Date:12/6/18

最近、ローカリゼーションマップをはじめた経緯について質問されることが多いので、サンケイBIZの連載で2回にわたって書きました。下記です。

「異文化市場の理解に真正面から立ち向かう」

「ワークショップ実施の必要性を実感」

さて、ローカリゼーションマップ勉強会15回目の開催です。前回の『検索エンジンとローカリゼーション』は、講師の井上俊一さんがスライドをアップしてくれています。→ http://www.slideshare.net/toshiinoue/20120609-13259993

参加希望者は、anzai.hiroyuki(アットマーク)gmail.com かt2taro(アットーマーク)tn-design.com までお知らせください。議論に積極的に参加していただける方、本研究会の今後の活動に貢献していただける方、大歓迎です。内容に一部変更になる可能性がありますが、その際は、ご了承ください。場所はいつもと同じく、六本木アクシスビル内のJIDA事務局(http://www.jida.or.jp/outline/)です。

7月28日(土)16:00-18:00 「グローバルルールにローカル文化は介在するか」

グローバゼーションの是非が騒がしい時代が続いています。前回の勉強会『検索エンジンとローカリゼーション』で、アップル、グーグル、アマゾン、フェイスブックの米国の4強が如何に個人情報を握っているかが話題になりました。すべては米国企業中心に動向が左右されているのではないか?と意識されることが多いです。

しかし、グローバルルールの設定に自ら関与してきた藤井敏彦さんは、著書『競争戦略としてのグローバルルール』(←ぼくのレビューを参照ください)で以下のように書いています。

インターネット上の個人情報保護のルールを主導しているの は、ヨーロッパである。ヨーロッパの規制は厳しすぎるという米国側の苦情にヨーロッパは、「米国がヨーロッパと同じように個人情報保護に関する独立した規 制機関をつくるのであれば、話し合いに応じてもよい」と余裕しゃくしゃくである。

理念の力もEUに味方している。ヨーロッパは「個人情報保護は基本的人権にかかわる 問題である」という出発点に立つ。したがって、個人データがどのように使われるのかは、本人が管理できなければならないと考える。しかし、米国は「何か問 題が発生すれば、消費者保護に関するさまざまな法に基づいて事後的に救済がなされればよい」という考え方をする。

これを読むと、グローバリゼーションを巡る風景を見る目はずいぶんと「調整」しないといけないのではないか、と気づきます。EUがグローバルルール策定のリーダーであり、新興国がEUのルールをコピペしている現在、グローバルルールに文化的特徴が出ないはずがないことになります。今回は、著者ご自身に本テーマについて語っていただきます。

参加定員数:20名
参加費:1500円(18:00以降の懇親会参加費を含む)

講師:藤井敏彦(ふじいとしひこ)さんの略歴

1964年大阪生まれ 1987年東京大学経済学部卒業、通商産業省(現・経済産業省)入省。1994年ワシントン大学にてMBA取得。2000年在欧日系ビジネス協議会(於ブラッセル)事務局長。対欧ロビイストとして活動。2004年経済産業省に復帰。通商機構部総括参事官(WTO全般に加え、TPP、レアーズ問題を担当)などを経て、現在、資源エネルギー庁エネルギー交渉官。経済産業研究所コンサルティングフェロー、埼玉大学大学院経済科学研究科客員教授を兼任。

日本の対EUロビイストの草分けであるとともにWTOルール交渉の主席交渉官を務めるなど、世界的ルールメイクに精通している。主な著書に『ヨーロッパのCSRと日本のCSR』、『EUのガヴァナンスと政策形成』(共著)、『競争戦略としてのグローバルルール』がある。

尚、フェイスブックのページ(下記)でもローカリゼーションマップの最新情報を提供していきますので、このページを「いいね!」に入れておいてください現在、1430人以上の方にフォローいただいています。

http://www.facebook.com/localizationmap

Date:12/6/16

昨年末、HUB ミラノのメンバーになりました。ロンドンにはじまったコワーキングスペースですが、社会的貢献の趣旨に賛同することがメンバーになる条件になっており、世界各地20数箇所に拠点があります。以前書いたと思いますが、自分自身、学生時代から社会貢献を意識し、ビジネスと社会貢献の両立を目指して22年前にイタリアに来ました。

しかしながら、社会企業と呼ばれる世界には違和感を持ち続けてきました。「柔い」という偏見がぼくをとらえて離さなかったのです。ビジネスの余力としての社会貢献であるとの考えを持ち続けていたのです。それが同一の土俵にあがっていると実感したとき、つまり昨年になってようやく、ぼくは見方をかえる決意をしました。世界を広くみるべきだと言っている本人が情けないことはなはだしい。

NGOや社会企業家たちの間で議論されているテーマが、ビジネスのコアコンセプトに占めるに至るスピードがあまりに速くなっていると遅まきながら気づいたのです。悠長に「長期的な方向として正解だよね」と構えているととんでもないことになるとぼくの嗅覚が働きました。ぼく自身、正直に告白すれば、EUのRoHS指令(電気電子機器に含まれる特定有害物質の使用制限に関する指令)であわてた口です。欧州にあるメーカーに定期的に納入している中国で生産している製品が、同カテゴリーに入っていたからです。今から6年以上前でしょうか。しかも、その時、ヨーロッパの指令の背景をきちんと理解していなかったのは愚かなことでした。

それまでもISOの規定などを議論するとき、「その事態が生じた時に人の命はどうなる?」と間髪を入れずに問うのがヨーロッパ、「それで商売への影響はどうなのか?」とコメントするのが日米という特徴を認識していましたが、だからといってRoHS指令の動向にぼくが敏感であったか?といえば嘘になります。ぼくの反省点はここにあります。

理念や原則抜きにルールを語りえない。(中略) 日本がルールづくりを苦手とする理由の一つは、理念や原則を苦手としていることにあるのではないか、理念や原則と対面するとつい目をそらしてしまう国民的性癖にあるのではないか、と思っているからである。(中略) われわれ日本人は、みずから理念を語ることが面はゆいというだけでなく、人が理念を語るのを聞くと、裏に何かあるのではないかとすぐ勘ぐりたくなる、とても現実主義的な国民である。

この点をいつも実際のビジネスシーンでぼくは経験しています。欧州と日本の会社で契約をする際に必要な最初のステップは理念の共有であるとぼくは日本の企業にアドバイスしますが、ざっくりと言うならば、日本の企業は「技術と人間関係ができれば何とかなる」という考え方をします。お互いに経済的な利益を享受するのが目的ですが、欧州は理念→利益といくのですが、日本では技術+人間関係→利益といきやすいのです。ですから日本では「どちらがより現実的であるか?」という競争に陥る傾向にあり、ルール設定に先陣を切る意義がなかなか見いだせず、世界のビジネストレンドを後で追いかける側になりがちです。グーグルなどネット大手が米国企業であっても欧州が、それらの企業を振り回している構図をみれば納得がいくでしょう。

インターネット上の個人情報保護のルールを主導しているのは、ヨーロッパである。ヨーロッパの規制は厳しすぎるという米国側の苦情にヨーロッパは、「米国がヨーロッパと同じように個人情報保護に関する独立した規制機関をつくるのであれば、話し合いに応じてもよい」と余裕しゃくしゃくである。

理念の力もEUに味方している。ヨーロッパは「個人情報保護は基本的人権にかかわる問題である」という出発点に立つ。したがって、個人データがどのように使われるのかは、本人が管理できなければならないと考える。しかし、米国は「何か問題が発生すれば、消費者保護に関するさまざまな法に基づいて事後的に救済がなされればよい」という考え方をする。

EUがルールメーカーとして世界のトップを走り、新興国が「どうせ守れないのだから、先進的規制をコピペしておけばいいだろう」とEUのルールを国内版に適用し続けている現在、「理念には裏がある」という浅知恵で対処するのは、それこそ現実的ではないのです。どこの理念や原則においても自らの利益を図る意図があるのは当然であることを前提に、より広い範囲の人が納得する理念の確立に励むのがビジネスで勝つプロセスになっているわけです。日米企業が築いてきたプリンターのインクカートリッジのビジネスモデルを英国の会社がスマートチップ禁止法で覆そうとしたのを阻止した事例など身近な経験があるのに、コンセプトの先進性がビジネスの元であると思いきれない日本企業文化があるとしか言いようがありません。

これからフォローすべきテーマに生物多様化の減少に対する動向があります。これは遺伝子情報の希少化につながり遺伝子組み換えを実施している食品や医薬品業界に大きな影響を及ぼすはずですが、自動車業界をも直撃します。

日本の自動車部品メーカーはラジエーターなどの基幹部品を生物由来素材で製造することに成功している。しかし、化石由来の素材を生物由来に転換するということは、遺伝子情報への依存を高めるということを意味する。生物多様化の減少は、あらゆる産業に影響を及ぼす「すでに起こった未来」であり、したがって「産業外部にあるイノベーションの機会」なのである

(中略)

予想されるルールを考えれば、成し遂げられなければいけないイノベーションも見えてくる。市場から視線を上げて社会を俯瞰し、ルールづくりと自己変革を結びつけながら社会との関係を戦略的に再構築していくのだ。

生物多様化を環境保護団体が頑張っているな程度に思って傍観していると足元を掬われることが、こういうケースでも理解できます。そのうえで、市場重視でコスモポリタン的であればイノベーションをおこせる確率が増えると信じ込むのもリスクがあることにも注意を向けないといけません。

米国商務省の課長のセリフは暗示的です。

「日本の国内では政府と産業は密接に協力しているように見える。しかし、いったん日本の外になると正反対だ。米国のドイツ企業が問題に直面すれば、すぐに在米ドイツ大使館が、翌日にはEU代表部が文句を言いに来る。しかし、日本企業は問題を日本政府に伝えることすらしないようだ」

(中略)

ある世界的な米国IT企業の渉外部長は私(筆者)にこう語った。「いかにグローバルになろうと、いかに各国市場で地元化しても、最後に守ってくれるのは星条旗(米国政府)だけだ。このことは決して忘れないようにしている」 (中略) 本社の所在であるとか、幹部の国籍であるとかを足がかりに、最も頼りになる国家の力を借りているのである。

これを読み、経産省でのロビイストを経て現在エネルギー庁エネルギー交渉官である筆者の言葉だからと「現実的な深読み」をしたなら、あるいはEUの理念が経済不安を加速させているのではないかと指摘するなら、まずはあなた自身の感度調整をお勧めします。

関連ブログ

『ヨーロッパのCSRと日本のCSR』を読む→ http://milano.metrocs.jp/archives/4592

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:12/6/10

日本滞在記です。今週も企業でローカリゼーションマップのレクチャーをしたり、今後のプロジェクトの種まきに大阪に出かけたりと走り回る日々でしたが、印象的なことをいくつか書いておきます。

今の時代は何に象徴されるか?特に日本で特徴的なのは何か?を考えるとき、「明示的に決して説明できないことに対して、明示的な回答を求める焦り」です。ある状況に70%の説明が可能だとしても30%はほぼ無理であるにも関わらず、その30%が無理であることを理解できないために、70%の延長線上のロジックで説明できないことに精神的焦燥感があると思います。そういう説明不可能の部分が何もない、ということは非現実的であるとふつうの大人は知っているはずなのに、そのラインを踏み越えたいという欲求に勝てない人が少なくない。

このような人たちが日本にはことさら多いなと思います。これは暗黙的コミュニケーションを前提としたハイコンテクスト文化からの脱却願望でもあるでしょう。それが明示的であろうとし続けてきた西洋文化圏で暗黙的であることを受け入れることに、そこまでプレッシャーがかからない理由です。しかも、その30%を巡ってリーズナブルではない時間とコストがかかっています。70%を確実におさえたほうが圧倒的に勝率があがるのですが、70%に霧がかかっているままにしておいて30%の雲上にのぼろうとしていると思います。人の心のやっかいなところです。

水曜日、東京ビックサイトのライフスタイル展に出かけました。このブログを運営しているメトロクスも出展しており、ぼくの関わっている製品のマーケットの反応を知っておくために見学に行ったのですが、こうした分野で動く人たちのタイプが変わってきたなあと実感しました。より中性的な部分にスポットができている。これまでメインだった女性の一部が男性的な部分に惹かれ、マイナーだった男性の一部が女性的な重力に引っぱられていることです。あまりに当然の理のごとく・・・。

さて、鳴海製陶のOSOROは、食器のシステム概念をしっかり作っていて感銘しました。デザインは田子学さんです。日本では、このようにシステム概念をきわめてはっきりとした輪郭で描ききったデザインは少なく、そこに大きなインパクトがあります。あえて、ぼくのなかでの自問ー今、考えているところーしている内容を問題提起として書いておきましょう。このシステムを採用するのは、ユーザーにとってライフスタイルの選択でありますーそれは一枚の皿を買うとは違うところに、このシリーズの意味があると考えるユーザーという限定ですがー。ここでターゲットにしているのは、必ずしも「理想の食生活」ではなく、どちらかというとレトルトも含めた「妥協的食生活」です。

欧州でいえばレトルトを多用する「妥協的食生活」とは英国に代表され、南ヨーロッパでも普及が急速に進んだと思いますが、大きな差があります。そこには 「妥協」のレベルにずいぶんと差があります。幸か不幸か、日本は妥協であることが妥協であるとはまったく意識されず、「妥協のほうがおいしいじゃない」と の表現が説得性をもっているとも言えます。このOSOROは日本国内だけでない市場を念頭に置いているのだろうとの前提でいうならば、「妥協的ポリシー」 にどれほどに積極的な意義をおいたうえで踏み込んでいるのか?を考えました。コンビニであれ何であれ、便利さが世に広まることをぼくは歓迎しますが、「妥 協の文化差」を意識すべきではあろうと思います。

 

金曜日はローカリゼーションマップのワークショップをやったのですが、ある考えや気づきを自由に表現してもらうこと、それらまったく同じ内容を限定的な選択肢のなかから選んでもらうこと、この二つの間には大きな乖離があると思いました。表現の評価に厳密な定義がない限り、どんな差異も差異として見えてこない。見る人の基準と範囲によって解釈が変わる部分が大きく、結論的にいうなら、それは第三者だけでなく本人自身が「気づき」の差異を認識するに至らないケースが多々あることになります。

昨日の土曜日はローカリゼーションマップの勉強会「検索エンジンとローカリゼーション」。講師は検索エンジンの第一人者の井上俊一さんで、使われたスライドはここにアップされています。アップル、アマゾン、グーグル、フェイスブック、これらの4つがスケールの論理で如何に世界の状況と動向を握っているかーいわば個人情報を掴んでいるかーを指摘してくれました。それでも、これらの4つのコピーで対抗しようとする無理を重ねる試みが沢山あります。そして予想されたように死屍累々が続くわけです。

しかしながら、ぼくがここで感じたのは、これら4つが存在感を増せば増すほど、対抗勢力が違った路線をとってくることの期待です。ひとつは西洋的ユニバーサル文化をベースにしてグローバル文化を追加したロジック。これは、スケールで勝負してきます。二つ目は、スケールにのらないロジックです。その場合はグローバル文化と衝突しないローカルにある現代的ライフスタイルに適用されるロジックです。

自分が企画して決断を下すことに価値をおくー生理的というほどにその必要性を感じ、そこに自分の生存理由を見出す人は多数ではないけれど、極めて少数であることもないアメリカにいないー人たちが、コトをおこすなら後者を選択します。韓国のNAVERの戦略とサムスンの戦略のあいだにある共通点を見出すところに一つヒントが「転がって!」いそうです。井上さんのスライドをよく読んでみてください。