Date:08/2/4

ミラノはデザインの中心地だとおだてられてきて(苦笑)、「でも、それに相応しいデザインセンターがない」ことに焦りを感じていました。昨年12月、トリエンナーレの常設展示場ができて、ほっと一息というところでしょうか。ポランとの対話のなかでも書いたように、1950年代まではデザインといえばスカンジナビアが偉かったわけです。そのまさしく1950年代にイタリアのデザインが「よ~し、俺たちもやるぞ!」とがんばりはじめたのです。

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アンナ・カステッリはカルテルの製品をもっとも多くデザインした一人ですが、創業者の奥さんでもありますね。カッシーナ、アルフレックス、カルテル、このあたりがイタリアデザインの先頭集団を組んだのですが、今週は、3年ほど前に創業者のカステッリさんと会って話した時の内容も引用しながら、あの時代の心意気に触れてみましょう。

いやね、実は50-70年代に活躍した色々なデザイナーと話しているうちに、「ヒット作でお金が儲かったのかなぁ」という素朴な疑問がでてきたんですよ。「いやぁ、そのときの契約書はいい加減だった」という話が多くてね。そのうちに「イタリアデザインはデザインフィーをロイヤリティにしたから発展した」という意見にもぶつかり、「1950年代にデザインロイヤリティを導入したミラノの弁護士がいた」という証言(?)まであり、これはカルテルの創業者であるカステッリさんにも確かめておこうと思ったのですね。

Date:08/2/1

ノヴィラーラの埋葬地から、この時代の鉄の剣や琥珀の首飾りが出てきました。鉄器時代にちょうど移行している最中に貴重な鉄を子孫に譲渡しなかったのはどうして? 琥珀もアルプスの北側でしか入手できないものでした。そういうものを土の中に埋めるのは、よっぽど経済的に余裕があったのだろうと想像できます。

まず、クロアチアの近海でカクッとノヴィラーラに交易船が曲がったのは、あそこに海賊が多かったから、それを避けるためだったろう。すると海賊は黙ってみているわけはなく、挟み撃ちを考えるだろう。そのための基地がノヴィラーラだったのではないか。その頃、海面は現在より3メートル高く、ノヴィラーラは海から眺めると威容な城砦にもみえたはず。そうコバウは考えたのです。

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上は現在のノヴィラーラからアドリア海を眺めたところです。2800年前は、海が眼前にまできていたはずです。惜しげもなく鉄や琥珀を土の下に埋めたのも、海賊ゆえの行為だったのではないかということなのですが、「あれは戦うための船だったのではないか?」という疑問が、こうして回答を導いてきてくれたわけです。つまり、戦うとは、海賊が戦うという意味だったのですね。

実はコバウの自宅も、この近くです。そして対岸のクロアチアにも家があります。まさしく海賊と同じ位置でアドリア海を眺めているわけです(笑)。

Date:08/1/31

少年院を出て社会復帰を待つ若者たちが集まるセンターがあります。その彼らが社会体験を積むための予算がEUにありました。コバウはこのお金を獲得したのです。造船現場には、彼らの汗する姿がみられました。それもイタリアの若者だけではありません。アイルランドやフランスからもきました。この体験プログラムはEUのなかでの交流をも促すものでした。船を作り航海に出るのはとても面白かったらしく、若者たちは「次の船はいつ作るの?」と聞いたそうです。

彼らはプロジェクトを終えると全員無事に就職先が決まったといいます。ハッピーエンドですね。さて、それでは航海にでた場所を確認してみましょう。下は地中海(左)とアドリア海(右)に挟まれたイタリア半島です。

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ノヴィラーラはアドリア海沿い、ヴェネツィアの南に位置します。まっすぐ東にいくとクロアチア、クロアチアからそのまま南にいくとギリシャです。 ここの海流は反時計回りです。南から現在のヴェネツィアに航海するなら、当然ながら、この旧ユーゴスラヴィアに沿って北上していくのがいいに決まっています。でも交易の歴史を調べると、どうも違うんですよ。

 南から北上しながらノヴィラーラの対岸でカクッと曲がって、西、つまりノヴィラーラの近くまできてヴェネツィアに向かっていたことが分かったのです。どうしてなんでしょう・・・。

 

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