Date:08/2/6

コンパッソ・ドーロはよく日本のグッドデザイン賞と比較されますが、これは1954年に誕生しました。デパートのリナシェンテがはじめたものです。その後、デザイン組織であるADIに移行しますが、最初はデパートがイニシアチィブをとったのですね。ADI会長フォルコリーニの言葉を借りれば、「コンパッソ・ドーロをやるには商売上のそれなりの理由があった」のです。北欧デザインの商品は輸入品で高い。国産品は質が悪い。こういう悩みを抱えていたのですよ。そこで、デザインのレベルをあげ、良い製品を作る必要があったんですね。

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またまたフォルコリーニの表現を使えば、「イタリアデザインには父親と母親がいて、それはオリベッティとリナシェンテだった」という具合。このような状況のなかで、カステッリは企業家として奮闘していたわけです。もともと化学を勉強したカステッリでしたが、実際の製造の世界は分からないことだらけで苦労したようです。しかしながらまったく知らない分野でもなく、彼のお父さんがクルマのナンバープレートを作る会社をやっており、カステッリはそこで2年間働いた後に独立したのです。

だからカーアクセサリーにはなじみがあり、クルマの上にのせるスキーキャリアが最初のヒットでした。そして、バケツでコンパッソ・ドーロをとるのです。デザインはジーノ・コロンビーノ。快進撃のはじまりですね。

 

Date:08/2/5

カルテルの創業者であるカステッリに会って、「50年代にデザインロイヤリティを導入した弁護士の存在をご存知ですか?」と聞くと、「えっ、そんなの知らない話だなぁ。そりゃあ、何人かのデザイナーのエージェント的役割をしていた弁護士はいたけど、彼が導入したというわけでもないと思う」という答え・・・・というわけで、真相は遠のきました。だいたい、スカンジナビアでロイヤリティ制をまったく使っていなかったわけでもなさそうで、これだけをもってイタリアデザインの誕生を語るには無理があるなと思いました。

いずれにしても、第二次大戦後の混乱から立ち直り経済成長の波にのっていくイタリアのミラノ周辺で、冒険心に富んだ若い企業家と同じく若いデザイナーが出会い、「ねぇ、何か一緒にやろうよ。君が何の技術をもっているかを教えてくれれば、僕がデザインを提案してあげるよ」という会話から仕事がスタートしたことは間違いありません。

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「北欧デザインを追い抜こうという気持ちは強かった。彼らはよいものを出していたけど、木の製品が多く、技術的に新しいものとは言えなかった。それで我々は、新しい素材と技術でプロジェクトを起こそうと思ったんだね。戦略的だったんだ。」とカステッリが語ります。そこで、リスクをとる企業家とリスクをとるデザイナーが新しい時代を作っていったのです。「何か提案してよ」という言葉があったとしても、デザイナーの提案は持ち込みの性格が強く、デザインフィーはデザイン買い取りではなく出来高で支払われるという形が、プロジェクトのスタートを楽にしてくれたのは確かです。

Date:08/2/4

ミラノはデザインの中心地だとおだてられてきて(苦笑)、「でも、それに相応しいデザインセンターがない」ことに焦りを感じていました。昨年12月、トリエンナーレの常設展示場ができて、ほっと一息というところでしょうか。ポランとの対話のなかでも書いたように、1950年代まではデザインといえばスカンジナビアが偉かったわけです。そのまさしく1950年代にイタリアのデザインが「よ~し、俺たちもやるぞ!」とがんばりはじめたのです。

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アンナ・カステッリはカルテルの製品をもっとも多くデザインした一人ですが、創業者の奥さんでもありますね。カッシーナ、アルフレックス、カルテル、このあたりがイタリアデザインの先頭集団を組んだのですが、今週は、3年ほど前に創業者のカステッリさんと会って話した時の内容も引用しながら、あの時代の心意気に触れてみましょう。

いやね、実は50-70年代に活躍した色々なデザイナーと話しているうちに、「ヒット作でお金が儲かったのかなぁ」という素朴な疑問がでてきたんですよ。「いやぁ、そのときの契約書はいい加減だった」という話が多くてね。そのうちに「イタリアデザインはデザインフィーをロイヤリティにしたから発展した」という意見にもぶつかり、「1950年代にデザインロイヤリティを導入したミラノの弁護士がいた」という証言(?)まであり、これはカルテルの創業者であるカステッリさんにも確かめておこうと思ったのですね。

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