Date:12/10/2

「タイの人は和食は好きだし、日本の文化が好き」と満足げに語る日本の人が多いな。なんでそんな確信もてるんだよ。市場はタイにあり!という勢いで話すしさあ。まあ、それはそうかもしれないけど、悪いけどどうもぼくには全面的に信じきれないところがあって、先月5日間バンコクに滞在している間、このテーマについて考えてみたよ。短い間の限定された経験から感じたことをメモしておく。詳しい人は、どんどん内容の誤りを指摘してね。お願い。

街中のどこでも日本料理店は大きな日本語の看板と共にあり、そこにタイ人の客が多くいることは確かだし、スーパーの食品の棚にも日本の食品が並んでいる。でも、「タイ人は日本食好き。だから日本の文化は好まれている。したがって日本のビジネスに追い風」という論法を応援する人には申し訳ないんだけど、それはあまりその成立を信じきないのがいいんじゃないかな。

高級ショッピング街にある、イタリア料理専門店ではない、いわゆる洋食系でパスタを2回食べて、その麺の質がタイ料理の麺の質に近いことから、洋食のローカライズに気づいたんだよね。同様に、日本人客の少ない日本食屋はやはりタイ風の味で、日本人客の多いラーメン屋は日本の味。ああ、やっぱりね。だいたい、タイ人がタイ人を接待で使うのは中華料理というじゃない。日本食じゃないんだよ。要はすみ分けなんじゃない。

タイの人と話せば日本のことを聞かれるのは当然でしょう。ぼくが日本人なんだから。相手は日本に興味があるとも言うよね。でもそれ以上に、ぼくの住んでいるヨーロッパへの質問が多いんだよ。大規模な書店の棚をみると、どんな分野であれ、英語と中国語の書籍が多くタイ語のそれは少ない。こういう本をエリートが読んでいるなかで、日本文化への関心が突出することはあまり考えにくいなあと想像するのが普通でしょう。バンコクで日本食が普及して定着したのは、世界中にあるチャイナタウンをコアにした中華料理のケースと近いんじゃない?5万人も日本人がいれば、それで何でもいちおう成立しちゃうよね。世界にある中国人の「なんちゃって寿司」が大衆化を図ったのと路線が違うんだよ。

とにかく、日本人がこれだけの母数があって食のバリエーションがあれば、それだけ社会的インパクトが与えられる。イタリア人やフランス人はここまで多くないんだよ。だから小規模に商売するし、大量に食材を仕入れられるわけでもないから、やはり高コスト体質がついてまわる。そういう店はローカライズ度が低い店で母国人がわりといて、タイ人もいるけど、大多数とはいかないんだな。だからタイ人も興味しんしんなのに気楽に足を運びにくいんだよ、よくあるじゃない。三色旗を店の前に出しているところ。あれに行きたいんだけど、金はかかるし、敷居が高いんだ。昔、日本でイタリアントマトみたいのがイタリア料理を普及させた功績ってあると思うんだよ。そう、そう、イタリアントマトはタイにもあるんだよね、余計だけど。

また余計かもしれないけど、この手の外の店のワインリストはね、スカスカなんだよ。チリ、オーストラリア、南アのなかにフランスとイタリアも鎮座してんだけど、なんかやる気が伝わってこない感じなんだよ。まあ、スーパーに並んでいるワインも種類が少ないねえ。それ反してオリーブオイルは賑やかなほど鎮座しているんだ。

人数って大きな要素なんだよ、ある食が広まるにね。そしてその食が定着すると、それは文化を意識しないものになる。日本の家庭でカレーをインドと結びつけて食べる人なんていないでしょう。そういうもんなんだよ。ローカライズされた食はオリジナルのコンテクストと絶縁しちゃうわけだ。たまにふっと思い出されるぐらいにね。まあ、そういうことを沢山、思ったね。

タイの後、1週間日本にいて、日曜日にミラノに戻ってきた。さあ、明日からイタリアデザイン三昧の生活だ!

Date:12/9/14

夏が後ろ髪を引っ張られるように連れ去られ、秋が侵入してきました。

6月に小学校を終えた息子の中学校もやっとはじまり、長い3か月の夏休みが終わりましたが、「ああ、やっぱりイタリアの文脈がよく分かっていないなあ」と痛感する経験が学校初日からありました。どうせ入学式なんかがあるわけじゃないんだからと思って、初日に学校に子供について行かなかったら「親が来ていなかったのはウチだけだったみたい」と息子が帰宅して不満そうに語ります。儀式的な集まりではなかったのですが、体育館に新入生と親を前に運営上の説明があったようです。こういうのがあるだろうと思っていると期待を裏切られ、そんなことに力を入れないだろうと思っていると案外の案外があるんですね。要するに勘が十分に効かない。そのたびにイタリア生活初心者に戻るわけです。

イタリアで生活をはじめたころ、親分から「言葉は経験の幅によるね」と言われたことを、こういう時に思い起こします。あることの経験をしないと、そのことに関連する言葉は存在さえ考え及ばない。義務教育からその土地で生きていない不利な点です。言葉も勘も。葬式のことなんかあんまり詳しくもなりなくないけど、それなりに回数を出ていると服の勘も分かってきます。こういう人のこの季節の葬儀なら、ジーパンにポロシャツでもいい、とか。昨日参列した教会での葬儀では喪主がネクタイなしの黒いシャツで、スーツにネクタイはお棺を運ぶ葬儀屋の屈強な男たちだけでした。こういう経験のない最初のころは、ダークグレーのスーツにネクタイで出かけ、「あれっ???」と居心地の悪い思いをしたものでした。真っ黒じゃなくてもいいだろうと思ったら、もっと崩れていたわけです。

長いイタリア生活で「変わったなあ」と思うことのひとつに服があります。20年数年前、日曜日の昼間はジャケットにネクタイで散策する人が目立ち、ジャージを日常着て歩く人は、イタリア人ではなくアフリカの人でした。だいたい「おしゃべり好きのイタリア人は黙々とジョギングなどしない」と言われ、確かに友人と駄弁りながらジョギングする人が多かったです。スポーツをする人はスポーツをしても、それが日常風景のなかにあまり入ってこなかったのです。あえていえば、自転車は日常のスポーツ文化として一般の人の目に見える存在でした。それがアメリカ発のスポーツファッションが定着し、アップル製品を手にしながらジョギングするに至ったのです。そう、まさしく「至った」という感覚です。西海外から地球を半周して到達した、と。

一時期、トレンドリサーチで、スポーツ雑誌を片っ端から買い集めていたことがあります。「ウォーキング」「ヨガ」あたりをみると、「西海岸文化臭さ」がぷーんと匂うのに、「ヨット」「サッカー」「テニス」ではヨーロッパの香りがしてきたものです。「トレッキング」はそれぞれの文化のなかで成立していて、これはこれら2つの流れとは違うなあとも思いました。そういうリサーチのなかで、禅に興味のある人が地中海でヨットを浮かべるに熱中することは少ないし、ヨットやスポーツカーに金をかける人たちにおける「東洋趣味」は極めて限定的であるということが肌で感じられるようになりました。ぼくがレクサスはヨーロッパで間違ったアプローチをしていると繰り返し話してきたのも、このスポーツをキーにしたときのタイプの違いは、そう簡単には変わらないと思ったからです。日本におけるスポーツの選択とは若干違っていると見えました。

こんなことをボソボソと独り語ちながら、夏の始末を終えつつ、秋の怒涛の日々へと移っています。来週は久しぶりにタイに滞在します。最初が30年前、2回目が23年前。そして、今度が3回目。タイのデザイン推進機関であるタイクリエイティブ・デザインセンターでレクチャーとワークショップを行います。タイのビジネスマンとデザイナーに異文化市場の見方を話してきます。同時に、今後、アジアの地域でローカリゼーションマップがどう貢献できるかをいろいろと確かめてこようと思っています。そして再来週は日本です。何か所かクローズドなところでレクチャーやワークショップを行い、滞在最終日に勉強会。ワークショップそのものをテーマにとりあげ、ワークショップをこねくり回してみます 笑。

そういえば全然関係ないのですが、最近、日本のテレビドラマで非常によく登場する舞台が漁村です。これ、何を象徴しているんでしょうか?

Date:12/8/30

クーリエ・ジャポンの編集部ブログに「女がキャリアも家庭も…なんてやっぱり無理でした!」というエントリーがあります。以下、抜粋です。ちょっと思いつくままに感想を書いてみましょう。

スローターは、オバマ政権で国務省政策企画室長を務めたエリート中のエリートです。彼女には育ち盛りの子供が2人いますが、夫は育児にとっても協力的。や りがいのある仕事に高い報酬、上司は理解ある女性(ヒラリー・クリントン)。恵まれた環境で思う存分、キャリアに邁進していたはずのスローター。そんな彼 女が政府で2年間、がむしゃらに働いて出した結論が、「仕事と家庭の両立は不可能」というものだったのです。

スローターが「不可能」と言い切る理由は、米国の経済と社会の構造にあるとしています。長時間労働をよしとする「時間マッチョ」の文化や、家庭を大事にする人が低く評価される風潮が、いまだに幅を利かせているといいます。

今更言うまでもないことですが、世の中に完璧なシステムは存在せず、仮に存在とするなら、要望を個人的感情も含めて120%カバーしてくれるような稀に偶然で生じるケースを「幻想的」に眺めた場合です。最近、共感という言葉が幅をきかすのは、論理的整合性だけで人は動かないことがつくづく分かった人が多いからです。プロダクトもよりインターフェイスに重要度がおかれることで、ラーメン屋のオヤジの常識をもたない人たちが急に目覚めたということもあるでしょう。だからラーメン屋のオヤジは「共感?何言ってるの?」という反応です。まあ、ちょっとこれだと話が脱線しすぎかもしれませんが、冒頭の引用は、日本にある問題が実は米国でもあまり解決されていないとの呟きです。これは、米国の女性キャリアに対して共感を過大に抱いてきた一編集員の迷いです。

こういうことを書くと反発を食うかもしれませんが、国際結婚の成立には、文化的選択という要素が避けがたくあります。自己主張が強い攻撃的な女性に疲れた男性が、その逆の価値を重んじる文化圏の女性を結婚相手に希望する例は沢山あります。もちろん、その反対もあります。恋愛や結婚は個人の感情の持ち方に左右されるのは当然ながら、その左右のされかたに傾向やパターンがあるから、アメリカ人のボーイフレンドが多い日本人の女性がいたり、東洋の女性を次々と恋人にするフランス人男性がいたりするのでしょう。北ヨーロッパの男性なら女性の仕事に理解が深いだろうと思うのも、その一つです。

ブログの編集者は国際結婚について述べているわけではないですが、女性が家庭と仕事を両立する文化圏が世界に存在しているというのは思い込みだったのではないか?と問うのは、完璧なシステムを想定していた時点で無理があります。いや、正確にいえば、彼女がアメリカ社会の「先進性」を完璧とまで思っていたとも書いていません。破壊すべき仮想敵としてのアメリカ文化の「先進性」を語ったのかもしれません。いずれにせよ、アメリカ文化にかなり高い点数をつけていたのは確かでしょう。その息苦しさが自分には合わないとも思いながらも・・・・。

ぼくがここで言いたいのは一つです。世界のさまざまな文化圏の比較をするとき、良い面を評価するとしても60点くらいをあげるのが適当ではないかということです。自分のところは40点だけど20点上だから「マシ」であるというわけです。評価できるシステムだからといって100点満点で90点を与えるのは、あまり発展的な結果を生まない。60点が合格とするならば、それがマックスだと思うーそれ以上の点数をとれるところなんてないーのが、実践的なコツではないか、と。