この約2か月、ネットで日本のTVドラマを徹底して見てきました。過去のアーカイブもカバーしたので、この1-2年のドラマをまとめてみた感じです。タイトルやキャストから想像して「くだらないじゃない」と思えるものでも無視することなく、少なくても1-2回は見てみる・・・ということを続け、今の日本のTVドラマ動向がかなりわかってきました。脚本の比重がより増しているのではないかというのもその一つです。演じる俳優の質を問わずに一定レベルのドラマをアウトプットできる。これが大事なんだと思います。
しゃべりや演技が下手であるのは、もしかしたら演技に型があった時代の幻影と比較しているに過ぎないのかもしれません。舞台や映画で役者としての経験が少ないと、同じ演技を何度も繰り返して練りこむ度合が減るのは必然でしょう。また現在TVドラマでは役者的なしゃべりより、「隣のお兄さんお姉さん」のどこでも聞くふつうさが視聴者から求められているとしたら、舞台俳優的うまさは余計です。だから脚本が重要な位置を占める・・・これが、ぼくの仮説です。
脚本が面白いというとき二つのポイントがあります。セリフまわしの妙とストリー展開のダイナミズムです。「なるほど、こういう言い返しのしかたがあるわけか」と唸らせるだけでなく、本当は言いたいんだけどなかなか言えないセリフも妙です。後者も先が読めないような意外な筋書きだけでなく、「ありそうでナク、なさそうでアル」綱渡り的な緊張感。あるいはまったく予定調和的に見たい物語をそのまま経験させてくれるというパターンもあります。この二つの要素がうまくかけ合わせられると面白いドラマとなります。
キムタクや松嶋菜々子など視聴率をとるためのタレントの配役はあるのでしょうが、脚本の時代において俳優は誰でも良いのではないかと思わせる・・・・そういう印象はあります。かつて、演技に型があったように俳優に型がありました。時代劇の侍をやるなら彼で、刑事役ならあの人、と。俳優はドラマを選び、できるだけ自分の俳優イメージを構成できる役以外は避ける傾向があった。しかし、今、俳優はどんな役柄もこなすことで、大会社の役員を演じるなら誰々ということが少なくなっているのではないでしょうか。
石原裕次郎も加山雄三も決して演技が上手い役者ではなかったという意味で、かつてのスターが必ずしも質の高い演技力でもっていたわけではない。松嶋菜々子の家政婦のミタも見せ場はありましたが、上手いかどうかといえば上手いとはいえない。放映中の『ラッキーセブン』の彼女の探偵事務所社長役で光ったところはないでしょう。『最後から二番目の恋』の小泉今日子はかなり良い味を出していますがー特に中井貴一との掛け合いにおいてー、『贖罪』の足立麻子役では、あのキレの悪いしゃべり方がマイナスになっていました。これは仲間由紀恵のような女優が向いているけれど、仲間は『恋愛ニート』のようなコミカルな役ではウンザリさせる。つまり、俳優は誰でもいいドラマになる傾向でありながら、質ではなくタイプはやはり選択を厳しくさせないといけないと言えます。
誤解を招かないように繰り返し強調しておかないといけませんが、「俳優は誰でもいい」とは突出したブランド力をもたないレベルの俳優であればという条件がつきます。そして、そのレベルのレイヤーが薄くなってきたがゆえに、誰でもよいレイヤーの比重が増し脚本の時代になっていると考えられます。「物語」や「共感」が喧伝されるのは、その他の要素の存在感が低下したために相対的に浮上した地位ではないかという仮説は成立するでしょうか?












