Date:13/7/31

ぼくの幼少時の外国人体験を思い起こすと、家の近くにあった教会の米国人神父家族、米軍の軍人、横浜中華街の中国人といった人たちとの接触ーといっても、直接コミュニケーションをもったのは神父家族程度だったと思うーでした。これはぼくの個人的な経験という偶然もありながら、同世代の一般的な傾向が如実に出ていると言ってよいでしょう。

現在、ミラノに住んでいて南米人とのコンタクトはクーリエサービスの運転手やアパートの守衛あるいは掃除をする人たち、アフリカの人たちは露天のモノ売りであることが多いです。そして中国人は飲食店や小売の人たち。もちろん、これはあくまでも街で出会う人たちであり、ビジネスや教育関係の世界に入ると彼らも全く違った登場の仕方をしてきます。一方、韓国人はビジネスかプライベートな生活でのレイヤーが圧倒的に多く、中国人のように小売やサービス業でこちらが客として偶然に知り会うことが少ないです。これも日本人の個別の事例というより、普通に生活しているイタリア人の体験とそう変わりません。

すなわち多くの国籍、多くの民族の人たちに囲まれて生活しているように見えながら、実は非常に限定的な側面しか見ていない。そういうのをあえて超えるには、子供の学校ー特に公立の小学校ーの親と沢山付き合ったり、社会貢献的な活動に精を出すことですが、自らの殻を取り除くためという名目では継続的な活動は続けにくいものです。とするならばー話はかなり飛躍しますがー、この「敷居」の高さは、飲食店や小売りで世界にネットワークをもつことが、ある国の経済を活性化させる「情報収集」に如何に役に立つかの反証にもなります。

華僑や印僑のことを言っているわけですが、上海発でシルク素材をコンテポラリーなデザインで表現し、一流中国ブランドの確立に的を絞った戦略を着実に実行しているアナベル・リー・シャンハイの創業者が日本留学時代に向き合わざるをえなった現実がもつ意味は、ビジネス面からも示唆するところが大です。

1988年、父に半ば強制されるようにして、彼女は日本の地を踏んだ。日本語の予備知識ひとつなく、文字どおり西も東もわからない。(中略) 彼女の場合も、持ち帰り弁当店などでアルバイトをするかたわら、日本語の勉強に精を出す苦しい毎日が始まった。若いからこそ耐えられる、それは肉体的にも精神的にも過酷な日々だったに違いないけれども、彼ら彼女らはそういう暮らしを通じて、日本人とはどういう人々であるか、濃厚な集中講義を受けるにも等しい。一人の平均的日本人が付き合う階層的な範囲を大きく超え、学のある人ない人、カネのある人ない人、ウソをつく人つかない人・・・、彼らは実に多様な日本人と接していく。

現在、上海の中国人の100人に一人は日本留学経験者「留日生」と言われていますが、彼らの間でも「視点の交換」が濃密に行われてきたことを想像すると、商品開発からブランド戦略に至るまで、彼らの底力のソースを片っ端からリストアップしてみたくなります。

こうして生まれるいわゆる知日派は、ライシャワー的な、英語を喋る日本人ハイソサエティとの付きあいが生み出してきた類のそれとは随分と違うものになる。(中略)アナベル・リー・シャンハイのブックカバーが文庫本にジャストフィットしていて、しかもロゴふうの印をあしらったしおりがついていて読みかけのページをマークできるようになっていることなど、彼女が日本で、同世代の娘たちが電車の中で本を読みふける姿をじっと見ているだろう様子を想像させるものである。来店する日本人女性客は、必ずといっていいくらいこれを買っていく。

貪欲に生活しながら、読書習慣の妙に入り込んでいます。この例も「路地裏」と呼んでいいのかどうかわかりませんが、最近の日本食の海外プロモーション流行りーというか政策的な枠組みに入った、というべきーのなかで、その先に「路地裏経済の大きな地図」が描けることが分かると、スカスカ感の強い食周辺の論議ももう少しレベルアップするのではないかと思うことしきりです。

 

 

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:13/7/11

寿司屋のカウンターがやや苦手な時があります。板前に趣味を判断されているようで心地よくない。振り返ってみると、20代では寿司屋のカウンターは贅沢な場所でした。銀座の値段の出ていない高級寿司屋に女の子とデートで出かけ、食べた気がしなかった冷や汗モンの経験など数知れず・・・パリで美術を勉強して乗馬を趣味としていた彼女の前で虚勢を張ろうとした自分が情けない 苦笑。どちらかといえば熱海にクルマを走らせ男友達と寿司を食べる方がずっと気楽で楽しかったです。ただ、ぼくがまだ苦手と思うのは、たぶん、友人たちが寿司屋のカウンターのマナーを学ぶ30代以降、日本にいないからです。寿司は大好きなのに、板前との会話には何となく距離を感じるというか・・・バーのバーテンダーと話すにはまったく抵抗がないのと逆です。

寿司屋の板前は、客をよく見ています。注文の仕方や注文する順序だけでなく、船ちょこといわれるつけ皿に、むらさきを入れる量、握りの持ち方、箸の置き方までです。

やっぱり!ちょっと叶わないなあ、と思ってしまいます。それも板前だけでなくカウンターの隣の客にも見られている風なのが。寿司屋は客がメニューを自分でつくる分ー本書によれば「寿司は総合芸術だ」とありますー客に緊張を迫る余地が沢山あるというわけです。あえていうと、天ぷら屋のカウンターもうるさい親父の目が光っていることが多いですが寿司屋ほどではありません。まあ、ラーメン屋でも「俺の流儀で食わない客は出ていけ!」みたいなムードがあることもありますので、どのジャンルに限らないか。とにかく、こういうの大嫌いです!好きにさせてくれ!

というわけで「魚道」なんて言われると、自らを批判されるようで実に居心地が悪いです。しかし、この著者のお二人を直接知っているぼくとしては、単に緊張を強いるためにこの本を出したわけではないことがよく分かります。相模湾の魚を味わう葉山の「稲穂」の鈴木さんは清々しい方ですし、本書に何度と出てくる今はない四谷の「纏寿司」の親父さんも無駄に客にプレッシャーをかける人ではありませんでした。水谷さんも鈴木さんも、すてきなことを言ってくれます。

寿司屋は、季節を食べに行くところです。(中略) 寿司屋のネタケースを、きちんといつも見てください。季節折々に、その季節に旬を迎えた魚が並んでいます。それを食べながら、海の四季を知る。これが、鮨の醍醐味だと、私は考えています。

と水谷さんが書けば、鈴木さんはこう書きます。

海の四季を感じることは、漁師でもない限りなかなか難しいからでしょう。でも、実は、簡単に海の四季を感じる方法があります。それは、寿司屋で鮨をつまみながら、板前とそのときどきの海について話せばよいのです。板前は魚のプロ、当然折々の海についても、よく知っています。その話から、季節を知り、そしてその季節のおいしい魚を、海の中の様子を思い浮かべながら楽しめばよいのです。

そう、話せばいいんです。コミュニケーション。分からないことがあれば板前にメニューをお任せにして、それぞれ教えてもらえばいいわけです。鈴木さんは、こうも書きます。

私が、寿司屋の小僧だった半世紀前と今で、何が寿司屋で一番変わったかといったら、やはり、ネタケースに並ぶ魚の種類と数でしょう。あの当時は、本当に江戸前、東京湾で獲れた魚を出していました。ネタケースには、東京湾の四季、季節がありました。今は、寿司屋によっては、世界中の魚が、季節を超えて並びます。これは、いいことなのか、わるいことなのか、私にはわかりません。

そうだよなあ、海外の8割以上の非日本人による寿司に対して、日本の寿司が正統であると主張するに相応しい状況に日本の寿司はあるのか?と思います。このテーマの水谷さんの考え方には賛成です。

単に江戸前寿司が、本当の姿、それが本物と、日本のどこでも、冷凍物や輸入された魚でその形に近づけて、またネタも同じようにして、その土地の客に提供するのではなく、ある程度は、妥協はやむを得ないにしても、その土地土地の魚を素材として、その土地の海の味を、いのちを、客に楽しんでもらう。これが、鮨の本道なのではないでしょうか。

つまり、イタリアであれば地中海やアドリア海の魚を最大限生かすことに注力するのが「本物の鮨」の考え方であり、そういった地産地消的なポリシーの普及材料として鮨が語れることはもっとあるのではないか、との感想を本書を読みながらもちました。「地中海の四季を伝える」という名前の寿司屋がリグーリアの海外沿いにある・・・いいなあ。だいたい、寿司屋は鮨だけを食べるところじゃなくて、魚を中心とした料理屋であるという定義にもっと近づかないといけないですね。

 

 

 

 

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:13/7/9

ぼくは子供の教育に熱心であると胸を張って言えないダメな父親ですが、それでも時に息子の教科書を読みます。イタリアで学校教育を受けていない身にとって、教科書はイタリアの人たちのロジックを知る「秘密兵器」です。小学校の歴史の教科書ー科学の教科書ではなく!-では宇宙の歴史、ビッグバンから始まります。人の営みに辿りつくまでの時間がえらく長いのです。先史時代をちょこちょっことやって「世界四大文明」にいくなんてとんでもない!

地理の教科書では、地図には2種類あり、普通の客観的な地図と共に認知的(主観的)地図があると教えていました。地図の描き方はロジックの鏡である、とイタリア人の地図を「商売道具(?)」にしているぼくは、この地図の定義を読んで指を鳴らしました。中学校の美術史も印象的でした。最初のページにラスコーの洞窟の壁画があり、「ここに描かれている動物は?」「そう思う根拠は?」と質問が延々と続いているのには唸りました。但し、イタリアのどこの学校の教科書もこのような内容なのかは知りません。

こうして教科書を読んで常々思うのは、イタリアの学校教育が強権的に西洋文化中心主義になっているわけではない、ということです。かつてはそうだっかもしれないが、少なくても現在の普通の学校は「時流にのっている」。ギリシャ文化は中世の時代にエジプト経由で欧州にもたらされたことを欧州人が今となって特に「隠し事」として扱っているようには思えず、もっと「現実」を受け入れている。これが「物事の見方」を教えることに力を入れようとする教科書の記述に表れているように思えます・・・といっても、相変わらず質の高い生活をキープできている欧州人が驕らないわけではないですが、欧州のまともな人たちは「西洋の没落」をかなり正面から見ています。

EUに近代国家以前のかつての欧州のイメージが全くダブらないといえば嘘になりますが、国境廃止の流れを作ったー実際、陸路に税関もパスポートコントロールもないーEUが、欧州と言う限定版であるにせよ新しい「視点」を作ってきたことは事実です。財政問題によって散々に批判されようが、その世界観は「時代遅れではない」・・・との印象は否定しがたい。植民地を失い自分たちの権威低下を「最近」身をもって経験してきたばかりの人たちにとって、世界の変化は、この数十年でジェットコースター的人生を送ってきた日本の人たちよりも敏感な問題なのではないか、と考えるのです。

だからこそ「近代国家観」や「近代的自我」の限界は、人に言われなくても痛いほど分かっている・・・と欧州人は思いやすい。情報革命によって生じた「フラット」も「俺たちは痛感している」。一方、成熟した「近代市民」になりきれなかったと自らを責めてきた日本の人たちは、「俺たちはできていないと劣等感をもつ必要はなかった」と安堵すると同時に、「フラット」を推進している首謀者でないことに後ろめたい想いをもっています。なにせ西海岸文化は東洋の精神を消化しているじゃないか!ネタは持って行かれた!

テクノロジーがつくる<場>の革命は、ウチとソトの境界を破壊し、国民国家と、その上に築かれた民主主義という20世紀のシステムを壊していくでしょう。

しかしその先には、昔から人びとが願っているような「皆が自由になる世界」「抑圧がない平和な時代」がやってくるわけではありません。ウチの幸せが消滅し、<場>へと世界が移行していくと、そこではやはり<場>を運営する側とされる側という新しい支配関係が生まれます。

支配がなくなるわけではありません。支配の構造が変わるだけなのです。

国民国家という古い権力支配が終わり、<場>という新しい権力支配が始まるということ。

これが21世紀に起きるー起きつつあるーことだと著者は書いています。場とはプラットフォームのことです。この数世紀間に支配的であった権力が弱体化し、さまざまなレイヤーー国、政治、言語、アート・・・- が相対化していく結果、従来型のコミュニティと細分化した新しいコミュニティが併存していく姿を描いています。すべてが流動的になることを不要に怖がるのではなく、新しい社会の全体的なイメージを過去も参照しながら把握し直し、プラットフォームへの無駄な劣等感を振り払い目を大きく開いて前進しよう、というわけです。

ここで眼前に展開している状況にどういうタイプが早く適合していくのか?との問いを出したい誘惑にどうしてもかられます。が、どうもそういう分析があまり役に立たないほどに、人って多面的でどうにでも適合していくのではないか、とも思います。動機次第。人の能力にさほど差があるわけでなく、動機を自分で創れるかどうかが、人の人生を決めます。だから動機。

尚、サンケイBizに書いた以下の記事も一緒にお読みください。本書の理解の参考になると思います。

なぜ日本は「グローバル」に弱いの イノベーションの語られ方

http://www.sankeibiz.jp/macro/news/130630/mcb1306300501000-n1.htm

それとコーエンの『創造的破壊 グローバル文化経済学とコンテンツ産業』のレビューも参考によいかも。

http://milano.metrocs.jp/archives/4977

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