ピエール・ポランに会いに行く の記事

Date:10/1/19

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何回か連続してコミュニケーションについて触れていますが、そういえば昨年6月に亡くなったフランスのデザイナー、ピエール・ポランがコミュニケーションについて語っていたと思い出し、2004年3月に彼のモンペリエの自宅で話した記録を探してみました。「1970年代ころから人々に深刻な問題を投げかけたのは、コミュニケーションだと思う」と確かに語っています。そして「コミュニケーションが建築やデザインに対する興味を失なわせた。特に、マスを相手にしたデザインだ」と続きます。今となっては確かめようがありませんが、「消費のためのマスコミュニケーション」について話していたのかなと思いますが、これは「消費されるコミュニケーション」という基本的なテーマに触れていたのではとも思います。彼は1960年代にヒット作品を続出しますが、じょじょにマスマーケットから気持ちが離れていきます。シンプル、しかもパーフェクトなもの。こうした作品は、デスクでさえ小型自動車相当の価格になりますが、ある時期から、彼はそういうものしか積極的に作る気がなくなったようです。因みに、F031(プチ・デスク)は、1956年のデザインです。

コミュニケーションのためのコミュニケーションという形態に嫌気がさしたとも言えますが、彼はこうも語っています。

「今の若い学生たちが、現状に反発しながら新しいものを生み出すことに期待したいな。新しいものは私からは出てこないよ。それらしき能力はまだあるけどね、それだけだよ。私は過去でしかないんだ。エレガントで巧妙だとしてもね・・・」

圧倒的なコミュニケーションの渦に入り込まないと、その中で泳ぎきれず、泳ぎきらないと新しいアイデアは出てこない。だから自分は、それなりに人の目を楽しませるデザインをできるが、時代の革新を作りえないと告白しています。人は年齢を経るに従い、よりこなれた考え方をしていきますが、どうしてもとんがったものは若い年代にしかできにくい。年齢が上になるとできないというのではなく、確率としてそういう傾向にある。しかし、問題は年齢と経験の比例にあるのではなく、新しいものへの希求は自分たちの居場所を探り当てることであり、年齢を経て自分の場所がある人は新しい居場所を探る必要をあまり感じないことが多い、ということです。

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このポランが「2001年宇宙の旅」で使われた家具をデザインしたオリヴィエ・ムルグを「率直に言わせてもらえば、ムルグは才能があって私のデザインをコピーした最初の人物だ」と評しています。これは、なかなかな良い褒め方です。ぼくは、この表現を良く解釈すべきかと思います。いずれにせよ、人は他人の影響を何かしら受けるものであり、コピー自身をひとつのプロセスとして認めるべきで、肝心なのは「良く継ぐ」ことです。どう「バトンタッチ」するかでしょう。この場合、時間軸上のコミュニケーションともいえますーポラン自身、ネルソンやイームズの影響を否定していません。

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一方、ロジェ・タロンについても、ポランは語っています。「タロンは私とは正反対の仕事をしたね。私がエリート主義とすれば、彼は大衆主義。TGVのデザインはすばらしいな。本当のイノベーションだったよ。まあ、家具についてはゼロだけどね・・・」と、タロンの大企業とのコラボレーションのあり方に高い点数をつけ、自分はそのような仕事には向いていなかったと暗に示しています。冒頭に述べた、「消費のためのコミュニケーション」も「消費のコミュニケーション」も、ポランの生きた世界ではなかったのです。

ここでぼく自身のことを話せば、ぼくはポランの世界とタロンのそれの両方に生き、その両方がぼく自身にとって必要です。プランナーという職業的役割ではなく、非常に個人的な趣向的なこととしか言いようがないのです。ここはロジカルではなく、ありきたりに言えば、ぼくにはこの二つの世界がないと息が詰まってしまうのです。それが、ぼくの内にあるコミュニケーションです。

やや結論的なことを言えば、コミュニケーションとは静的状況の定義ではなく、動的な状況をあらわし、さらに言えば主観的な発信と主観的な受信であり、そこにニュートラルな性格を求めるのは、コミュニケーション本来の意味とは程遠いということです。説得的でないといけない時、それを回避する方法は説得以外にありません

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「ピエール・ポランに会いに行く

Date:09/8/22

フランスのデザイナー、ピエール・ポランは「戦後ヨーロッパの荒廃の中で、スカンジナビアでモダンデザインを見出した」という自らの歴史を語ってくれたことがあります。その時、彼が影響を受けたスカンジナビアとはフィンランドであったのですが、以前書いたブログを引用しましょう

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フィンランドのロヴァニエミといえばサンタクロースの北極圏の街ですが、アルヴァー・アールトが都市計画に関わり多くの作品があることでも有名です。第二次大戦が終わって数年を経た1950年前後、ピエール・ポランはこの街を訪れます。

幼少のポランにはクルマ関係の仕事をしていた大好きな叔父さんがいました。ベントレーやロールスロイスがクライアントで、小さなピエールもカーデザ インには憧れました。この叔父さん、ドイツのメッサー・シュミット戦闘機の部品を作ってもいたのですね。そう、英国側のためにドイツ軍のスパイもやってい たらしく、結局、フランス人のゲシュタボに見つかり処刑されてしまいます。1942年のことです。

このような辛い戦争を経て平和な時代となった、しかし、あらゆるところに戦禍のあとがみえる1950年前後、ポランはフィンランドで衝撃的なデザイ ンに出会ったのです。スウェーデンを筆頭に北欧デザインが世界をリードしていた頃です。別の機会にも書きますが、この頃、北欧デザインに憧れていた人たち はものすごく多い。例えば、プリア・チェアをデザインしたイタリア人のピレッティなどもそうです。彼はヤコブセンに弟子入りしました。イタリアがヨーロッパのデザインセンターとなる前のことです。

ポランはフィンランドでモダンと遭遇しました。森の中にも、戦時中に司令塔として使われたのであろう丸太が積まれたまま残り、多くのスキー板が虫に食われたまま放置されている、そういう風景から一歩出たところでアールトのデザインをみたのです。

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ぼくは、この虫に食われたスキー板のことが、その後も気になっていました。ポランはこれを語りながら、この世のものとは思えない怖いものを見たという表情をしていたからです。今思えば、それは単に虫に食われた惨状のことだけではなかったのかもしれません。フィンランドは1939年11月にソ連との間で始まる「冬戦争」1941年6月からの「継続戦争」、これら二つの戦争で惨憺たる状況を生みました。しかし、国際世論の面からいえば、フィンランドは両戦争で全く別の立場にありました。「冬戦争」ではソ連の横暴に屈しない小国フィンランドの独立心と闘争心が世界中を味方につけ、英雄的評価をうけました。次の「継続戦争」は相手が同じソ連とはいえ、ドイツ・ナチと手を結んだことから、「冬戦争」で獲得した評価を自ら覆す結果を導いてしまいました。苦渋の決断だったにせよ、連合国を敵に回したことは大きなマイナスを背負い込んだに違いありません。

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さて、「冬戦争」で活躍したのが各種のゲリラ手法で、その実行には白服のスキー部隊がありました。極寒マイナス40度のもとで戦う彼らは、英雄的評価のシンボルでした。本書でこのくだりを読みながら、ポランのあのときの表情は、世論のバックアップをうけた「冬戦争」のスキー兵の活躍とその結末を思い出していたのではないかとふっと気がついたのでした。「虫に食われたスキー板」の意味が数年を経て分かったのも不勉強のきわまりですが、それを語ったご本人は今年6月に亡くなっているので、「十分に分かり、それを分かったと相手に適切なタイミングで伝えるのは難しいものだなぁ」と思います。

本書はデンマークからスウェーデン、そしてノルウエーとフィンランドが順繰りに独立していく歴史と、それに至る嫌になるほどの戦いの繰り返しを描き、スウェーデンの「中立」は必要性から生まれたことがよく分かります。「中立」だけではありません。国連への貢献度の高さが、どういうバックグランドからきているか、それらが見えてきます。北欧諸国が環境問題などで今新しいモデルを提示していますが、痛々しいほどの厳しい歴史と状況で生み出された産物であろうという思いを消すことは難しい・・・そんなことを考えながら本書を閉じました。

Date:09/6/23

6月13日にフランス人デザイナー、ピエール・ポランがモンペリエで逝去したと聞いて、「最後に話したのはいつだっけ?」と考えました。今年のはじめ、電話で話したような気がしますが、よく覚えていません。昨年から体調に優れないことは奥さんから聞いていましたが、やはりこのニュースには驚きました。81歳でした。

最後に会ったのは、2007年のミラノサローネだっと思います。ミラノのホテルで会い雑談を交わし、奥さんと3人で一緒にタクシーに乗り、コルソ・コモ10へ出かけたのでした。ぼくが彼の「フランスでの偉大さ」を感じたのは、去年のミラノサローネで、フランスのTV局が製作したビデオを見たときです。中堅のフランス人デザイナーが、口々にピエール・ポランの先進性を絶賛しているのを聞き、「そうか、フランスのデザイナーにこんなに影響を与えていたのか・・」と知りました。若い頃の彼自身、フランス国内ではあまり評価されずにオランダのメーカーを頼りにしたということを語っていましたから、何となくフランスでのポランには明確なイメージがもてませんでした。

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もちろん、エリゼ宮での仕事はよく引用されます。実際、大統領時代のポンピドゥやミッテランとの関係が、以下フランスの記事でも紹介されています。今回、サルコジ大統領が「ポランはデザインをアートにした」と語っています。よくある凡庸な賛辞ですが、一時、ポランは彫刻家を目指していたことを考えると、やや違った意味合いに受け取れます。

http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/france/5535244/French-designer-Pierre-Paulin-dies-aged-81.html

ポランのモンペリエの自宅を訪ねたときのことは、ぼく自身、昨年の初めに書きました。彼のプチ・デスクを復刻するプロジェクトを実現するために、メトロクスの下坪さんと一緒にパリにある彼の弁護士を訪ね、その後、1年以上を経てモンペリエまで出かけたわけです。一連のことは、以下5回連続で「ピエール・ポランに会いに行く」にあります。(これより詳しい内容は会員限定コンテンツをご覧ください

http://milano.metrocs.jp/archives/28

この時代の人達にとって、第二次世界大戦後のデザインとは、スカンジナビアでありアメリカであったのが、よく分かります。イタリアのデザイナーも活躍しはじめていましたが、「憧れる」というニュアンスではなかったとの印象をもちました。ザヌーゾのチェアのアイデアをライバルとして参考にした、という風に。当時、フランスに大手家具メーカーがあまりなかったことが、彼にとって幸運だったのか不幸だったのか・・・こういうことを考えます。彼がイタリアのミラノにいたらどうだったのだろう・・・と。ライバルに囲まれ切磋琢磨して、もっと違ったトレンドを作ったのか、それとも60年代にあったユニークな性格を表現するに至らなかったのか・・・と。

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上の写真は、ポラン作タンチェアが並ぶ自宅の居間で撮影したもの。2004年3月。マドリッドでの列車爆破事件があった直後の旅でした。右端が奥さんです。

合掌

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