Date:08/6/18

1990年3月にトリノに来たぼくは、何をしていてもいい言われ、毎日ブラブラしていました。昼間からカフェでビールを飲んで、明るい日差しのもとでボンヤリとバロック建築の街並みや人を眺めていたり。その年の秋頃でしょうか、突如、何かをやりたくて仕方がなくなったのは。トスカーナの文化センターとなる狩の館の改修工事が進んでいたので、文化事業に首を突っ込んでみたいと思うようになったのです。欧州における日本研究の現在を知ろうと、英国の大学をスコットランドからロンドンまで専門の教授7-8人と会う旅もしました。

都市計画関係のネットワーク作りをスタートさせたのもこの時期。文化センターの構想を話し合う会議には、色々な人間が集まりました。心理カウンセラー、医者、美術史研究家、建築家、実業家・・・と多様です。テーマは「文化の違いを知り、それを受け入れるにはどうすれば良いのか?」。

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そういう会議に出席しながら、ぼくは何となく分かった気になりましたが、でも眠気も感じたのも正直な感想です。その時、宮川氏に言われました。「君にはまだ難しい話だろうな。あと10年くらいしないと分からないと思うよ」。「えっ、そんな!」と反発もしましたが、本当、その通りでした。文化の違いをディテールとコンテクストの両方から身をもって知るには、まだまだ時間と経験が必要だったのです。

Date:08/6/17

89年はまだバブル経済で狂っていた時代です。だから車を作りたいという会社も自動車会社以外に少なくありませんでした。5月からプロジェクトを企画し猛進した。 一時は光明が見えたかにも思えたのですが、半年後の10月、関係者の動きからみてこれは座礁すると判断し、宮川氏に白旗をあげざるをえませんでした。

そうしたら11月はじめの帝国ホテルで「2年間、トリノで面倒をみよう。最初はヨチヨチ歩きだろう。自分で歩けるまで2年間は必要だろう。その後、独立すればいい」「今までは企画書をちゃんと書いて仕事をする世界にいたわけだが、これからは野武士になって欲しい」と言われたのです。狂喜の一瞬でした。

実際には90年3月から3年半、トリノのあの会社らしからぬ空間の事務所にいました。それまでの会社をやめたのが90年2月28日、イタリアに向けて成田を発ったのは3月1日。 宮川氏にどうすれば評価してもらえるか・・・毎日のように考え実行に移した89年でした。

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学生時代からの付き合いで、卒業後もしょっちゅう翌朝まで酒を飲んでは「明日を生きる」ことを語り合っていた先輩は色々と相談にのってくれ、励ましてもしてくれました。 あの3月1日の夜、いまは多くの若い人たちから「夜回り先生」と呼ばれる彼が成田で言った「いつも去る人間より去られる人間の方が寂しいんだよ」という台詞は今も忘れません。彼には深く感謝しています。

Date:08/6/16

トリノでぼくは「自動車と都市計画の両方を視野に入れたビジネスを作っていきたい」と話しました。「考え方としては面白いが、ビジネスは別個に考えた方が いい。石畳とアスファルトの道ではサスペンションを変えないといけないし、コミュニティのあり方との関係で新しいコンセプトの車もスタディしている。が、 ビジネスにはまだ早い」というのが宮川氏の意見でした。 そこで二つのプロジェクトの可能性を示してくれたのです。一つはスーパーカーの限定生産。もう一つはトスカーナに約12万坪の丘にある狩の館を購入したので文化センター設立。

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その頃、自動車会社にいたぼくは、スーパーカープロジェクトに何らかの貢献ができるかもしれないと考えました。 しかし、それらがどういう意図でどういう人たちの間でどのように進められているかという詳細は何も教えてくれない。この日に分かったことが一つあります。頭を下げてお願いしますと言えば働けるものではなく、ぼくが何らかのことを具体的に示す必要がある、ということでした。これが宮川氏流の仕事のやり方だと、ぼくは理解したのです。

東京に戻っても、彼が言った「このままいくと、日本では試行錯誤という言葉が死語になってしまうかもしれない」という台詞が頭から離れません。 ぼくの結論はこうでした。日本からビジネスのお土産をイタリアに持って飛んでいくしかない。会社の仕事との二足のわらじの生活がこうしたスタートしたのです。