Date:15/4/20

この何年か、ミラノのデザインウィーク中、大がかりな展示をするカーメーカーは、日本のレクサスと韓国のヒュンダイしかありません。今年、アウディがファッションストリートであるモンテナポレオーネ通りの路上とちょっとしたスペースを使って展示していました。あるいはシトロエンも路上や野外スペースで一目を惹く展示をしますが、レクサスやヒュンダイは屋内のそれなりの大きさのスペースを使って展示をしています。それだけクルマのメーカーが、この期間を利用して現行商品以外を主体にメッセージを出そうとするのは一般的な戦略になっていません。

レクサスは10年近くカタチを変えながらやっていますが、レクサスのブランド力向上のためよりも自身の勉強のためではないか、と第三者的には解釈しています。ヒュンダイはレクサスの後追い的な表現をしておりー暗い空間でアート的表現をみせるー、これはやや首を傾げざるを得ない。そういう状況のなかで今年はブレラ地区にマツダが屋内展示をしました。一見、ディーラー展示とあまり変わりません。確かにインハウスがデザインした自転車やソファが展示されているのが通常ディーラーと違うと言えば違いますが、メルセデスのギャラリーと同じと言えば同じです。

壁にはビデオがあり、デザインチームの仕事ぶりが見えることになっています。現在、マツダのクルマの評価は高く、日本におけるPR戦略も気が利いている印象があります。しかしながら、残念ながら、この会場のビデオから同様のインパクトは受けません。「我々のものづくりへの情熱は深い」と英語の字幕で伝えるってあまりに芸が無さすぎます。表現が陳腐すぎる。

また、ぼくは展示のオープニングに行かなかったのでよく知りませんが、どうもヴォーグとファッション畑のコラボベントを実施したようです。推測で書くのは、二階にのぼるとビデオがあり、そこをみるとオープニングの様子から「何かやったんだな」とは分かります。だが音声はないので字幕をみるしかなく、その字幕を読んでも人の名前が分かる程度で何をやったのか分かりません。そもそも二階にあがる階段にろくに説明はなく、案の定、一階にはそれなりの人がいるのに二階には誰もいませんでした。

ぼくが思ったのは、ミラノのデザインウィークの文脈を読み切れていないのでは?という点です。特にその文脈におけるクルマの位置づけです。あえて言えば、ヨーロッパにおける車産業の位置づけです。これはぼくが25年前にイタリアに来た当初から感じていたことですが、欧州では日本ほどに優秀なエンジニアが車メーカーに集まっていない、車産業が欧州文化のセカンドクラスと見なされている。特にジュネーブのモーターショーに出かけると、この感覚がよくつかめます。一方、プロダクトデザインの世界も微妙な位置にあります。建築家よりは下に見られ続けてきたし、いわんやアートの世界からは視野に入っていないかのようです。したがってアート的なアプローチをすると違和感があるというか、無理が透けてみえてくるのです。そこで開き直りをして、ブランドファッションストリートで上品さなどくそくらえと派手目に登場しているのが、アウディでありシトロエンであると言えます。

マツダのデザインチームは、このようなことをどれほどに踏まえたのだろうとぼくは思ったわけです。そしてデザイナーの熱い思いは日本の文脈ではよく分かるのですが、モノづくりに魂を込めるとは表現しない欧州人は、あの動画の表現をどう読むだろうか。仮にその差異を前提に「一歩踏み込むつもり」であったならば、字幕で出す言葉はもっと練られたものにすべきだったのではないかと思います。一生懸命に「欧州に我々の躍動感をそのまま伝えたい」という姿勢そのものに、マツダともあろうメーカーが存在がそうなの?という風に解釈されてしまう。このあたりのギャップを理解するのに、ルイ・ヴィトンの見せ方を対照させてみましょう。コルソ・ヴェネツィアの格式ある建物を「知り尽くした感」がある展示です。何人かのデザイナーにメーカーの皮革を使ったものをデザインさせている。

 

あのブランドの力をして当然と思わせる。「デザインウィークってこう出るんだよ」という自信が出ています。ぼくが、これをみて思ったのは、「こういうブランド力あるメーカーはデザインウィークに毎年登場する必要はまったくないんだ」ということです。業界を超えて顔出しするのは余裕のない証拠とさえ見られる。ただ、やるとなれば決定版を見せつける・・・。このメリハリの良さが求められる良い事例です。レクサスは毎年出ることがマイナスなのではないか?と思わせるし、マツダはもっと派手目路線にシフトして商品プロモーションよりにしてよいのではなか?と考えさせるのです。逆にデザイナーの勉強であるならば、もっと簡易的なスペースでワークショップをやればいいのに、と思います。それを実現しているのは一例がミニです。

小さな雑貨から街づくりまでをテーマに会場でワークショップをやっています。同時にそうしたワークショップで生まれた結果を展示しています。カジュアルな空間でカジュアルな手法を採用し、ミニが展示されていないのに、ミニのブランドや世界観がとてもよく伝わっています。車業界なのに知的でさえある!トルトーナ地区でぼくが一番印象に残ったスペースでした。気の利いた人たちは、自転車やカーシェアリングをどんどん利用するようになっているトレンドを踏まえながら、ミニはさりげなく存在感を醸し出しているのです。ドレスアップではなくドレスダウンを表現した時に人となりがよくわかりますが、これは企業の実力についても同じように適用できるのです。クルマそのものに位置、ミラノの街、ミラノのデザインウィーク、それぞれのコンテクストの理解なしにデザインウィークに参加するデメリットをよく考えるべきだと痛感します。

Category: ミラノサローネ2015 | Author 安西 洋之  | 
Date:15/4/20

5月からスタートするミラノ万博を前にして、今年のデザインウィークは前哨戦的な色彩が濃いのが特徴でしょう。一番はっきりしているのはトリエンナーレの位置づけです。万博のプレオープンとして「アートと食」をテーマとした展覧会を開催しています。ここ数年間、トリエンナーレはこの期間の場所貸しで年間維持費をとる勢いでスペースを細切れにしてきました。たまに面白い企画もありましたが、全般的にトリエンナーレの名には相応しくないと思われる展示が多かったというのが正直な印象です。

デザインウィークの後も引き続き開催している、「アートと食」の展覧会はアートの力を存分に発揮しています。この展覧会は、これからより深刻化が予測される食糧危機に対して食習慣をどう維持・変化させていくかとの問題意識をズバリと表現しています。問題提起を得意とするアートが活躍する場であって、問題解決に立ち向かうデザインの出番ではないと示唆されています。当然ながらアートだ、デザインだと領域を定めること自身に無理があるといえばそうなのですが、1人の人間が両者をカバーすることは滅多にないところをみると、気持ちとしては分かるが多くのケースで現実的ではないと見るべきです。

ただ、アートはデザインをちっとも見ていないのにデザインがアートに片想いを寄せている状況の歪さを、今年のトリエンナーレは見事に浮彫にしたともいえるのです。すなわち、デザインは今後もっとアートの力を頼るべきではないかと感じます。正確に言うなら、デザイナーはアーティストという別人格を頼るべき、ということです。

これが今年のフオーリサローネの象徴的シーンです。この点については、サンケイビズの連載コラムでも書いたので、参照ください。

サローネの会場では久しぶりにクラシックに足を運びました。郊外に会場が移ってからデザインとサテリテがメインで、モダンやクラシックのエリアからは足が遠のいていました。しかし、一般家具のパビリオンが合計14のうち、クラシックは4。この数字は割合として大きい。その部分を長い間無視するのは現実を見ていない証拠だと思ったのですが、まさしくそうでした。中東から中国にかけての地域のお客が、この分野を確実に動かしています。あるいは5つ星クラスのホテルです。自宅で採用する場合、デザインはブランドメーカーの有名デザイナーの高価な作品をメリハリとして使うことが可能ですが、クラシックは自宅のすべてを統一しないと恰好がつきにくく、お金のかかかり方が違います。このエリアを眺めながら、古典的な欧州のブランドの底力を思い知らされました。

フオーリサローネに戻り、印象的だった作品を挙げるとするとスイスのモジュール家具メーカーUSMのコンセプチュアルな作品群です。その一つに建築家の長谷川豪さんや黒川彰さんの作った土の柱とその周囲を巻いているロープは存在感があります。これは肉体、頭脳、感性のすべてが総動員されており、そのストーリーを知ると知的興奮も覚えます。柱の型枠となるロープの太さは人が力を入れて手で握るにちょうどよい太さだし、長さは街のブロックの基準となる長さ、とかモジュール概念に対する大きな絵を描いています。もともと昨年、フランスの城の庭で行ったワークショップの結果に基づいています。

 

この作品は多くのフオーリサローネの参加者に対しても参考になる点があり、まずフオーリサローネは徹底してコマーシャルにいくか、コンセプチュアルにいくか、この二つの選択肢しかありません。中間に位置する作品はインパクトが出せません。そして後者に向かった時、デザイナーが力を発揮できるのはアーティストを気取ったものではなく、デザイナーとして徹底して頭脳を使い切ったものでないといけません。しかし、時に幸運にもそれがアートピースのように受けることもある。その一つこの柱とロープです。実際、USMのオーナーは、この作品をアートピースとして保管する意向のようです。

2点目は、日本のデザイナーに対して参考になります。日本のデザイナーがミラノのデザインウィークの展示で「陥る罠」は、ミニマリズム的な表現と技術依存の二つです。これらの二つにしか日本のデザイナーの売りはないのか?と思うほどに、安易にこの穴に嵌ります。コアとすべきテーマをすり抜け、つまりはアイテム1に全力を注ぐべきところ、アイテム2以降のディテールへの技術の投入と表現にバカ丁寧になりがちです。が、かといって、この2つを回避しようと意図的に行くことが正解ではないでしょう。表現すべき内容こそがより深く考えられるべきです。土でできた柱は、丁寧な思考を辿りながら身体を使い切って発揮する感性が可視化されたような印象を受けます。

すなわち問題は考えるべきことをちゃんと考えているかどうかによって作品の質が問われます。もちろん考えるべきことをちゃんと考えていても、メッセージの伝え方はそう簡単ではない。単に一生懸命に言葉を尽くせばよいわけではない。その例として、次のエントリーでマツダの展示について取り上げてみましょう。

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ミラノサローネに関する基礎的な把握は、4年ほど前に日経ビジネスオンラインに書いた以下の記事が参考になるでしょう。もちろん、過去、7年間に書いた本ブログのミラノサローネのカテゴリーを読んでいただければ、ぼくなりの「ミラノサローネ考」がお分かりになると思います。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110425/219631/

Category: ミラノサローネ2015 | Author 安西 洋之  | 
Date:15/3/28

いつの間にか、文章を書くことが多くなりました。今年定期的に書く場が紙とネットの媒体で6-7はありますが、自分の考えていることの妥当性をビジネスのために確認するというのが、そもそもの目的でした。いろいろなところで書いていますが、2008年に「ヨーロッパの目 日本の目」を上梓したのは、その数年前からアイルランドのユーザビリティやローカリゼーションをテーマとする会社と一緒に日本の自動車や電子デバイスのメーカーと付き合っているうちに、ふつふつと湧き出てきた僕自身の欲求でした。マーケティングや販売の担当はさておき、商品企画やデザインの人たちが異なった文化を理解するすべをあまり身に着けていないことに気づき、ヨーロッパを例に「文化ってこう理解するといいですよ」と語るためです。決して文章で食っていく、というわけではありません。ただ、最近、僕自身のネットとの付き合いの歴史を聞かれたとき、ふと思い出すことがありました。

僕がイタリアに来て一貫して注意していたのは、「イタリアだけを売りにするタイプ」にはならない、ということでした。また、イタリアと言えばアレ、というのも当初避けていました。トリノでクルマやトスカーナで文化センターのプロジェクトに関わっていれば、十分に「イタリアと言えばアレ」ですが、僕の気持ちとしてはそこに浸るのを微妙に避けていました。ミラノに来てもそうで、スタジアムなどの構造設計で著名な事務所のプロモートの一端を担ったのも、サローネに代表されるミラノの家具デザインビジネスと距離をとりたいとの気持ちが引っ張っていたのでしょう。例え家具やデザインプロダクトといえど、十分に知られた名前やカタチであっても、より「イタリアを超えている」ことが、僕の心の落ち着くところでした。あるいはオンオフの手作りではなく量産であることにこだわってきたのも、そのあたりの指向と重なります。

ネットの付き合いの履歴のなかで思い出したのが、メーリングリストです。パソコン通信には嵌らなかったのですが、メーリングリストには相当に熱心になりました。90年代末にあったビットバレーのメーリングリストやそこから派生したもの、はたまた別のテーマ・・・いろいろなところに顔を出したのは、「イタリアをテーマにせずにどこまで自分の考え方で人を説得できるか?」を知りたかったのです。そうはいっても、「イタリアの例では・・・」というフレーズはどうしても出てきます。第三者からみれば「またかよ」と思われていても、僕としてはギリギリのところで抑えていたつもりでした。その後、2004年頃からSNSの時代に入り、やはりいくつかの場所で自分の表現の領域の設定をさまざまに試みてみました。そうした10年近いトライアルを経て本を出したことになります。ネット以前は、紙媒体より原稿を依頼されるにはすでに世に名が出ているか、プロの書き手であることがふつうだったのです。しかも、僕はビジネスプランナーとして黒子に徹することを信条としていたこともあり、ビジネス以外の目的で人に見せる文章を書くことはほとんどありませんでした。

とにかく、長い間、イタリアのことはたくさん語り書いても、「イタリアってこうなんですよ」というポイントだけで話が終わらない・・・ということは考えてきました。最初の本がイタリアではなくヨーロッパまで範囲を広げたのもそうだし、二冊目の「マルちゃんはなぜメキシコの国民食になったのか」はイタリアを主要舞台にしていません。三冊目の「世界の伸びている中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?」においても、イタリア企業はとりあげた企業の20%程度におさえました。しかし、僕の何気なく用いるケースが圧倒的にイタリアの現象であるのは否定のしようがないし、本や記事を読んでいらっしゃる方が「イタリアの経験ね」とみることに抗弁する気はありません。

これほどに長い期間、「イタリアの・・・・」というポジションを避けていた僕が、一昨年から「イタリアオヤジの趣味生活」という連載を書いている。たまたま編集の方とジャカルタを走っているタクシー車内で、そういう話になって書き始めたという「人生の不思議」みたいなものがあることは脇においておくなら、僕自身のなかで「そろそろ、イタリアについて語っていいかな」との心が芽生えはじめたのもあります。1990年にトリノに来てビジネスプランナーになるべく師事した宮川秀之さんというイタリア生活文化の体現者を身近に見ていた僕ごときがイタリアを語るのはおこがましいと思っていた。いや、今もそういう気持ちは十分にあります。宮川さんがジュージャロと一緒にカーデザインビジネスのトップをきわめ、黒澤明と人生を語り合う生活をしていたからではなく、毎日が冒険的な生活になるべく本能的に動いている人を前にして、何を言っても僕自身の浅さを感じてしまうのです。といって、いつかは僕自身もイタリアを語らないといけない時があると感じ始めていたわけです、数年前から。

やっぱり、語るのは難しいです。特に語りつくすのは不可能に近いです。そんなことをいくつかの記事の締め切りを前に考えています 笑。

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