Date:14/1/31

世の中には地に足がついていないといけないものと、地に足がついていなくても構わないというか、逆に地に足がつかないフワフワしていたほうが良いものがある。フワフワしているからこそお金が流れるという領域があるわけで、夜の酒場にお金を落としていく客は、フワフワ具合に自己弁護を捻じ込めるようなところがある。もちろん酒場を経営しているオヤジは地に足をつけ、客がフワフワするような仕掛けを考えるけどね。要するに商売してお金を受け取る人自身がフワフワしていちゃあいけないのだけど、ぼくが昔からフワフワしているなあと思っているものの一つに、日本のカーメーカーの車名がある。あのクラウンとかいう名前。

これ、本当にフワフワしていていいのか。もっと外面も地に足がついて良くない?日本のマーケットで売り使うモノなんだけど、殆ど横文字。英語とかスペイン語とかイタリア語とか造語とか。ぼくが昔いた自動車メーカーで「アスカ」という日本語の名前のクルマがあったが、CMがダサかったこともあるけど売れなかった。恰好自身は悪くなかったのに、マークIIとかシルビアとかスカイラインとか、そういう名前のなかにあって「アスカ?ダセイ」っていう感じに受け取られた。GM世界戦略車の日本版ということもあって日本語の名前に拘ったのかもしないが、どうも日本語の名前が受け入れにくい市場のようだ。で、これに似たやつで、企業のキャッチフレーズなんかも、やたらフワフワ感がある。そして、何よりも陳腐な言葉がずらずらと並んでいる。今だと、イノベーションやコネクトとか。

企業のビジョンなんかもそう。山の中腹にある洞穴から満月に向かって吠えている狼みたいなところがあって、月光がなくなるとひょいとどこかに隠れてしまうみたいな・・・でも、それじゃあだめでしょう。特に異なった文化の人に自社を的確にアピールできないという実践的なマイナスがあるだけでなく、ある程度構造的な世界の作り方がみえないと考えが成熟しずらい。一方、現場からすごく具体的なディテールから構想をはじめるのはもちろんいいんだけど、これ、日本文化の罠にはまりやすい。なにがというと、日本文化の良さは職人技的なアプローチが素晴らしい。が、弱みは全てのことに職人技的アプローチを適用してしまうってことだ。それが、こうしたビジョンの話をする時に引っかかってくる。

「世界観?ちょっと青く臭くない?」とビジネス界でいうのは、今は状況が変わったみたいだけど、昔、クラシック音楽や文学は学生の読むもので成熟した大人は距離をもつのが日本社会だったという「過去」がどうもついて回っているような気がする。ビジネス誌なんかでは「世界観」という言葉が出てくるし、まあ、社長との話では出てくるけど、実際のビジネスミーティングで「世界観」がまともに議論されることは極めて稀だ。というのも、どこかで「世界観」が衒学的な色彩をもっているらしい。しかし、この「世界観」がトップから現場レベルまで噛み砕けている会社が成長するんだと思う。

また、もう一つ「世界観」の周囲には気になる現象がある。日本のビジネスパーソンはちょっと先入観があるみたいで、「グローバルに考え、ローカルに動け」というのがかなり動かせぬ基本フレーズになっている。でも、これ本当に真理? 真正面から違うとはいわないけど、そんな「グローバルに考える」って一番最初にできる?ってぼくは問いたい。すべての言葉は、君の身体のなかにある経験のかたまりから来るわけで、身体のなかにグローバルなんてなく、すべてはローカルのなかのディテールからしかない。経営者だって同じだ。先に書いたように、せっかくのボトムアップ的なステップを踏む日本文化の得意な点がまるっきり生かせないまま、言葉が不発で終わることをわざわざやっている。ローカル→グローバル→ローカルという循環が適切な表現で手順だろう。こうすると、借り物ではない言葉が内から出てくるはずだ。

ローカルのリアリティを世界に「普遍性」として価値を普及させたのがカトリック教会だと理解すれば、「グローバルから考える」というのが如何に危ういかが想像つく。いくら高度1万メートルの機内で世界を考えても、「グローバルに考える」ことにはならないのだ。このブログでもよく書いているように、「ブランドとは考えの痕跡の集積である」が、そこには志向性というか方向性が必ずある。まさしく、そこで茫漠と見える輪郭がビジョンに相当するのだが、茫漠であればこそ力強いタッチでカタチを描こうとしないといけないわけだ。事例としてはえらく大きな話になってしまうかもしれないけど、そうやって何十年もかかって実現したのがEUだったというのはビジョンの明文化の重要性を語るにベストなケースだ。

本書は物語形式とチャートや箇条書きの二本立てになっている。右脳と左脳の両方を攻める工夫がきいている。異なる文化の世界でビジネスをするにあたっての苦労がどんなところに潜んでいるかを知らせるに、思いっきり敷居を下げている。伝わらないメッセージの責任は受け手にあるのではなく話し手にある、という趣旨を実践している。しかし、この本の最大の貢献はビジネス書の新しいタイプを提案していることではない。どんなに敷居を下げて読みやすくしたところで、異なった文化の人たちとロジックの回転を噛み合わせるためのコツは習得するのはえらく難しいことに変わりがない。そのことをくっきりと浮き彫りにしていることだろう。その一つの例として、日本企業がビジョンの明文化を不得意としていることがあげられている。

 

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:14/1/5

新興国のデザイナーの作品をみているとインターナショナルな様式の先端を追っていることを誇示するタイプがあります。それと反対にローカルアイデンティティを強調するものもあります。これは実は新興国だけでなく先進国にもある現象ですが、新興国においてその両者のギャップが大きいため目立ちやすいといえます。そこには経済のグローバリゼーションと文化的なグローバリゼーションとその反動としてのローカリゼーションが絡み合っています。

こうした状況を背景に、どの分野でもコンペやコンクールという形式の競争が増えています。今や大きな公共建築であれば国際コンペが実施されるのは普通だし、クルマのデザインも世界何拠点かの社内コンペで決まってくるし、各国機関のデザイン賞も国際スタンダードに沿うことで権威をあげています。クラシック音楽のコンクールが沢山あるのは、開催地の地域振興というメリットもあるでしょうが、市場のグローバル化に説得力をもたせる意味もあるのではないかと想像します。かつてなら親や先生の人脈で仕事をとれたかもしれないヨーロッパの若手ピアニストも、世界各地ー特にアジア圏ーのライバルと透明度が高いコンクールで名をあげる必要に迫られているわけです。ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの審査員であるヨヘヴェド・カプリンスキーはこう指摘します。

若い音楽家が演奏の場を手に入れる方法としては、神童として子供のときに注目を浴びるか、指揮者や主催者となにかのつてで知り合って演奏の機会をもらうか、コンクールで入賞するしか方法がないのが現実です。

したがってコンクールの目的は一般の人が優勝者を賛美する観点とは違うところにあります。

コンクールというのは、XさんよりもYさんのほうがよい音楽家であると評価したり、または、優勝者がわれわれの時代の最大の芸術家であると判断したりといった目的のためにあるのではありません。単に、その時点でプロの演奏活動を始める準備がもっともできている人を見つける、それが目的です。

このコンクールの場合、優勝者は3年間、財団に演奏会のマネージメントをしてもらえるので至極当然のセリフです。しかし、一般の音楽ファンはこういう目でみないでしょう。殊に、日本の一般の人たちにその傾向が強く、音楽から料理に至るまでコンクールやコンペの位置づけを確認しないままに入賞者を持ち上げすぎるきらいがあります。コンクールに出場しなくてもやっていける道があることを知らないためでしょうか。あるいはオリンピックの陸上競技のように唯一の記録で評価されると同じ世界とどうしても錯覚してしまうのでしょうか。他方で、「あのコンクールは黒い」とわけもわからず酷評して優勝者の力量をまっとうに評価しようとしない。また、クライバーンの優勝者が必ずしもその後着実な実績をあげているわけでもないことを例に、コンクール否定論者になるわけです。このあたりは、ぼくがいつも違和感を抱くところです。

審査員のリチャード・ダイナーの言葉もなかなか面白い。彼はこう語ってもコンクール否定論者にならないのです。

『夜のガスパール』とかリストのソナタとか『ペトルーシュカ』ばっかりの演目のリサイタルを本当に聴きに行きたいと思う人がどれだけいると思うかい?コンクールではそういうひとにぎりの難易度の高い曲ばかりに注意が集中してしまうけど、実際にそんな曲ばかり弾いて演奏活動するピアニストっていうのはそんなにいない。そういう意味では、コンクールは、演奏されるレパートリーをつまらないカタチに歪めてしまっていると思う。

現実的なことをいえば、オーケストラを維持していくのには費用がかかるけど、室内楽は経済的にもっとやりやすい。シューマンのピアノ五重奏を弾いて活動するピアニストのほうが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を弾いて活動するピアニストよりずっと多いんだ。ラフマニノフの協奏曲の演奏の機会っていうのは、独特の解釈をもっているベテランのピアニストか、ギャラの安い若造にいくようになっている。そうすると、若造の年齢を過ぎて中年ピアニストになったときには、誰もラフマニノフ三番を弾いてくれなんて頼んでくれなくなる。

クラシック音楽の市場がどういう消費者によって成立しているかが分かる話です。多くのコンサートホールや劇場は定番で客を確保し、現代の曲で挑戦的なプログラムを組むと客が寄り付かない。この苦境をどう打開してくれる新人を見つけるかがクラシック音楽ビジネスの課題なのだろうことが窺えます。演奏者のマネージャーは、このような文脈をどう読むかが問われるとして、演奏者本人が考えるべきことは、指揮者のコンロンの以下の言葉に集約されるでしょう。

芸術において、一番などというものはない。仲間と競争をしようなどと思うのは、才能のとんでもない浪費である。本当の競争は、自分がもっている精神的、知的、情感的な要素を引き出すための、自分自身との闘いであるべきだ。真の競争はひとつしかない。それは自分のもっている可能性を生きているうちにぞんぶんに引き出すための、時間との競争なのだ。

意地悪くいえば、こういう考え方自身がクラシック音楽市場を維持するに「必要」な要素であることも否定しがたいと思います。しかし、それを人の生きる道の真ん中に備え続ける意思は尊重しないといけないと思う態度も同時に大切です。

 

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:14/1/5

「石原裕次郎になるんだよ。世界観とか夢なんか、生きているうちに変わっていくものだ。そんなのあてにならない。君がこの女性をどうしても捉まえておきたい!そばにいないとそわそわして仕方がない、という動物的な感覚がなく伴侶を決めようなんてダメだ!俺は今だって女房に対してそう思っている」

結婚を決めたとボスに報告した時の強烈な一発でした。

「どうして決めたんだ?」と聞かれたので、ぼくは「彼女となら価値観や目標が共有できるそうだから」と小賢しく説明したのです。そうしたら、ガツンとやられたわけです。「もちろん、そういう気持ちがあるから・・・」と言葉をついたのですが、ボスの待っていた言葉が最初に出なかった。なにも彼を喜ばせたいとかいうことじゃなく、たき火を消すのに注射器で水を正確に差そうとするようなアホさ加減に自分でウンザリしたのですが、「結婚というのは約束なんだ。約束は守ることに意味があるんだ」と言われ、ぼくは結婚の2つのエッセンスを身体にドーンと投入され、かなりあたふたした覚えがあります。20数年前のことながら、今でも「人生冷や汗もの回想シーン」の筆頭にあがります・・・ということで、ぼくの男女論のベースはここにあります。

男女が知り合うにはいろいろな手立てがありますが、オンライン・デーティングもその一つです。ネットの「出会い系」で知り合うことの是非は、ネットがリアルの人間関係とまったく関係のない点にコネクトするために生じるリスクー信用の裏書がとれないとかーが懐疑派の上位にくるだろうと思いますが、本書を読んでいて感じたのは、「別れの突発性」という特徴です。リアルでの「オフィシャル」(あるいは実名のオープンなネットコミュニティ)な人の輪のなかでできた関係に比べて、相手が別れを切り出してくるタイミングが読みづらく、どうしても突発的に持ち出されることになってしまうことが多いということです。そして「突発的にくる別れ」と「偶然の再会がリアルで生じにくい」が表裏一体の関係になっています。

著者は話を面白くするためでしょう、男性に振られてそれを自分はどう客観的に受け止めたか? 一つ一つの別れを丁寧に書いているのですが(ただ筆者が振った数も少なくないと思われるが・・・)、別れた後も友人として長く付き合っている男性が多いと言いながら、やはり偶然の再会やその後の彼の噂を聞けるメカニズムが成立しづらい寂しさは拭えていないような気がします。しかし、本書でのもっと大きなテーマは、「人生が分かってくる」ことと「人生のパートナーの決め方」の関係です。

数回前のデートのときに、お互いの過去の恋愛の話をしていたとき、私の10年以上も前のボーイフレンドとの関係についての話になった。その彼と私とは、生い立ちも性格もなにもがまるで違う二人だったが、大学院での勉強を始めたばかりの初めの数年間の、精神的にとても辛い時期を共に過ごしたぶん、お互いのいいところも悪いところもさらけ出す、濃厚な関係だった、というのが私の話の主旨だった。私がヴィクターにこの話をしたのは、男女関係の密度というのは、性格がどれだけ合っているかなどということよりも、共有する時間や経験の密度によるものだと思う、ということを言うためだった。だが、ヴィクターはこの話を聞いてまったく違う解釈をしたらしい。「その相手とそんなに濃密な関係をもったんだったら、僕なんかじゃなくてその人と一緒になるのが君にとっても幸せだろう」というのだ。

濃密な時間をもつに相応しい相手なのか、濃密な時間をもつことによってパートナーが決まるのか、ということでもあります。筆者はこのヴィクターという男性との別れから、こういう感慨を持ちます。

どうしても、歳をとるにつれて、自分が心底受け入れられるものや共感できる相手というのは、より限定されてくるという気がする。自分の求めるものが特定化されてくるにつれて、「ケミストリー」といった、言葉にしにくいようなものも、実際どんどん重みをもってくるのかもしれない。(中略) そう思うと、ヴィクターと結ばれなかったことよりも、自分の将来全般について、なんだか悲観的な気分になってくる。

筆者は1968年生まれで2008年の出版なので30代後半から40代に差し掛かる時の文章です。年齢を重ねるにしたがい自分の好みや自分で変えられないところも分かってきます。パートナーの選択肢はどうしても少なくなります。だからこそ、共有する時間や経験でもなく、世界観や価値観でもなく、「あなたと一緒にいたい」というどうしようもならない気持ちになる相手との出会いの意味が重く深くなるのです。逆にいえば、その意味が分かるからこそ、「一生を棒に振る」中年男女の悲劇と喜劇が成立する・・・・。

本書をネット社会論や現代米国文化論として読むのもいいですが、恋愛論として読むのがまっとうではないかとも思います。

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