Date:11/11/6

「もうフェイスブックは古いよ。それに比べグーグル+はいいね。ツイッター?ああ、もうゴミメディアになったね」というセリフをフェイスブックで最近読み、ため息がでました。1-2年前、彼があれだけツイッターについて熱く語っていた内容はなんだったのでしょう。「米国の若い子たちは、フェイスブックはダサいと言っているよ」と付け加えます。ソーシャル・メディアのなかで多様なオプションが時差を伴いながらやってくるのを一つ一つ夢中になってこなしながら、「夢中」になって捨てていく。そう、捨てるのも嫌に気がはいっているのです。

各メディアとの複合で「自分にあった唯一のシステムの確立」に強い希求があると、個々のコンポーネントを比較的「軽く処分」できます。これらの人たちは、自分のメッセージがどういうレベルで伝達されるかもさることながら、ひたすら方法論に関心があります。しかし、考えようによっては、新しいターミノロジーが作る世界観に目がよりいっているのかもしれません。


「尊皇攘夷」という合い言葉がはやらなくなって、そのうち「攘夷」だけが残り、新しい政府の下に、西洋の習慣が取り入られるようになった。それからのこと、「□□はもう古い」というのが知識人の言葉づかいの中に棲みついて、百五十年近くになる。

はじめは、わずかに知識人代表がヨーロッパに旅して新知識を仕入れてきた。その輸入には船便で三か月かかった。だんだんに船は早くなり、タネの仕入れは数年とだえたが、戦争が終わってからは、テレビを通してほとんど仕入れ元の米国、そしていくらかは前と同じくヨーロッパから、新しい知識と習慣がとどく。

それでも、「□□はもう古い」は、ものさしとして有効である。「サルトルはもう古い」というように、その□□のところに何を入れてもおかしくない。ことによると、「□□はもう古い」は、明治以降百五十年で最も長持ちしている文化遺産かもしれない。

本書にある「かわらぬものさし」にある一節を引用してみました。新しいか古いかが必要以上に重要になるのは、全体像の把握の必要性が、いやさらに言えば、全体像の把握自身が顧みられなくなっている時代を反映しているのではないかとも思えます。そういう時が150年も続いているのが日本であると鶴見は指摘しているわけです。しかし、それは日本だけに限った話でもないと書いているのが「大きくつかむ力」です。日米が開戦するかどうか、A.M.シュレジンガー、都留重人、鶴見俊輔の3人で話し合ったとき、シュレジンガーは黒船到来以降の日本を一国にまとめてきた指導者の賢明さは、米国に敗戦するとわかっている戦争を回避するだろうと語りました。

A.M.シュレジンガーの予測は、この場合、結果だけから言えばまちがっていた。しかし、この大きな歴史のつかみかたは、おそらく彼より細かいところまでを知っていた日本の大学出の外交官が忘れている、大きな世界史のつかみかたを内にふくんでいたのではないか。

その当時も、また現在も、大学出身の専門官僚は、百五十年、二百年の大まかな日本の位置づけを離れて、細かい情報処理の中で日米の舵取りをしているのではないか。そうして、二百年前、百年前にはもっていた、大きな筋道をみつける力をなくしてしまっているのではないか。

この後、現在の米国は日本と同じ道をたどっていると鶴見は言葉を加えるのです。つまり、大局をつかむ力を喪失した、と。

80代の鶴見の文章を読みながら、ぼくは「老人っていいなあ」としみじみ感じ入りました。年齢を経てこういう見方ができるなら、もっと早く年を取りたいと素直に思えました。高校生から大学生のころ、彼の文章を『思想の科学』で読んでいた時、当然ながらぼくにそう思える余裕はまったくなく、ひたすら文字を追いながら遠い先にある彼の思考の背中を見つけようとするに精いっぱいでした。そして、ほぼすべて忘れている・・・・。

3年前、前著『ヨーロッパの目 日本の目』を上梓したとき、この分野で高名な先生が本の献本リストを作ってくださいました。ぼくの本を読んでだうえで20人くらいの名前を書いてくれました。そのなかに鶴見俊輔の名を見つけたとき、30年近い遠い過去が急によってきた、あの感覚を本書を読みながら思い出しました。だが、残念ながら波はやはり再び遠のいていくのです。

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:11/11/4

ザハ・ハディドのデザインを見ると「今」を感じます。コンテンポラリーな表現であると思われやすいでしょう。それは有機的デザインだからでしょうか。フランス人のピエール・ポランとスイス系イタリア人のルイジ・コラーニ。かつて2人ともサイエンス・フィクションの世界のために有機的デザインの家具をデザインしています。彼らのデザインは美しいですが、「今」という印象は与えてくれません。それでは40年を隔ててどこにザハ・ハディドとギャップがあるのでしょう。

それは、ぼくが少年の時にみた映像に彼の作品があったからでしょうか。「今」ではなく「懐かしさ」を先に思ってしまう経験の問題なのかと考えてしまいます。コラーニの言葉に「私はSFデザインではなく、サイエンスリアリティを創っている」というのがありますが、空力そのものを体現したクルマが350キロ/時で走ることに重きが置かれる時代に「サイエンスリアリティ」があった。2011年、F1と同じスピードが出るクルマはもちろん空力計算を詳細に行っていますが、40年前ほどには実用から極端に離れないカタチになっている。そこに「サイエンスリアリティ」という表現は馴染まないと思います。

あえて「サイエンスリアリティ」というなら、それはクルマのスピードではなくドライバーとマシーンの関係や衝突しないマシーン間という側面に適用すべき言葉である。そういうリアリティ移動の結果として、コラーニのかつての「先端的」デザインが言及しきれていないスポットが浮上している大きな現実が、彼の40年前のデザインを相対化しているのです。当然ながら、それでいい。ぼくは何もコラーニのデザインにケチをつけたいわけではないのです。美しく且つ今によみがえっても十分に耐えられる力があるとはどういうことかを考えています。

イタリアに1960年代起こったアートの運動、アルテ・ポーヴェラは日常にある素材をもとに新しい視点を提供したわけですがーとぼくは見るのですがー、それは時代を共有しながらも、きっとコラーニの「サイエンスリアリティ」とまったく別の場所にあったでしょう。だがコラーニが「バイオデザイン」と呼ぶ自然にモチーフを求める姿と、アルテ・ポーヴェラのアーティストが自然にある素材を扱うところに何か違いがあるのかを考えます。

トリエンナーレで現在3つの見るべき展覧会があります。ボビーザで開催されているコラーニ、カドルナで行われているアルテ・ポーヴェラと時のデザインをテーマにした展覧会。3つ目のイベントは時そのものをデザインしていて刺激的です。ちょっとでも気を緩めると無情にも前進する時の怖さ、一瞬に気を緩める余裕を与えてくれる時の寛容さ、これらを真正面から可視化してくれています。

3つの展覧会から見えてくる世界は、かなり自在に変貌する三角形を作ってくれます。

 

Date:11/11/2

「何でも基礎は退屈でやりたくないもの。でもそこを通過しないと面白いと思う領域に到達できない。そのあとに他の稽古事やスポーツへの展開を図ればいいのよね。それなのに生徒の親たちと話していると、子供が『つまらない、他のことをやりたい』というとすぐに変えさせる。子供の意思を尊重していると聞こえはいいんだけど、本当にこれでいいのかしら?」とイタリア人の子供たちにピアノを教えるぼくの奥さんの疑問です。3年から5年くらいはやらないと楽しくは曲を弾けない、と。日本で教えているとき、親は途中でやめたいという子供を叱った。イタリアでも親は子供を励ますが、あきらめのタイミングがきわめて早い。確かに判断に迷うところです。

一つのことを続けないデメリットをぼくも思います。しかし、何でもしがみつかせるのが良いのか?という問いも頭をかすめます。子供の時にいろいろなスポーツをやらせて身体の各部を平均的に使うことを重んじる人たちは、子供の全体的な能力を伸ばすことを優先するのではないだろうかとも考えるからです。一般に「つまみ食い」はネガティブなイメージを伴いますが、子供の人としての幅を広げるとの効用もあります。この見方に立った時、ピアノの基礎をマスターすることにどれだけの意味があるのかへの回答が揺らいできます。「何事も中途半端はよくない」との言葉は全面的に正しいのでしょうか。

あらゆる場面において全体像をつかむには二つの鍵があって、一つは直観です。この直観はある程度経験で身に着くもので、特に混沌とした状況に直面した場数が貢献するのではないかと思います。もう一つが、三つの視点の確保です。視点は何もないところにはアンカーを打てず、何らかの理由で足を踏み入れた経験のあるフィールドがあってこそです。この二つの鍵の重要性を考えるとき、カオスが日常化しているイタリアンライフと「つまみ食い」の二つが実は教育上看過できない要素ではないかとも思うのです。

プロジェクトの組み立て方や進め方からはじまり、プロダクトデザインやビジネスの取り決めに至るまで、どうしても全体像を描くのが苦手でディテールにこだわっている多くの日本人ーぼくも含めてーを見ていると、子供が稽古事をころころと変えることを割と容易に認めるイタリア人の親を批判するのに、ぼくはどうしても躊躇します。全体像の把握ができるということは、全体像を人に見せることをも得意とします。

「ぼんやりとしたコンセプトもコンセプトと言えるのだ」と喝破できるのは、自らの全体像に確信がもてるからです。いや、正確に言うならば、確信をもつ「術」を心得ている、あるいは不安の払拭の「術」を知っているというのが適切です。イノベーションを生むβ版の推進力の源泉は、このあたりにあるのではないかと匂いを嗅いでいるところです。