Date:11/12/4

今日は息子が来年9月から通う予定の中学のオープンデイ。ステージのあるスペースで校長が親たちを前に概要を説明するのですがー何曜日が半日で何曜日が午後まで授業があるとかー、かなり「アバンギャルド」なムードに唸りました。マフラーをしたアーティスト風貌の2人が話している校長のすぐ前を通り過ぎ、親たちに「チャオ!」と軽く手を振って通り過ぎていく。隣の音楽室でその一人がガンガンとドラムを叩きはじめ校長の声が良く聞こえない。校長の話より音楽を聴きたい親は音楽室へ。校長が何度か演奏を中止するように音楽室に足を運ぶが、まったく無視でドラムの音が鳴り続けるのです。校内いたるところの壁いっぱいにイラストが描かれ、「ここは美大か?」という感じです。二人は音楽と美術の先生だったのです。

校内をぐるりとまわり学校を出て帰宅する途中、息子に「この学校でピアノとバスケットが得意ならスターになれるよ」とぼくは言いました。あのアーティストの先生を「友達」にすれば学校権力なんか怖くない!(笑)。第一外国語は英語で、第二外国語はフランス語かスペイン語を選択し、それによってクラス分けを決めるそうです。「どっちの言葉がいい?」と聞くと、「フランス語。スペイン語はイタリア語とものすごく近いから、あとで簡単にできそうだからね」との答え。うん、それはいい判断だ。「で、学校気に入った?」「壁中がアートでいいね!」

いちおうは、もう一つ別の中学も見学してみようかと思います。実をいうと、外観からこの中学にあまりよい印象をもっていなったのです。しかも、かつては評判も良くなかった。ぼくの友人も先生と喧嘩して放校処分になった・・・もちろん大昔です。が、この2-3年、体制が変わって抜群に良くなったという噂です。それでも息子には「別の学校もいいんじゃない?」とそれとなく言っていたのです。今日、あの「アバンギャルド」にはぼくも心が惹かれはじめ、別の学校見学は「いちおう」に格下げです。

ぼく自身、イタリアで学校教育を受けていないので、学校で生じるエピソード判断に迷うことが沢山あります。最近、息子の持ち物をクラスの友人にいたずらされました。それを息子が先生に訴えると、「それなら、いたずらをした彼に何か仕返しをしなさい」と言われたそうです。ぼくたちは教育上そりゃあないだろうと瞬時に思いますが、そういう考え方とは違う土壌に生活しているんだと気づかされます。人の話している前を遠慮なく通過するのはエチケットとして良くないにせよ、腰をかがめて小走りにいくー日本の会社の会議室で毎度お目にかかる風景ーのがつつましい態度として良いのかとも思うのです。

もちろんイタリア人の親たちの学校の評判も参考にしますが、そこそこに聞くしかないかとも思います。学校や先生に対する意見や感想は、自分の子供がどう扱われているかに大きく左右されー端的にいえば、成績の良い子にとって居心地がよいか、成績の悪い子にとって救われる場所かー、ぼくたちの子供にとってどうなのかは別の話になります。先生の話を聞くのも大切ですが、どうせいいことしか言いません。それにどの先生が担当するのかもわかりません。とするならば、校内に足を踏み入れ先生たちの様子を観察するしかないのです。

それに学校は先生のものではなく生徒たちで作っていくもの。その思いをあらたに、あの「アバンギャルド」に任せてみるかという直観が働いたので、かなりの確率で今日の学校に決めることになりそうです。

Category: 子育て | Author 安西 洋之  | 
Date:11/12/3

どこも「可視化ばやり」である。アングロサクソン流の説得に屈したのか、なんでそうなったのかよく分からないが、かたっぱしから透明性が要求されていることと「文盲率」が高くなった、この二つが要因なのではないかと想像している。「文盲率」とは文字通りではなく、もちろん言語リテラシーを指している。コミュニケーションにおける文章への依存度が増しているのに、その理解力や表現力が比例していないから「文盲率」は相対的に高くなる。そして、ネットに「放出」される情報量は増大する一方であり、大波に溺れることに飽きたーあるいは力尽きたー人たちは古代的なライフスタイルを選択する。

そのためか、情報の流れ方や提示のされ方ー「しかた」ではない!-にとても敏感な人たちが育っている。ただこれも皮肉な見方をすれば、「文盲率」の高さゆえに「作法」で判断する部分が多くなっているとも言える。暗黙的な世界でより「作法」が重視されるとの同じレベルで、「文盲率」の高い世の中では「明示的である」ことが「作法」に堕している。実際、恥ずかしい話だが、ぼくも理解しずらい人の書いた文章によく出会いー君もぼくの文章を分かりにくいと言うかもしれないがー、「文盲率」の高さが自分の身に及んでいるのをひしひしと感じる・・・・。ああ、及んでいるのじゃなくて、もとからそうかもしれないが。

よってプレゼンばやりだ。「伝わらぬものは伝わらないんだ!」「伝わらないのは相手のレベルが低いんだ!」なんて口が裂けても言ってはいけない。そういう世知辛い世の中である。おばあさんでも分かるように、14歳でも分かるように・・・とキャッチフレーズをつけただけで、良心のありかが証明されたような気分が満ちている。ああ、いやだ。いや、ぼくもプレゼンの必要性については自分で語るから、全否定しているわけではない。それでも、やり過ぎなんじゃないかと思わないでもない、ということだ。

慶応大学の井庭崇研究室で作成した「プレゼンテーション・パターン」を読んだ。ヴィジュアルと言葉の両方でプレゼンのコツを語り尽くそうとの意思が見える。34のチェック項目が網羅されている。ぼくは、これですべてであるか、あるいは欠けている点があるかという目では見ない。これらのポイントのそれそれでいい線いったら十分じゃない。まず、無理だって。だいたい、これは方向性や態度を語っているのであるから、「いい線」という表現自体、馴染まない。

正直に書こう。ぼくは、プレゼンのやり方に関するマニュアルや本をほとんど読まない人間だ。ビジネス本も書き、たまにビジネス書のレビューをブログにも書くが、ビジネス書もほとんど読まない。読んだ冊数は、このブログにレビューを書いた数だけだ。だからプレゼンのコツをどう他人が語っているのかを知らない。しかしながら、プレゼンはこの34を手元においておけば他に何が必要なのか、さっぱり思い浮かばない。これは簡潔に肝心なことを指摘して、あとは読む人間が考えるようになっている。それでいい。

少なくても確信をもって言えることがある。プレゼンのマニュアルを読んでいる暇があれば、文学や歴史の本ー特に回想録ーを読むのが良い。もし、そうした本を読んでなお、プレゼンのマニュアルを読みたいと思ったら、それらの本をよく理解できていなかったと反省するべきだ。

あっ、基本的なことを書き忘れた。「明示化」のプレッシャーに対抗して「暗黙的である大切さ」を相手にどう説得できるか?というのは、重要な課題だ。これに負けると、プレゼンのマニュアルに走るわけだ。金を節約したいと考えるなら、何をすべきかは自明だ。

Date:11/12/2

いろいろな分野に人のネットワークがあると自分では自負していても、案外、「それでどうした?」と思われたりします。医者や弁護士のように機能が比較的理解されていると考えられる職業であれば、「そういう友人をもって便利だね」と言われますが、建築家だとちょっと遠のく。空間を設計する人の「機能性」は理解しずらい点があります。それゆえ、一般人に分かりにくい仕事の場合、まったく新しい言葉でそれを定義しなおすか、できるだけ皆が知っている職業カテゴリーにはめ込みます。「いろいろな分野」の「いろいろ」自身が視界に入っていないケースが多数なのです。

今週の月曜日、UXD Initiative 研究会で「イタリアンライフを題材にしたローカリゼーション・ワークショップ」後の懇親会で経験の統合に関して話していると、千葉工大の安藤昌也さんが「人には機能と役割があり、若い時は機能が優先し、年齢が増すにしたがい役割が大きくなる」とコメントをくれました。その表現を使うなら、普通、インダストリアルデザイナーは機能でしか見られません。医者が「心を落ち着ける相手」として役割を期待されるようにインダストリアルデザイナーが評価されることは稀です。

本書で引用されている2000年国勢調査によれば、グラフィックやファッションなどデザイナーで生計を立てている人は16万人。アーティストが約4万人、写真家が約5万人とあります。そしてデザイナーのインダストリアルデザイナーは約2万人であり、そのうちインハウスは60%、フリーランスが30%、残り10%が行政や学校に勤めています。

というわけで、中小企業が仕事で付き合えるフリーランスの工業デザイナーは日本中に6000人くらいしかいません。2万人に1人しかいない計算です。おまけにデザイナーの都道府県別の就業者数分布を見ると、東京・名古屋・大阪の大都市圏にデザイナーの8割が集中しています。

地方の地場産業の活性化に際しデザイナーが登用されても、なかなか難しい状況がこの数字から伺えます。地元事情をよく把握したデザイナーを期待することに無理があります。しかもデザイナーが考える「売り方」に本当の鍵があると思っていない企業が多く、色や形がマシになればそれでヒットするのではないかと期待をするものだから、大きな誤算がどんどんとつみあがっていきます・・・結果、デザイナーなんて役に立たないと思われてしまう。一方で「機能」だけでなく「役割」をも期待されたいというデザイナーも多く、交差しないお互いの思いが空を駆け巡っていることになります。

男性中心で、無名で、職人肌で、下請け受注で、「志」はあるけど営業も金銭勘定も苦手。中小企業によくいるタイプではないでしょうか?

日本のインダストリアルデザイナーはおしゃれじゃないけど腕時計だけは変わっているんだよなあ、との印象をもっているぼくとしては、こういう説明をデザイナーの著者がするーせざるをえないーことがとても皮肉に思えます。なにせふつうの人たちの日常には登場しない人たちなので、逆にアーティスティックなイメージをもたれ、おつきあいするには敷居が高いと中小企業に感じられている。これが両者の不幸を生んでいるわけです。「俺、みんなが思うほどモテないのに、どうも女の子は遠巻きに見るんだよね」というやつです(・・・かな?)。

そこでバシリーという表現は使っていませんがーでもいいからデザイナーを使いこなせ!と本書は書くわけです。企画の最初の段階にはじまり試作、場合によっては営業窓口にまでフリーランスのデザイナーは使い勝手が良い、と。それも嫌々やるのではなく、ビジネス全体の構想を描くところにこそデザインの意義があると説きます。デザイン的発想こそが、21世紀のビジネスのキラーアプリであると考えるのが妥当であるかどうかは判断しづらいですが、少なくても、この5年-10年についてはそうでしょう。

なお、対抗馬は、言葉の使い手である文学ーつまりは文学的思考ーか? というのがぼくの予想です。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  |