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Date:10/2/13

昨年11月、管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』のブックレビューを書きました。そこでぼくは、「痕跡」と「翻訳」がキーワードであると思うと書いたのですが、その後、ご本人に確認する機会がなかったので、今週、池袋のジュンク堂に出かけてきました。この二つの言葉は、『本は読めないものだから心配するな』のなかだけでなく、管さんの人生観そのものではないだろうかと考えていたので、足を運んでみたわけです。メールなりでご本人に聞けばいいものをとも思うのですが、この管さんの「プロ好み」とも言うべき本を他の読者はどう読んでいるのか?というのを「現場」で知りたかったのです。そして、どういう顔の人たちが読んでいるのかも。それはネットではなかなか分からないものです。

ジュンク堂は新しいタイプの書店であるとはうわさに聞いていても、本をまとめ買いする場所は、最近ほとんど丸の内の丸善だったので、ここははじめてです。「各国事情」の分類の仕方をみて、この書店の見方がなんとなく想像できました。通常、旅行や生活記録的な棚と社会・政治・経済の棚が分かれますが、ここでは前者にやや社会的な視点が加わり、教育でも各国事情の棚があり、歴史の棚が文化史や文化人類学というジャンルをカバーしています。このように地域ではなく分野を優先し、そして一方旅案内に普通より深みをもたせるという方向は、最近のテーマ重視の旅行パックを思い起こさせました。ここにジュンク堂の思考プロセスを感じ、これも悪くない発想だと思いました。

問題は地域ではなくテーマであるというのは、今週、国際知的交流が専門の方がおっしゃっていました。各国の知的交流機関(英国ならブリティッシュ・カウンシル)は自国固有文化を紹介するというより、あるテーマに対してのアプローチを披露する、あるいはある特定テーマに対する異文化コラボレーションを試みるというカタチをとっているわけです。連続的地平をいかに立体的にとらえていくかがポイントです。そういう文脈においても、管さんの目次をもたず、見出しをもたない『本は読まないものだから心配するな』は、現在の知の在り方を象徴的に示唆する本であるともいえます。

さて、トークセッションでの管さんのお相手、佐川さんの小説をぼくは一冊も読んだことがありませんでした。彼が南米から戻り食肉処理場で10年ほど働き午後の暇な時間に膨大な読書をしたというエピソードもさることながら、ナイフで肉を切り裂く時に感じる自分と肉のあいだにある距離感ー自分の手がやっていることではないーはリアリティの所在や「ある域に達することの意味」を問います。管さんが「小説家は直接当事者だと思う」と語った内容に対応するのですが、ここは気になりました。

後に場所をかえてお二人を囲む酒の宴にて、佐川さんに「現場・当事者であることを100%感じる職業ってあると思いますか?」と聞くと、「ないでしょう。陶芸家もろくろや手が勝手に動くと言いますよね」との答えでした。近代以降のテクノロジーの管理的社会において、常に人間が不在ではないか?と言われ、今も五感を使った生き方をしているのか?というプレッシャーがあります。ピアニストが何者かによって自分の指が鍵盤を舞うような錯覚をもつことがあるように、ある領域に達するとは「何かが一人歩きすること」ではないかと思います。つまり、自分の仕事にリアリティを求めているとき、それは何者でもなく、リアリティを求める心を忘れたとき、「本物のゾーン」に入っていくのでしょう。

因みに、「痕跡」「翻訳」がキーワードということについては、セッションの会場で管さんに質問し、これらが重要な言葉であると考えていることを確認できました。

Category: その他, 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/2/9

「今、色々な編集者から時間の使い方をテーマに本を書かないかと言われるのですが、なかなかありきたりの結論以上のことを書けそうになくて・・・・。一日は24時間と決まっているけど、これを静的にではなく、動的なものとして考えていかないといけないんじゃない、と。たとえば、なかなか家の中が片付かないといっても、お客さんが来るとなると、5分でできたりするわけですよね」と辰巳渚さんが言うので、これはぼくが考えている動的文化把握と同じだと思いました。

『「捨てる!」技術』などを出して文筆業やマーケッターとして活動してきた辰巳さんが、家事塾をスタートさせたと昨年知りました。彼女とは以前から交信があるのですが、この家事塾のコンセプトを読み、フィールドはまったく違うけど、目指す方向はぼくのヨーロッパ文化部プロジェクトに近いと直感しました。自分なりの生き方あるいはライフスタイルのあり方を固定的視点からではなく捉える、それも抽象的なレベルではなく、日常生活のディテールやモノやソフトを介して考えていくのです。そこで日本に行ったら久しぶりに会ってみようと思い、今回、ご自宅に伺いました。多分、彼女なら人工物発達学の問題意識やアプローチには関心が高いだろうと思い、「人工物発達研究」の1号と2号を手土産にもって。

日用品、家電、ハウスメーカーなどに消費者論理を解いている辰巳さんは、即、人工物発達学の重要さを理解してくれました。「そう、これが私のユーザーの立場にたった問題のとらえかたにミートしそう。家事塾は家政学とかじゅあないんですよ」と語るところで、家事塾がいわゆる「カリスマ主婦」「掃除の達人」的な世界とは距離があることが分かります。「役に立つ」や「ノウハウ」ではなく、自分で満足できる生活とは何なのかを考え、かといって「辰巳流家事」という見られ方を拒否する。「そんなに、生活に個性的であることを主張しなくてはいけないの?死に方まで誰々なりを考えなくちゃあいけない。出産もそう。選択肢がたくさんあって、それをイチイチ、こういう決め方をしたと公表しなくちゃあいけないなんて疲れますよね」と。

自然に生きることに肩に力が入りすぎる不自然さは、もっと伸縮性のあるコンセプトや考え方をベースとする生き方によって解消していかないといけないと思っているぼくは、そこに南ヨーロッパ的な発想が有効であると考えています。それは場合によって違ったロジックを使い分けることです。あらゆる問題や状況は、見方を変えることによって打開策が生まれてくるものですが、見方を変えるとは、違ったロジックを持ち込み突破口を見出すということなのです。この違ったロジックの使い方が家事塾の狙いではないかとぼくは理解し、人工物発達学の趣旨とも一致するはずと読んだのでした。以下は提唱者の黒須正明さんの文章です

人工物がなぜそのような形になり、なぜ他の形にならなかったかという人工物発達学の出発点となる疑問は、裏をかえせば、人はなぜ「それ」を選んだのか、 「それ」は自分にとって最適なものなのか、という生き方に対する問いかけにもなる。また製造業やサービス業の観点からは、今、人々に提供している人工物が この先どのように変化する必要があるのかを考えるための枠組みを提供することにもなる。このような意味で、人工物発達学は、ある面では生き方の学問とし て、また別の面では人工物デザインへの指針をもたらす学問として位置づけることができる。

さて、冒頭の話、時間の問題に戻ります。お客さんが来る前の5分間で掃除ができるというのは、アドレナリンの上げ方の問題だと思いますが、なぜ、それが普通はできないか? それはアドレナリンは一度あげると下げるのが大変だからかな?とも想像します。つまり集中心を出していく方法も大切ながら、どう下げるか?が身についていないと、「あれをやると、結局、やりすぎて面倒なんだよなぁ」ということになるでしょう。過去の記憶です。だから、やればできることがわかっていながら、できない。5分といえど5分の問題で片付かない。ここに新たな視点を見出さないといけないでしょう。

Category: その他 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/2/7

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ぼくが好きな海の景色はいろいろあります。砂浜から眺める海や小船から喫水線に顔を近づけてみえるチカチカと光る海面。どれも良いですが、丘の坂を登るきる寸前に向こうに見えてくる海も好きです。「救われる」という言葉が自然にでてくる・・・。海もさまざまなアングルや距離から眺めることにより、まったく違った表情があることがあることを知り、それぞれを異なった感覚で楽しみことができます。

さて昨日、都内のある大学のデザイン系学科の卒業展覧会をみてきました。まず第一印象は完成度が高いなあということでした。ミラノでみる学生の作品より、ずっとカタチになっている。パネルでもきちんと説明がされています。作品テーマはそれなりに散らばっていますが、医療や子供を対象としたデザインが多いことが印象の二番目です。「これは、卒展のテーマを事前に決めたのかな?」と思い、受付の学生に聞いてみると「いや、そんなことはありません。自由です」という答え。自由でありながら、デザインの向かう先が、いわば弱者周辺に目が向いていることにやや気になりました。

ぼくは、パネルの説明を読まないと作品を理解したことにはならないと考えているので、それなりにしっかりと読み込みます。このパネルの解説を読む限りにおいて、テーマの対象となる主人公ー担架で運ばれる病人であったり、小さな子供であったりーがどう思うかよりも、それらに対面する人たちー救急署員や親ーからの視点が重視されていることに、少々違和感を覚えました。たとえば、電車のなかで子供たちは煩い。他の乗客は迷惑に思う。それを感じる親たちは肩身の狭い思いをする。だから、子供づれは別車両に分けて、気ままになれる空間を用意する。こういう発想プロセスになっています。弱者の周囲をテーマにしながら、弱者の目線に立とうとした軌跡がパネルにはないのです。

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子供は親のものではなく、社会のものという考え方から距離があります。ぼくが知りたいのは、上記のような電車内での問題を、どのようにコミュニケーションの次元で解決していくのかについて、どこかのプロセスでどれだけ検討したのか?ということでした。パネルは展示されている枚数より多く書かれたものを絞ったようですが、このテーマの問題点を「他の一般乗客」「親」の二点からしか記載していないところをみると、プロセスのどこかで子供の立場を考えた痕跡はないと言ってよいでしょう。

ぼくは学生にすべての視点を求めているわけではありません。およそ、学生だけでなく一般企業においても、そのような視点が常にカバーされているとは言いがたいのが社会の実態です。したがって、ここでの問題は、自分も含め社会全体は問題の周囲に立つことはできても、問題の核心に踏み込むのは容易ではなく、その周囲には目に見えないバリアが数多ある事例のひとつであることを語っているのです。また、これは、日本企業のヨーロッパ市場への踏むこみの甘さと相似でもあります。

Category: その他 | Author 安西 洋之  | 
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