Date:16/4/18

日本の漫画が教科書的説明の補助に使われたりしても、「漫画みたい」という表現はあくまでも「バカみたい」という意味であるケースが殆どでした。平面的な描写が浮世絵的であるという流れで歴史文化背景を説明したとしても、「漫画は知的表現である」と言われるのは、あまりないことでしょう。あくまでも「空想的」「非現実的」が漫画的という言葉の指す中身だっと思います。繰り返しますが、コンテンツとしての知的レベルの高い面白さがあったとしても、漫画が比喩するモノはそういうことだったのです(という理解は的がはずれているのかな?)。だからnendoが漫画の椅子を50脚を展示すると聞いたとき、一瞬、クールジャパンの何かを始めたのかと思ったくらいで、その展覧会をみるまでどういうことを意図しているのかよく分かりませんでした。

会場でモノをみて合点がいきました。これはほんとうに漫画と呼ぶしか言いようがない椅子が並んでいるのです。脚が歩いているようだったり、マンガのセリフの吹きだしそのもののカタチが椅子についていたり。それこそ、一つ一つはバカみたいです。実に何ともない。だからこそローカル言語であった漫画がいつの間にかユニバーサル性を獲得しはじめている状況をうまく逆手にとった発想に、ぼくは感心しました。これは状況説明の展示だと。

「無用の用」の極みとのカタチの数々をみながら、数日前にみたコルソ・コモ10で開催されているGufram の展覧会を思い出しました。グフラムは家具に初めてポリウレタンを採用したメーカーで、ここでは50年の歴史を振り返っています。60年代のラジカルデザインの作品の数々は、それまでの機能をアシストするデザインに反旗をひるがえし、「これ、どうやって使うの?」というものを世に問うていました。

ここでぼく自身のことを振り返ると、トリノでぼくが活動をはじめた当初に知りあった建築家が、唇をイメージしたソファ BoccaをデザインしたStudio65のメンバーでした。そしてこの建築家に紹介された家具メーカー(ぼくが初めて訪問したイタリアの家具メーカー)がグフラムだったのです。90年代前半です。「日本市場に関心がある」と、よくある打診です。が、その頃、ポストモダンもビジネスになりにくいと言われているだけでなく、バブル経済が崩壊して「こういうのもあっていいんじゃない」というデザインには距離感をもっていた時代なので、ぼくはかなり怯みました。「う~ん、これらを商売とするのは成功率が低そうだ」と唸りました。一応は日本でも反応はみたのですが、案の定の否定的な返事しかありません。ぼくが日本のデザイン雑誌などでGuframの家具を一品ものとしてースタイリストが作る空間の小道具としてー見かけるようになったのは今世紀に入ってからです。要するに、バカにするには楽しい。が、これ一つを買うには、これをアンチとする大きなコンテクストの用意がないと面白がれるものでもない。

一方、90年代、日本のアニメや漫画が欧州で人気があると一部で「囁かれて」いましたが、パブリックな情報というよりも、あくまでも知る人ぞ知る情報にとどまっていました。80年代にフランスのTV局がコンテンツ不足を補うために日本のアニメを使ったというのは、この10年くらい、後になって知ったことです。

いずれにせよ漫画は表現としてはローカル言語であり、日本の企業がビジネスシーンで漫画をコンテンツ以外に漫画の表現をまともに海外で使うこともあまりなかった(ルイヴィトンが村上隆のアートを採用したとしても)。ハロー・キティなどのキャラクターの浸透と漫画の浸透がどう絡み合ったか並行したのかわかりませんが、「バカみたい」な漫画表現がポストモダンの流れの中に実は「正々堂々」と入ってきているのではないか?という鳥瞰図を見せているのが、今回の展覧会の示唆するところかなとぼくは思いました。

ただそれだけといえば、ただそれだけ。でも、ただそれだけでも、ある一歩を見せてくれることもある。そういう心境です

 

 

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
Date:16/4/12

レクサスのEUでの年間販売台数は5万を越えるが6万には至らない。リーマンショックで台数が減った後、ハイブリッドなど車種を増やしてきたにも関わらず、です。米国の20万に遠く及びない。この欧州と米の差がとても興味深いところです。どうしてこうも売れないのでしょうか。それをこの10年間ほど、レクサスがミラノフオーリサローネに出展をはじめた2005年からずいぶんと考えてきました。

ミラノでの出展が販売結果に直結する確率は低いでしょうが、レクサスがブランド向上を図る「思考実験」(レクサスのブランド戦略を考える方法)としてみると、ここで頷ける点が多いかどうかは一つの指標になるだろうと思ってきました。石上純也氏、吉岡徳仁氏、乾久美子氏と続いたころの展示は、ほとんど欧州の文化土壌を踏まえていない一方的なプレゼンであると、ぼくの目には映りました。特にデザインフィロソフィーのL-Finesse (先進技術と物言わぬ美学的な文化の融合)が、高級量産車の顧客の耳には届かないだろうに、ここを強調するところに無理を感じました。

2008年のnendoによる展示が女性イメージから男性イメージへの転換を思わせ、マーケティング的な側面での期待を抱かせてくれます。というのもエクステリアはさておき、コックピットのインターフェースが「なよなよしている」という欧州人の声をずいぶんと聞いていたので、少なくても女性イメージを増加する方向は得策とは見えなかったのです。しかしながら、藤本壮介氏の次年度にもその路線が続くというわけでもなかった。結論として、これら5年間の(今から見る)前哨戦イベントはクルマが売れるためのマーケティングにはあまり役立たないだろう、と見る人に思わせるものだったと言えます。

2013年から、L-Finesseを取り下げるわけではないですが、若い人を対象にしたデザインコンペを行い、イベントの名称をLexus Design Amazing Milan と変更します。クルマそのものがメインに展示されるのではなく、デザインの方向性を純粋に探る体裁をとりながら、レクサスブランドに重層性を持たせようとの意図が感じられました。世の中でソーシャルイノベーションやソーシャルデザインに目が向いてきた時代において、そうした要素を入れることで「レクサスはがっついた成金ばかりをファンにつけるつもりじゃないんだよ」と牽制しながら語り始めたような印象をもちました。欧州のラグジュアリーブランドがある程度成功したところで、文化財団をもち美術や若者に投資するー欧州貴族における勲章はキャリアに対してではなく、これから伸びるであろう若き才能に箔をつけるもので、それによって勲章を与える側も高い位置に立つー戦略と似たところに居場所をおいたのだと思いました。

・・・とは言うものの、何らかの強い確信がみえたかというとそうでもない。紆余曲折感は拭えないにせよ、それはトヨタがもつ美点である試行錯誤の一つであると見るべきではないか、と徐々にぼくも考え方が変わってきます。あいかわらずL-Finesseがちょっと顔を出すのが玉に瑕にせよ、レクサスが高級ブランドになりたいとの欲をもち、成功するための思考プロセスを公開しながら検討しているのだと見るならば、販売実績とはまったく違うレベルで観察することができます。この観点でいって、今年の展示にオランダのフォルマファンタズマを迎えたのは良い選択です。ぼくがそう思う理由は、マーケティング主体のインターナショナル(言語の)デザインと地域アイデンティティを重視するローカル(言語の)デザインの狭間で迷い続けてきたレクサスというブランドに、地域、伝統、文化をキーワードに活動するフォルマファンタズマはフィットするはずだからです。(多分、このあたりのテーマに興味のない見学者にとっては、彼らの登場に格別の面白味を感じないかもしれない)

彼らがトヨタは織機の会社からスタートしたことを知り、日本の建築空間にある障子の曖昧な光に興味をもち、トヨタの工場でのロボットと手作業の分業に目がいった。その結果として色が塗られた多数の糸がみせるクルマの姿(ここで聞こえるノイズは工場の生産現場の音)は、一瞬、2006年の吉岡徳仁氏の空間ー無数の糸の向こうにクルマが透けてみえるーへのオマージュ的であり(デザイナー本人のコンセプトに、それはなかったと否定しています)、ユニバーサルとローカルな言語のバランスが良いと思いました。そこで、ぼくはフッと考えます。2006年の展示にあまり納得がいかなかったのに、どうして似た表現に首肯するのかと。一つは前に書いたように、ぼくの見方が変わったのもあるでしょう。あるいは、吉岡徳仁氏の表現にはユニバーサルとローカルの配分は伺えなかったが、フォルマファンタズマにはそれが見て取れる、ということもあります。

彼らーアンドレア・トリマルキ氏とシモーネ・ファルジン氏ーに、「レクサスのクルマのコックピットに対して、何が不足していると思う?」と聞いてみたら、クルマはいわば門外漢であると断ったうえで「自然素材とシンプルさ」という2点を挙げてくれました。これほどにミニマリズムやシンプルな美を主張してきたレクサスが、実際のところ、それらの点に不足点があるとみられるのは皮肉です。でもとても的確な意見であり、レクサスは今回の展示に限定しないカタチで、フォルマファンタズマと付き合っていくのが良いのではないかとぼくは考えました。この(1)でも書いたように、繰り返しますが、デザインの2つの言語の微妙な使い分けが現代のデザインの勝負所です。それはグローバル製品のローカリゼーションを下に見るような視点ではなく、あるいはブランドの確立に急ぎ足になるためにローカル言語を使い過ぎるレベルからも離れた地点にあります。

最後に。このレクサスの会場の近く(Via Vincenzo Forcella 7) で慶応大学SDM (システムデザインマネージメント)の学生やOBが展示しています。印刷回路や薬を飲みやすくするストローなどがあります。すごく分かりにくい路地を入って、番地に行きついてもそこから該当の場所にたどり着くのも一苦労します。しかし、美大系デザインではない工学系のデザインの人たちが、サローネのサテリテでもなく(彼らは去年サテリテに出ました)フオーリに参加するようになったのは、日本のミラノデザインウィークへの見方の変化とフオーリサローネの質的変化を物語っています。この視線からみると、レクサスの展示も変化して当然ということにもなります。トルトーナに行ったら両方を見比べてみてください。

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
Date:16/4/9

今回はちょっとアングルを変えて話します。

イタリアの人が「世界の人はイタリアの食について、あまりに無知である」と欲求不満をもっていると聞くと意外に思われる方もいるでしょう。これほどに世界市場で成功している食もあまりない。「何が不満なの?」と聞きたくもなりますよね。しかし「パルミジャーノが何であるか分かっていない」「地方の料理がバラエイティに富んでいることが知られていない」「あまりに米国化したイタリア食ばかりが世界に広まっている」と言うのです。

イタリアの農産品・食品の年間輸出金額はおよそ3兆5千億円です。日本の昨年の数字が7千億円に近いとすると、5倍はあります。だから日本の食関係者は「イタリア食の成功をモデルとしたい」と語ります。「日本の酒が何たるか、全然知られていない」「和牛はオーストラリアのWAGYUと同じと思われている」「醤油はキッコーマンとウヤマサが全てだと思われている」という不満は、イタリア食ほどに世界で認知が高まれば消えていくだろうとの期待感も漂わせて。

しかしながら世界にこれだけ普及したと傍目には見えるイタリア食の関係者も、「本物が伝わっていない」と不満だらけなのです。ここから気づくことがいくつかあります。1つは、世界であるものが普及するとは、いわばスタンダード化したものの認知度が高くなるということです。別の表現をすれば、ステレオタイプへの寛容度が高まる。これは消費者だけでなく供給者においても、です。

だからこそ逆に、移民第一世代のイタリア食がステレオタイプの形成と定着に(結果的に)尽力し、ローカルで生まれた世代、創作系の新しい料理の担い手、テロワール的なテーマに関心のある人たち、この人たちが「より深い」イタリアの食を紹介しているからこそ、普及におけるレイヤー差により目がいくようになっている、とのストーリーが見えてくるのです。ステレオタイプであると批判を受けるのは、ステレオタイプではないものを知っている人たちが現れているとの反証ですからね。

2つ目、これは仮説ですが、イタリアの食関係者がこれほどに不満を抱えるのはハイコンテクストのタイプだからこそではないか、ということです。「パスタを味わうというのは、ボリュームも含めたことなのに、その重要な要素が入っていないじゃないか!」「テーブルクロスがない?なんて衛生観念が低いんだ」「時間をかけない食事なんて食事じゃない」という類の指摘が数多出てくる。出発の時間が遅れ、ものすごく急いでいるミーティングを前にして高速道路を150キロ以上で走り、その途中のサービスエリアで食事をするときに、「さあ、ワインは飲まなくちゃあ」と言う。

食空間に対する感度があり、食事のコースへのバランスに意見がありワインを選択する。これらを全て視野に入れて、イタリアの食スタイルが成立する。どこの国でも、そういうスタイルはありますが、ハイコンテクスト文化の国はそのスタイルのキープ度が高いというのが、ぼくの見立てです。(因みに、エドガー・T・ホールのリサーチの中では、イタリアはハイコンテクストとローコンテクストの中間ですが、ローコンテクストの北ヨーロッパと比較してハイコンテクストという位置にあります)

3つ目、食と住をトータルにライフスタイルとして「意識的に」おさえているところにイタリアデザインの特徴があり、それが(日本における懐石料理が日常の料理ではないのと対比して)日常生活をベースにしているがゆえに、様式美であるよりもカジュアルな美がより評価の対象になる。したがって、この文脈(あくまでも、この文脈で、ですよ!)において「本物の美」とはどこかの教科書で説明されていることではない、とぼくは思っているのですね。好き嫌いの要素も入り込みやすい。これで、ますます「本物が伝わっていない」欲求不満の背景が浮き彫りになってきますね。主観の強い本物ですから。

で、デザインです。

イタリアデザインはタイプとしてはハイコンテクスト文化であり、それは「人、モノ、スペース」の相互関係を重視しているから、と何度か書いてきました。それが自然との関係をみていたスカンジナビアデザインへの問いだった、とも。ハイコンテクストな傾向とは、「これが分かるには、あれが分からないといけない」との欲求が強いということでもあります。ローコンテクストが「あれが分からなくても、これだけで判断する」という傾向ですから、ハイコンテクストは効率と相いれないことも多い。ただし、一度うまくはまり込めば愛着の度合いが強いというか、そこから離れる動機を見出すのが大変であるわけです。

最後に。ぼくは本物という言葉に疑問をもっており、本物なんかどこにある?という気持ちをもっています。実はイタリアのデザインにある「本物なんかないけど、本物としか言いようがないからとりあえず本物と言っておく」というレベルのデザインが語りかけてくるものは、往々にしてコンテクストへの理解度でこちらを試してくるわけです。それも、ハイコンテクストとしてね。効率が悪く、しつこい。だから、やっかいなのです。このあたりに日本のデザイン研究者がイタリアで博士号を取りたがらない要因があるのなかなぁ・・・と想像したりして 笑。

 

Category: ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之  | 
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