特徴であり、それを現実に可能としはじめたのが、この20年くらいなのではないか、という印象があります。

しかしながら、その自分流の「甘さ」に飽きもきて、より土地への愛着を増す方向が強くなるとの流れもあります。伝統的社会にどっぷりつかてきた人ではない人が、伝統的な社会の良さを再発見するパターンもあるし、宙ぶらりんのポジションに疲れて「地に足をつける」ことを希求することもあるでしょう。「テーマパーク」で人生を終えることはできないのです。

 

Date:11/8/20

世の中には「正しい」と称される表現が数多く流通しています。三人称を”he/she “と併記することや、女性を未婚か既婚で区別しないために”Ms.”と表記することも「正しい」行為のひとつとなっています。「めくら」を「視覚障害者」と言うのも、そうです。ある立場を低めることを表現上回避するわけです。これらに対して、「表現を変えれば良いわけじゃない。意識が問題なんだ」と声を大にする人たちもいます。「いや、表現に意識が表れるんだ」と反論をするのが、「正しい」を強調する人たちです。

管さんの本書については、日経ビジネスオンラインの記事で紹介しました。が、テーマが少々ずれるので記事で引用はしなかったのですが、どうしても書き留めておきたい部分があります。それは序章にある「アメリカ・インディアンという呼び名について」「歴史の皮肉を忘れないために」です。この4ページ少々を読むだけでも、本書を買う価値はあるだろうと思います。それだけ、問題のありようー先住民を何と呼ぶかーに力強く迫っています。「ネイティブ・アメリカン」という表現の奇妙さーその表現を使う人間の表情が「正しさ」が満ちていたりする!ーを避け、「アメリカ・インディアン」とあえて呼ぶ理由が、ここには書かれています。

「アメリカ・インディアン」のアメリカはイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチに由来し、コロンブスが「インド」と勘違いした土地であったから「インディアン」となった便宜的な位置づけであると説明した後に次の文章がきます。

かといって、時として主張される「ネイティブ・アメリカン」という呼び名も、これより特にすぐれているわけでもないのだ。「ネイティブ」つまり「土着の」という単語には、やはり蔑称として使われた歴史があるし(「大英帝国」とその言語が支配を及ぼした世界中で!)、「アメリカン」といえば「アメリカ合衆国籍の」という含みが強く出てくる。

「ネイティブ・アメリカン」とは、端的にいって「アメリカ合衆国領土内に居住する先住民」を意味するが、これではハワイ諸島先住民をはじめとする太平洋諸島州や、環北極圏住民のうちアラスカに住むユビックやイヌビアットといった、「アメリカ・インディアン」とはまったく異なったグループの人々までも含むことになる(事実、公式の場で「ネイティブ・ハワイアン」その他の細分化された呼称はいよいよ多く使われるようになっている)。

<中略>

これに対して、「アメリカ・インディアン」という呼び名は、そのまったくの無根拠性によって、かえってヨーロッパ人による幻想の命名を、その幻想のレベルに保持することができる。「ネイティブ・アメリカン」という呼称のほうが「政治的に正しい」とするときの「政治」とは、あくまでもアメリカ合衆国という国家の国内政治のことにすぎない

実に切れ味が良い言葉が続きます。人とは「人々」と「人間」と呼んで生活してきたのであり、上述のような呼称はある立場からの見方を表現しているに過ぎないのだから、便宜的なところにとどまる意味を逆に問うのです。全角度からみた「正しい呼称」がないのだから、ある呼称がもつ見方を認識するほうがより重要ではないかという立場にたちます。

われわれはヨーロッパ人の視点に加担するつもりはない。そういいきって、「アメリカ・インディアン」という呼び名をすっかりやめてもいい。しかしむしろ、「インディアン」というヨーロッパ人からの呼び名を使うことによって、ある歴史の痕跡をいつも記憶にとどめよう、という態度もあるのではないか

ここには「正しい」表現に神経症的に拘り全体を見失う陥穽を正面に見据え、早足ではなくふつうのリズムでうまく「落とし穴を跨いでいる」と思います。見事です。世界は大ざっぱにしかとらえることができず、大切なのは、どう大ざっぱなのかが説明できることではないかと思うのですが、管さんの「ものの見方」がまさしくそうです。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:11/8/12

かつて不特定多数の人間に情報を発信できるのは特権的なことでした。すなわち、情報の所有は非対称であり、そこに権力や権威が付随したのです。ネットが発達して情報の非対称性が崩れつつある今、権威の分散化が起こっています。マイナーな雑誌の告発記事が黙殺されていたと同じように、無名の人間のヴァーチャル情報も大部分はほとんど誰の目にも触れず、地に埋もれていきます。しかし、あるテーマに特化して情報を集中的に送り込んだ場合、発信者がどんなキャリアであろうとー無名であろうとー、人の注目を集めることが起こりやすくなっています。3月11日以降にTwitterのフォローワーを急激に増やしている人の発信内容などは、その一例です。

インテリジェンスの専門家は「公にされている情報を読み込めば、コトの真相がほぼわかるものだ」と語ります。新聞の社会面の片隅に掲載された小さな事件のディテールも、背景を読みとっていくと全体像のパズルの一つとなり埋めこむことができます。現場感覚の一つとも言えるでしょう。それぞれのメディアにはそれぞれの異なった性格があり、「書く背景」と「書かない背景」があるはずです。受信者は、それをメディアの社会的あるいは経済的な枠組みのなかで「想像」できることが必須だと思いますが、ぼくが最近特に不思議に感じることがあります。これほどにネットで受信者だけでなく発信者としての機会をもち、実際にブログやソーシャルメディアで発信しているわりに、他の発信者への「読み」がこなれていないケースが多すぎる、ということです。マスメディア全盛の世の中ならいざしらず、です。

情報の流通に対する基本原理に無関心なのでしょうか?

世の中は、メディアを通しては語りきれないほどの矛盾を抱え、限りなく混沌とし、真実はとらえどころがないほど複雑である。「メディアはウソをつく」とひと言で片づけるのはたやすいが、メディア社会に生きる私たちは、メディアがもたらす利点と限界を冷静に把握し、世の中にはメディアが伝える以外のことや、異なるものの見方が存在することを理解し、社会に多様な世界観が反映されるよう、メディアと主体的に関わっていく責任があるのではないだろうか。そうした意味で、「メディアは現実を構成したものである」ことを出発点に、メディアを理解していくメディア・リテラシーは、情報社会に生きる私たちにとっての「基本的な読み書き能力」になるに違いない。

本書の発行は2000年です。よって、ここで書かれているメディアに当然ネットが含まれていますからーメーンはマスメディアですがー、「メディアはウソをつく」と批判する対象は、一般の人自身が発信しているネットメディアも射程に入ります。すなわち、「メディアはウソをつく」というセリフは自己批判していることになります。しかし、考えるべき問題はその前にあり、「真実はとらえどころがないほど複雑である」現実の認識の仕方がどうあるべきか、というテーマが立ちはだかっています。ただ、そこに直球で問いかけても誰も回答をくれません。それは、メディアというミラーに投影された様相を見ることによって現実を知るしかないからです。ちょうど、自分という人間が他人の目を通じてしかわからないように。だから、ミラーのサイズや磨き具合やゆがみを、それぞれのミラーに対して勘をもっていないといけないわけです。

菅谷さんが各国のメディア教育を取材してみたのは、子供たちなりにマスメディアの発信者であった場合に考えうることを体験させることです。動画であれば、どういう構成にすると効果的であると考え、どのようなテクニックを用いるか、と。動画の特質を理解するには、言葉を学習するのと同じように、しかるべき方法で学ばないといけないのです。それらの学習の結果、メディアの受信者としての態度が変化してきます。少なくても、表現により注意深くなるはずです。

ぼくは、まさしくこの文脈で、前述したようにネットで発信する経験を積みながらも、受信情報に対して極めてナイーブな人が多いことに頭を捻るのです。たとえば、マスメディアの情報に過剰に否定的になり、ネットの誰とも分からない人の情報に過度に信頼を寄せる、というアンバランスです。このような理由で、メディア・リテラシー(「メディアが形づくる「現実」を批判的(クリティカル)に読み取るとともに、メディアを使って表現していく能力のことである」)の向上は、ぼくにとって非常に大きな関心事となっています。どうすれば、上記のアンバランスを解消できるか?今までのメディア教育に足りない決定的なポイントがあれば、何なのだろう?と色々と疑問がわいてくるのです。それを人間への基礎的理解力の欠如というレベルで捉えてはいけない、何かがあるのではないか?いや、そのレベルがやはり議論されるべきとするなら、どういう人間教育が必要なのだろう・・・と疑問は延々と続きます。

ルネサンスの絵画もモーツァルトの音楽も、十分に楽しむには学習が必要です。近代印象派の絵画もそうです。あるいは21世紀の小説を読むにも、実は学習が必要なのではないかと思います。文芸春秋で芥川賞作品の各審査員の講評を読むと、小説の作り手としての経験が物語ることは少なくないとも再認識します。ゆえに、現代のメディアが例外であるはずがない・・・そのことを、再度、考えています。

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  |