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Date:09/12/26

ヴェネツィアで一晩を過ごし心が和らぐのは、何よりもその静けさではないかと思います。耳をすまして聞こえてくるのは、人のざわめきと足音、そしてヴァポレットのエンジン音です。山のなかの一軒家ではなく、街のなかでクルマの音がしない。人びとの頭のなかに街のイメージがあり、その輪郭に欠く点があると物足りなさを思ったり、あるいは感謝をもって驚いたりするわけです。逆に、普段、クルマが出す様々な音がどんなにか「街らしさ」を作っているのかが分かります。虫の鳴き声を詩的に聴くのも、都会の騒音を詩的に聴くのも、実のところ、そのノイズに対する経験の量と質によります。つまりポエティックに聴くかどうかは、ノイズと経験の痕跡の関係によります。

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磯崎哲也さんのブログ「映画「アバター」が社会に示唆すること(デジタルによるリアルの「代替」)を読んでいて、一つのことを思いました。人にはリアリティを欲する人と欲しない人がいる。しかしながら、それは必ずしもすべてについて言っているのではなく、人それぞれにリアリティを重視するフィールドが違うということです。少々引用しましょう。

例えば最近、私は海外旅行をするインセンティブが非常に下がっている。テレビを地デジに買い替えてから、今まではほとんど見なかった「世界遺産」系の番組や「世界の車窓から」などを見るようになったが、こうした番組は海外旅行を「代替」するパワーを持っていると思う。

「バカな。実際に旅行した体験とテレビが一緒のわけがない。」と一笑に付されるかも知れないが、例えばバチカンのシスティーナ礼拝堂やフィレンツェのドゥ オーモの天井画は、肉眼で見るよりも地デジで見た方が細部までよく見えるし、オペラグラスで見るより視野が広い。常に最高な天気やライティングで撮影され る地デジの番組は、街の風景も空気の匂いまでただよってきそうだ。

モナコにF1レースを観戦に行くと、人の頭ばかり見えてしまう。何よりもクルマを一瞬しか追えない。しかし、TVならトップを走るクルマはほぼ追える。インターとミランのゲームをサンシーロのスタジアムで見れば、迫力ある地響きがするような声援のなかに身をおいて興奮できる。が、一瞬のゴールを見逃すこともTV観戦よりありそうだ。

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これは、どちらがリアルというより、「どのリアリティを選ぶか?」ということです。ゼロコンマ何秒でマクラーレンがブラウンを追っているかを知るより、そのスピード感と騒音で獲得できる実感を優先するかどうかです。複製の音を分析することが好きか、パリのバスティーユ劇場でオペラを「全体」として味わいたいかどうか、ということでもあります。それが人による「許容度」と「拒否度」の差になってでてきます。ただ更に言えば、システィーナ礼拝堂の絵も全く同じことですが、全体の文脈を含めて鑑賞することが経験として身についているか否かが、リアリティの選択を左右します。すなわち、リアルかどうかではなく、肝心なのは、リアリティでしょう。現実との実感度が問題になります。

(余談だが、「ネットじゃ料理は食えないだろう。」というのは確かにそうだ。しかし、イタリアや中国で仕事をしているビジネスマンに聞くと、「イタリアンや中華は東京で食った方がうまい。」という人が多い。さすがミシュランの星が世界一多い都市、東京!このように、「ネット」で代替しづらいものを持ってい る「リアル」は強く、最後までネットに代替されずに残るだろう。)

日本向けにローカライズされたイタリア料理を日本人が美味いと思うのは当然です。ここで書かれているビジネスマンが日本人であるとするなら、ローカライズされたイタリア料理ーこれがビジネスマンのイタリア料理の定義になっているーに舌が馴れ、イタリアでのイタリア料理を美味いと思うほどに経験が足りないとしか言いようがないでしょう。どちらが美味いというスタンダードはありません。イタリアから東京に一緒にでかけたイタリア人と、東京でイタリア料理を一緒に食べ、彼らが東京のイタリア料理のほうがミラノのそれより美味しいとぼくに語ったことは一度もありません。しかし、東京に何年か住んだイタリア人が「東京のイタリア料理もいけるよ」とは言います。ぼくがミラノの日本料理店に日本からの人を連れて行って「この和食もミラノではまあまあです」と言ったとき、「そうだろうね、このあたりがせいぜいだよね」という表現をするのと同じです。

これはローカリゼーションの問題であり、同時に極めて個人的経験の問題です。まさしく、そこに料理のリアリティがあると認識すべきでしょう。東京のイタリア料理が世界一美味いわけではなく、世界中に色々あるイタリア料理のなかで、「美味いといえる一つである」と表現する視野の広さが求められます。

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更に、非リアル経験について言えば、19世紀後半の電話やグラモフォンの発明による「複製」経験から延々と語られているでしょうが、「複製」経験によってリアルは不要という人と、「複製」経験によってリアルを知りたいという二つのパターンがあります。ネット上で知った事実で満足するか、その事実を現場で確認したい。この二つです。もちろんネットリアリティやヴァーチャルリアリティという言い方もあるように、前者も細分化されますが、これらの選択も後者を選択しない人間は鈍いのではなく、現実の経験との関連性ー個人の性格も影響するがーで「まあ、これはこれでいい」と思うか、「これは自分の目でみておく必要がありそうだ」ということになるでしょう。

尚、最近の技術トレンドからすれば、脳生理学が今後さらに進んでも人のことは完全には分かりえないから、ある程度、人の自主的判断を組み込んだシステムを考えるべきだという方向だと思います。ここにおいて、人の「経験」と「リアリティ」は、「文脈」とならんで重要なキーワードです。

Date:09/12/19

検索エンジンは便利なもので、何かを腰をすえて調べる前の下準備やうろ覚えの事柄のちょっとした確認にも都合がよく、ぼくもグーグルは毎日かなりの頻度で世話になっています。世界のことが一瞬にしてすべて分かるような錯覚に陥っても無理はないでしょう。グーグルのローカリゼーションは抜群で、これが一瞬にして分かるとの「錯覚」の原因にもなってます。なぜ錯覚なのでしょう? 使っているPCの言語が日本語であれば、日本語のグーグルが出てきてます。自動的に「フランス」と入力すれば、フランスに関する日本語情報が多く出てきます。「france」と入力すると、英語、フランス語、日本語の情報が並列されてきます。つまり、日本語環境からみたフランスです。よってフランス語環境からみたフランスを知るには、グーグルのフランス版から入っていかないといけません。イタリア語版にすれば、イタリア語環境ーすなわちイタリア文化ーからみたフランスの姿がメインで浮き上がってきます。同じ検索エンジンを使いながら、ローカライズされた違った世界観が並列しているわけです。これらの世界観をつなぐツールはあるのでしょうか。英語版にすれば、英語の環境からしか分からず、それも不十分です。

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管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』に英語に関する以下の文章があります。

思うのだが、英語がどれほど確立したように見えても、英語が支配しているのは所詮それが支配できる範囲と層のことでしかないだろう。第一、適用範囲を拡大し世界に対する実効範囲を確立したと見える英語とは、英語と呼ばれる言語の幅広いスペクトラムの中のごく狭い一部分の帯域のものでしかない。英語による口承空間も、文の空間も、その外において、はるかに広大にひろがっている。

(中略)

英語には決して見えない聞こえない範囲のほうが、つねに比較を絶して広大だ。インターネットによる情報網が世界をおおいつくそうと、文書と画像のデジタル・アーカイヴが惑星を何度も飲み込むほどの気が遠くなるような質・量への発展をとげようと、英語とも、インターネットとも、デジタル・アーカイヴとも、まったく無縁のまま誕生して死んでゆく人々の数は、今後増大してゆくばかりだろう。

これは水村美苗『日本語が亡びるとき』に対する感想の一部です。水村美苗はグーグルの構築する世界像に脅威を抱いているーそれも異常にーことにナイーブな印象をぼくは受けましたが、今やそのグーグルは英語の世紀ではなく、ローカリゼーションで各国語の世界観を出しているから皮肉なものです。もちろん、日本に限らず、英語の侵略を憂え、それに対策を講じようとしている人たちは世界に多くいます。最近も、複数言語社会であるスイスで英語にどう対処するかの論議が行われています。ドイツ語圏とフランス語圏の人間が英語でコミュニケーションをとることも珍しくないスイスで、やはり自国文化の保存が話題になります。自国文化の保存とは、言ってみれば、自分たちの考え方の維持でありー時間軸を伴わない考え方は威力の発揮が難しいー、その延長線上での世界観での勝負どころで優位性をもつための方策ともいえます。

ヨーロッパがEUとして国家の上位に対する権威をもちながら、多言語主義をとっていることは、このブログでも何度も書きました。庄司克宏『欧州連合 統治の論理とゆくえ』のレビューの以下を参照してください。

公衆道徳や国民的文化財産の保護については各国間の調整が認められません。これは経済的な自由を確保するにあたり、文化の多様性の維持が必須であるとの前 提に基づいています。経済的合理性が全てを覆うことはありえない。よって、EU市民はEU諸機関などに対し、EU加盟国の公用語のいずれの言語でも手紙を 書き、同一の言語で回答を受け取れる権利が与えられています。現在、義務教育課程で、母国語以外に二つの外国語を教えているのも、ヨーロッパという「小グ ローバル社会」の実現の一端です。およそ単一言語やメジャー言語だけで社会が機能するとははなから思っていないのです。

このEUで、大きな隠れた問題があります。それは各国の市民が共通の社会問題について話し合うためのメディアー共通プラットフォームというべきーがないのです。英国のエコノミストやFTが比較的欧州全体について報道しますが、これは英国カラーが強すぎます。ブラッセルのEUから発信される情報は、ビビッドとは言いがたいです。言論の世界は圧倒的にローカル勢力が強く、ドイツであればドイツ文化の文脈においてドイツ語で発言する人間が力をもち、イタリアではイタリア文脈になるわけです。日本の英字新聞があまり面白くないのと同様ー日本語新聞が面白いわけでもないがーローカル文脈が結局のところ強い影響力をもつのは、EUにおいてでもそうなのですーが、日本との比較でいえば、そうであってもヨーロッパ各国のほうが「国際的」とはいえるー。だから、青少年のドラッグの問題について一般市民が各国の知恵を持ち寄って解決にあたればーたとえば、青少年の問題は英国から大陸に、北ヨーロッパから南ヨーロッパに時間差で移転することが多いー有効なはずですが、それが実質的に上手くいっていないのです。

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アゴラで神田敏晶さんが、日本のネットの世界におけるガラバコスぶりを嘆き憂えています

10年後、アジアのデジタルネイティブで英語が使えない国は、日本だけになっている可能性は高い。20年後、世界から後進国が消えた時、日本語のプロトコルの価値はどうなっているのだろうか?少子化が進み、高齢化社会を迎え、海外の労働人口に頼らざるを得なくなったその日。ブルーカラーの職種は、英語と中国語とスパニッシュを使い、リタイアしたホワイトカラーは日本語のみという、いびつな国際化の日本を迎えていることだろう。

言語がプロトコルだとすれば、普及させるか、普及しているものを使うか…そろそろ、そのあたりの未来の日本の話も考えておいて損はないと思う。

こういう問題意識もありうると思います。その場合、対英語という「軽装備」では、議論が深くまでいかないでしょう。管啓次郎さんの指摘しているポイントに踏み込まないとしれきれトンボー第二次大戦直後に日本であったカタカナ論やローマ字論のようにーになるでしょうから、多角的視点が必要だと思います。少なくても、EUの多言語主義レベルの論議が必須です。

Date:09/12/12

今週はアイルランドに出かけてきました。日本でアイルランドというと「アイスランド?」(スコットランドのちょっと西が正解)とか「あのテロのあるところ?」(英国の一部である北アイルランドのこと。だいたい、テロは終結している)とか聞く人が少なくありません。あるいは、ギネスビールやケルト音楽など急にディテールに入り込むこともあります。しかし、それは極めて普通で「フジヤマとゲイシャ」とあまり変わらず、外国人が知らぬ国に対してもつイメージは、およそこのあたりであるとするのが無難でしょう。あえていえば、日本で知っているアメリカやフランスあるいはドイツについての知識が、やや世界の水準以上であると考えるべきかもしれません。

いずれにせよ、アイルランドをミステリアスな国であると思うむきが多いのですが、知識や情報が不足していればミステリアスでロマンチックなイメージをもつのは当然です。日本でスカンジナビアのファンが多いのも、つまるところ、フランスやドイツほどには知識が一般化していない部分によることも大きいと思われます。だからこそ、ある一点ースウェーデンの環境政策やフィンランドの教育ーが過大に取り上げられたりするわけです。・・・・と言いながら、一点を語るのもなんですが、アイルランドのギネスは抜群に美味く、ロンドンのパブで飲むギネスと比較し、そのレベル差がよく分かりーイタリアで飲むエスプレッソがフランスのそれより格段に美味いのと同じレベル差です。水が違うからと聞きますが、アイルランドで飲むギネスはサッパリしていますー、アイルランドが英国の長い植民地であったが、独自の世界があるのが象徴的に分かります。

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ぼくは、ダブリンの大学内のテクノロジーイノべーションセンター(上の写真)で行われたミーティングに参加するためにアイルランドに滞在しました。昨年、金融危機直後のダブリンの街の変化について書きましたが、今回、集まったメンバーと話していて、そういう中でもしぶとくやる精神的タフさを強く感じました。資源も市場規模にも乏しい国が、自分だけを頼りにサバイバルするに、「島国だから」ということを否定的に使っていません。彼らもかつては閉鎖的な時代がなかったわけではないようですが、この21世紀の今になって、そういうことを微塵も感じさせないオープンマインド自身の存在感が印象的です。島国で風が強いことを利用しての風力発電への積極的施策をみても、それを思います。

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参加者が集まる前のミーティング準備中、10月、御嶽山で一緒に滝修行をした友人がこちらを向いて笑顔。彼も、メンタルがタフです。苦境で嫌なことがあれば、スポーツで汗を流して何とか前進しようとします。背を丸めた負け犬になることなど考えたこともない。そういう強さをみせます。このミーティングで話し合われたことは、詳細は省くとして、個々の強みを発揮したネットワークでいかに統合度の高いものを実現するかということです。個々のレベルがそれなりであることは最低条件ですが、さらに重要なのは、大きなテーマに的中する意義をまずは最優先させなければいけないという考え方をするかどうかです。コンセプトが大きな社会的文脈で貧弱であれば、どうにもならないことを認識しているかどうか、ということでもあります。

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この国にはヨットマンが多くいます。ものすごい強風のなかでも、ハーバーから力強く船を出していきます。日本であればハーバーで出航禁止になるレベルです。ヨットは風が強ければ、その分、より大きなエネルギーをもって一つ一つの作業に立ち向かわないといけません。それを億劫がらずにやる気力に感心します。そういえば、今回泊まったホテルは、7-8年前に逗留したホテルです。そこで、7-8年前に部屋に飾っている一枚の絵に「これがアイルランドだなぁ」と思ったことがあります。その絵に再会しました。ダブリンの街を流れる川での水泳レースです。部屋の十分な明るさがないところの以下の写真ですが、ぼくの感想が少し共有できるでしょうか?

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