Date:12/4/7

先日、センピオーネ公園の小遊園地を息子と自転車で通りかかった時、ふと7-8年前のことを思い出しました。園内を走る大人はかがみこむようにしないといけない汽車やゴーカード。あの小さな汽車やゴーカードに乗り込むのが密かな喜びだったーそれは自身の幼少のころを追想する楽しみを兼ねていましたーこともあり、かなり頻繁に通ったものです。しかし、息子が6歳になったあたりでぱったりとその楽しみは「奪われ!」、公園のなかを自転車で競走することになりました。先日は何となく、息子に追想経験をさせたくて「ねえ、あのゴーカードに乗ってみない?」とややしつこく勧めてみました。

彼は「いいよ、ツマラナイ」と即座に断ります。ただ、横目でゴーカードを走るのを眺めていて、思いついたように「うん、1回だけ乗ってみる」と答えます。10歳の子供にも窮屈なゴーカードに数年ぶりに乗ってみようと思った理由。それはマクラーレンを模したグレー色のモデルがあったからです。F1の全GPを欠かさずTVで観戦している彼のお気に入りはハミルトンで、それでマクラーレンファンというわけです。よって小さくノロいゴーカードでも一回は試してみたいという気が起ったようです。数周を終えての一言「やっぱり、つまらなかった」。

昨年の夏、ぼくは40年ぶりに自分が卒業した小学校とその周辺を歩きました。あまりに校庭が小さく学校の周りの道がどこも狭く、自分の少年時代の風景はこんなにコンパクトだったのかと驚きました。こういう経験は初めてではないのに、その場にいくと、少年時代の目線の高さと空間把握の広さー狭さーにあらためて気づかされます。これは場所だけでなく、子供の時に全く手が届かないと思っていた人が、自分が大人になってみると案外そうでなかったりということもあります。

背ではなく、人間性の話です。寂しいことではありますが、高齢になると考え方が子供のようになる傾向があります。だから、変わったのは本人の目線や視野だけでなく、相手自身ということも考えないといけません。ただ、やはり未熟な時には見えなかった粗が成熟するにつれて見えてくる・・・という事実は避けがたくあります。しかし、誰でも余裕をもって考え話していることなど殆どなく、ギリギリのところで生きているんだと分かってくると、他人の粗にたいして寛容になります。「結局、本田宗一郎も奥さんに頭があがらなかったわけね」と言うのではなく、「奥さんに頭があがらなくても、あれだけの偉業が可能なんだね」と思う。そういう表現が理解できるようになるのです。

さて、ヨーロッパです。かつて日本にとってヨーロッパは大人に見えました。先進的で成熟した社会のモデルとしてのヨーロッパが大きく見えたのですが、この数十年、もうろくを始めた老人を見る目つきになってきています。そして、隣にいる若手の進撃を横目で眺め、かつ、そのマーケットにも羨望を感じながら色目を使い始めると、自分自身の足元が20代のころの俊足にはかなわないことを発見します。そして、日本はいったい身体年齢は何歳で精神年齢は何歳なのか・・・と自問自答を始めたのです。ポイントが精神年齢の自覚にあるのは明らかです。

 

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
Date:12/4/1

この2週間、ミラノ工科大学でPh.Dデザインコースというレクチャーが10本以上あり、世界の第一線の研究者たちが登壇しました。いくつかのレクチャーを聞いていて気づいたのは、「コンテクスト」という言葉がキーワードになっていることです。どうコンテクストを読み込むか?が頭痛のタネになっているわけです。コンテクストにマッチしないことをああだこうだと試みても、およそ敗退する経験をさんざんし尽している証拠でしょう。それほどに単発の見せ場の無力さを物語る事例が死屍累々とあるのです。

違った表現をとれば、あるシチュエーションでの言葉が隣の状況には全く通じないーウジトモコ『デザインセンスを身に着ける』に、以下のような文章がありました。

デザイナーの多くは、デッサンや色を学んでいても、経営については関心を持っていません。マーケティングについての知識はほぼ、本人のやる気と環境に依存します。ロゴが使われていく意味は、ほとんどがマーケティングベースなのに、つくられているデザインの現場の関心のほとんどは「色やカタチ」を超えることはありません。

一方、経営者や製品担当者の多くはデザインを「差別化」や「経営戦略」とリンクさせることができません。デザインのトーン・アンド・マナーについて、単に先行他社の資料を集めて参考にしてしまったり、今すでに売れているもののデータを集めて、それを評価や価値の基準値にしてしまいます。

 

 

事業企画とクリエイティブ系のギャップを埋めることはローカリゼーションマップの大きな目標ですが、この点を問題としてみているのは、もちろん僕たちだけではありません。このウジさんに限らず、多くの人たちがどうしたものかと考えあぐねています。自分の見ている世界が他の人にとっても大切なんだーその逆もしかりーという認識をどう共有していくか、これは思ったほどに容易ではないのです。ローカリゼーションマップではワークショップをやりながら共通言語ービジュアルも含めーを確立していくことを、これから行っていきますが、細分化されたエキスパートの必要と増加、統合や全体性の把握の必要性、これらの2つの潮流が共通言語を要望することになっています。横山雅彦『大学受験に強くなる教養講座』でも、次の文章があります。

僕は、予備校の衛星授業で、長年英語の長文読解を担当してきましたが、とくに最近、文法や構文以上に、背景知識のウェートが大きくなっていると痛感します。実際、「和訳することができても、議論の内容がさっぱいイメージできない」という受験生も少なくありません。

(中略)

英語の講師も、文法構文専門では、到底太刀打ちできるものではありません。ますます英語と小論文、現代文の垣根がなくなりつつあること、そして教材を超えた「教養」が必要になっていることを、強く印象づけた問題でした。

総合的な把握が重要であるとの流れをとれえているからこそ、背景知識を要する英語の問題が多くなっている。にもかかわらず、ビジネスの現場でプライヤーが全体を知っているように振る舞っているわけではない・・・というのが、なんとも皮肉です。1冊目の『ヨーロッパの目 日本の目』では、「総合」の視点をもつためにエピソードの数々を紹介しました。2冊目の『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか』は、日本企業のローカリゼーションを強調しました。今日からサンケイBIZでスタートした連載は、この1冊目と2冊目のリンクをもう少し使いやすいようにするコラムを書いていこうと思います。毎週日曜日の掲載です。

 

Date:12/3/26

『ヨーロッパの目 日本の目』に対する感想で一番気が滅入るのは、「結局、ヨーロッパのほうがいいって言っているわけだよね」というコメントです。力がガクッと抜けるような気持ちになります。このタイプの感想は出版した4年前のころに多く、その後ローカリゼーションマップの活動で真意を分かっていただける方が多くなりましたが・・・。日本はダメでヨーロッパの方がいいと言っているように受け取られるー確かにいくつかのテーマにおいて、そう書いているのは事実ですが、その逆も指摘しているーのは心外でした。また読み手のなかに潜在的にある偏見を突き破ることはできなかった自分の非力にも向き合うことになりました。誤解で世の中は成立しているのだと認識していても、それをほっぽっておいてよいことと、そのままではいけないことがあります。

ミラノに住んで日本の外のことをブログや本で書いているぼくにとって、誤解をどう解くかは大きな課題です。ビジネス上では日本への誤解をヨーロッパ人に説くこともしますが、日本語での記述は、日本人を対象にヨーロッパへの誤解を解きます。この「誤解を解く」という行為は世の書き手の大半の動機ではないかとも思いますが、誤解は「一般的」に解くのではなく、目的と対象を想定していかないと突破口が見えにくいです。「こういう目的のために、こういう理解だと生産性が低いよね。こう理解するのが経済合理性にあうんじゃない?」という按配で。

この10年くらいでしょうか。日本の書店でヨーロッパ各国事情の本を眺めていて、以前からある主婦生活奮闘記に加え、それなりに各国語メディアを駆使しながら全体情報を提示し書く「現地特派員」レポートのような本が増えてきたように思えます。これはSNSやブログで「現地特派員」としての価値に目覚めた結果であるように見えます。本書がどういう経緯で成立したのかわかりません。が、フランス、フィンランド、イギリス、アメリカ、ニュージーランド、ドイツ、ギリシャの各国在住者が、日本での紹介イメージと実像のあいだにあるギャップを報告する姿勢はいかにもSNS的動機が潜んでいるように感じます。

「日本の人、全然、文脈をわかってくれない。これじゃあ日本の再生は無理だ」という嘆きのし合いがスタートにある・・・事実がそうであるかどうは別にして、そう想像するのが無理ないほどに、「日本ではそういわれるが、実は・・・」という話が実に多いのがネットの風景でしょう。しかし、ネットの風景がそうであっても新書の棚の風景はそうでなかった。その乖離を埋めようとする作業が本書であったのだと思います。

日本人が他の国に対して抱くイメージと、その国の現実が一致しないことはよくある。日常レベルの話なら笑い話か薀蓄のたぐいで済むが、国全体に関わるような大きなテーマだったらどうだろうか。あの国はあんなに進んでいるのに日本はこうでしかないと、この国で作ってきた制度や歴史を過小評価することになっていないか。そして一人ひとりがどこか自分を追い詰めてはいないだろうか。

本書は個々のレポートを批評するよりも、書籍のねらいそのものを語るほうに意味があるかもしれません。何の誤解が見逃せなく、その誤解を解く目的は何なのか?が明確であるかどうか、を。