昨晩、ネットナビをしていたら、ドイツの国旗カラーを彩った「bundespolizei」(連邦警察)が法律違反のサイトを見たので100ユーロの罰金を払え!という画面が突如でてきました。まったく怪しげなところではなく普通のサイトを見ていたのですが、すべての機能がブロックされてしまったので、他のPCで「トロイの木馬」であることを確認し、今日エキスパートにウィルスを追っ払ってもらいました。それにしても、つくづくドイツのブランドは強いものだなと感心しましたー実のところ、調べると他国の警察を名乗るタイプもあるようですが。ドイツの警察ならリアリティがあるだろうとの思惑が見え、それが逆に怪しさを増しているとぼくは思ったのですが、これも国のブランド力なのでしょう。

11月28日にUXD Initiative研究会で開催した「イタリアンライフを題材にしたローカリゼーション・ワークショップ」では、イタリアのライフスタイルを表現している動画を見てもらい、そこからイタリア生活を特徴づけるコンテクストを抜出し、そのうえで日本のネタをどうイタリア向けに商品開発するかという課題を出しました。観察をしていて気づくのは、ダウンロードした情報は参加者の頭の中に既にある知識を再確認に利用されたり、それらからの連鎖を導き出す役割をしていることです。イタリアに関する知識がまったくのゼロであったなら、いったいどういうコンテクストが参加者から提示されてきたのだろうと思いました。
ある国に対する知識がゼロに近い地域が、これからのビジネスの大きな市場と見られています。だからこそ、少しでも知識のある国で文脈を読むトレーニングをするのが効率的です。それにより何をキーにすると他の何がみえてきてくるかの勘がつき、相似のあり方が全体として浮かび上がってきます。そういう点で、ヨーロッパ諸国は「相似形」を学ぶのに最適です。フランスとイタリアがどう似てどう違い、チェコとドイツの相違点は何なのか。この微妙な差の繋がりがEUの範囲でも27はあるわけです。そして、それなりに情報の蓄積があるから検証がしやすいという利点があります。

とするならば、このようにヨーロッパ内の差異を使いながら距離感の測り方を練習し、たとえば、アジアの国々の差異を見ていくという方法はどうだろうかと考えます。もともとの差異の取り方の距離感が未体験ゾーンだと、ナイフを使うべきところを斧を持ち出すような考え方をするパターンが多くなるのではないかという気がします。
日経ビジネスオンラインで河合薫さんの「グローバル人材」のコラムに対する多数の読者コメントを読んでいても、どうも「経験の運用」が荒っぽいと感じる人が多いと思ったのです。「英語」や「グローバル人材」などというテーマが世の中で喧伝される裏には、「差異の測り方への鈍感さ」が二酸化炭素が閉め切った空間に漂うようにある・・・・とイメージします。どうにも臭い。議論自身に酸素が薄い。日本には微細なテイストを感じる文化がありますが、それは日本の中に限定されることが多く、日本の外のことになると一気に大ざっぱの度合が過ぎます。この特徴が、読者コメントにも見られると思います。
ちなみに、ぼくが昨夜脅威を受けた「bundespolizei」は、イタリア語で書いてありました。イタリアにいてドイツ警察がでしゃばるのもおかしいですが、ドイツの連邦警察はそこまで力があるのかと妙に納得したー一瞬ですがー自分に腹が立ちます。
ベルリンの空港でセキュリティチェックのX線を通過した後、回収されたハサミ、ナイフ、ライター類が透明のプラスチックケースにたまっているのを見ました。一緒にいたイタリア人のビジネスパートナーに「結構、新しいものもあるね」と声をかけると、彼は自分の体験談を話し始めました。奥さんと2人でスペインに旅行に出かけたときのことです。イタリアの空港でチェックインを済ませ、セキュリティチェックゾーンに入る寸前、買ったばかりの高価な爪切りが機内持ち込みのバッグの中にあるのを思い出しました。取り上げられるのは必至です。そこで彼らは空港内を歩きまわりはじめます。観葉植物の大きな鉢を見て「これだ!」と、鉢の下に爪切りを隠しました。1週間後、スペインから戻るとさっそく目標の鉢をめざし、爪切りを取って自宅に戻ったと言うのです。
彼はいわゆる狡賢いタイプではない。そういう人間がこのような機転を働かす。それがイタリアの一般的な風景にある。イタリア人のもつその器用さが怠惰を招きー何かのビジネスを実行する時、まず人脈の洗い出しからはじめ、適当なコネがみつからないと諦めるー、保守的な文化を作ると言われます。しかし、この「創造性」がイノベーションの源泉であるのも確かでしょう。

今週、ドイツ人やイタリア人の仲間たちと旧東ドイツを巡りながら、さまざまなことについて意見を交わしましたが、「いかにしてイノベーティブであるか?自分たちでルールをどう変えるか?」が常に底に流れるテーマでした。統一後の20年、ドイツは何をして何をしてこなかったのか?を考えながら、他人の設定したルールに従わないためにどう工夫するかをもう一方の頭で響かせていました。
グローバリゼーションの一つとして有名ファッションブランドの店がどこの空港にもあるとの現象がある一方、その空港の場所を特徴づける食材を提供することがトレンドにあります。「マルペンサ空港で美味しいモッツァレッラチーズが食べられるから少々早めに空港に着こうか」という気にもなります。iPad を眺めながら搭乗便を待つ姿はどこの空港でも見かけますが、そこで食べているものは違う。ただ、実は食べ物だけではなく、「とっさに鉢の下に爪切りを隠す発想を生み許す」かどうかに大きな違いが見られます。そして、それも保守性と革新性が表裏の関係にあるのを見つめるところから、イノベーションには何を水の上に出し何を沈めておくかという判断が、ケースバイケースで下されることになります。

「すでにモノの時代は終わり、コトの時代である」というセリフが語られることが多いです。確かにモノがモノの価値だけで売られることは相対的に少なくなっています。が、それによりコトに対して過剰な期待と幻想を抱いている。技術ではなく社会文脈の変化の重要性がクローズアップされるからこそ、技術以外の変化ばかりに目がいくのですが、「技術文脈の変化」に注目したとき、モノの威力は決して落ちていないランドスケープが広がっているのに気づきます。これを今回、旧東ドイツにある企業で感じました。相変わらずさびしい田舎の景色のなかに確実に変わりゆく部分をみたとき、モノを見ることを忘れてはいけないと再認識しました。
「とっさに鉢の下に爪切りを隠す発想を生み許す」柔軟さはイノベーションのエッセンスではないかとぼんやりと思いながら、眼下に広がるベルリンの街の光を眺めていました。
今日は息子が来年9月から通う予定の中学のオープンデイ。ステージのあるスペースで校長が親たちを前に概要を説明するのですがー何曜日が半日で何曜日が午後まで授業があるとかー、かなり「アバンギャルド」なムードに唸りました。マフラーをしたアーティスト風貌の2人が話している校長のすぐ前を通り過ぎ、親たちに「チャオ!」と軽く手を振って通り過ぎていく。隣の音楽室でその一人がガンガンとドラムを叩きはじめ校長の声が良く聞こえない。校長の話より音楽を聴きたい親は音楽室へ。校長が何度か演奏を中止するように音楽室に足を運ぶが、まったく無視でドラムの音が鳴り続けるのです。校内いたるところの壁いっぱいにイラストが描かれ、「ここは美大か?」という感じです。二人は音楽と美術の先生だったのです。
校内をぐるりとまわり学校を出て帰宅する途中、息子に「この学校でピアノとバスケットが得意ならスターになれるよ」とぼくは言いました。あのアーティストの先生を「友達」にすれば学校権力なんか怖くない!(笑)。第一外国語は英語で、第二外国語はフランス語かスペイン語を選択し、それによってクラス分けを決めるそうです。「どっちの言葉がいい?」と聞くと、「フランス語。スペイン語はイタリア語とものすごく近いから、あとで簡単にできそうだからね」との答え。うん、それはいい判断だ。「で、学校気に入った?」「壁中がアートでいいね!」

いちおうは、もう一つ別の中学も見学してみようかと思います。実をいうと、外観からこの中学にあまりよい印象をもっていなったのです。しかも、かつては評判も良くなかった。ぼくの友人も先生と喧嘩して放校処分になった・・・もちろん大昔です。が、この2-3年、体制が変わって抜群に良くなったという噂です。それでも息子には「別の学校もいいんじゃない?」とそれとなく言っていたのです。今日、あの「アバンギャルド」にはぼくも心が惹かれはじめ、別の学校見学は「いちおう」に格下げです。
ぼく自身、イタリアで学校教育を受けていないので、学校で生じるエピソード判断に迷うことが沢山あります。最近、息子の持ち物をクラスの友人にいたずらされました。それを息子が先生に訴えると、「それなら、いたずらをした彼に何か仕返しをしなさい」と言われたそうです。ぼくたちは教育上そりゃあないだろうと瞬時に思いますが、そういう考え方とは違う土壌に生活しているんだと気づかされます。人の話している前を遠慮なく通過するのはエチケットとして良くないにせよ、腰をかがめて小走りにいくー日本の会社の会議室で毎度お目にかかる風景ーのがつつましい態度として良いのかとも思うのです。
もちろんイタリア人の親たちの学校の評判も参考にしますが、そこそこに聞くしかないかとも思います。学校や先生に対する意見や感想は、自分の子供がどう扱われているかに大きく左右されー端的にいえば、成績の良い子にとって居心地がよいか、成績の悪い子にとって救われる場所かー、ぼくたちの子供にとってどうなのかは別の話になります。先生の話を聞くのも大切ですが、どうせいいことしか言いません。それにどの先生が担当するのかもわかりません。とするならば、校内に足を踏み入れ先生たちの様子を観察するしかないのです。
それに学校は先生のものではなく生徒たちで作っていくもの。その思いをあらたに、あの「アバンギャルド」に任せてみるかという直観が働いたので、かなりの確率で今日の学校に決めることになりそうです。