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Date:10/6/5

昨日、日本に飛ぶためミラノの空港に向かう直前、自宅に一通の手紙がきました。差出人はパドヴァの警察。「えっ、出発直前に、なんだ、このややこしいのは!」と思いながら乱暴に封を切ると、昨年11月、パドヴァ市内で通行禁止の区域を走ったのを監視カメラに撮られたようです。11月のパドヴァといえば、「メトロクスの旅」で書いた、メトロクス社長の下坪さんと営業の片岡さんの3人でB-LINEに行ったときのことです。約 90ユーロ(約1万円)の罰金を払えというのですが、「この手紙が発行された12月15日から60日以内に振り込まないとペナルティを科す」とギョッとし たことが・・・。ご丁寧にも60日以内であって2ヶ月以内ではないと注釈もあります。しかし、手紙を受け取ったのは2010年6月4日。封筒の消印をみる と2010年5月4日! 思わず大笑いしてしまいました。

さて、航空会社選択には二通りのパターンがあると書いたことがあります。「JALのサービスに想う」です。

外国に出かける人は二つのタイプがあり、一つは「これから出かける国の雰囲気に飛行機から味わおう」という経験先行型であり、もう一つは「目的地に到着するまでは、なるべく自分の習慣を通したい」という経験先延ばし型でしょう。料金や乗り継ぎの便宜性という合理的レベルでの判断を別にすれば、上述の二つのパターンは一般的と考えてよいと思います。

この10年以上、欧州内でアリタリアを使うことはあっても、日本との往復はもっぱらJALでした。しかしJALは9月末にミラノと成田の直行便を廃止することになりました。それで新しい環境に早く馴れようと、昨日はアリタリア便に搭乗してみました。そこで、随分、JAL便と違うなあと思いました。まず第一に搭乗直前にチケットとパスポートを提示するところで、「ボンジョルノ」「グラッツィエ」と挨拶する日本人がJAL便と比較して圧倒的に多いのです。それは機内でも同じで、ワインではなくヴィーノという乗客が多いように感じました。要するにイタリア好きが多いのです。上の範疇によれば、経験先行型です。一人旅も少なくなく、なんとなくテーマがあってイタリアに行って来たという雰囲気をもっています。

実はミラノに長く住んでいる日本人は、こと日本との往復に関してはJALを使う人が多いーアリタリアの定時運行の確率の低さにうんざりしていて、日本に行くときくらいそういう苦労は避けたいーとの印象をもっているのですが、面白いのはイタリア人。JALを選ぶイタリア人はどことなく日本びいきの傾向があり、アリタリアに搭乗するイタリア人はその日本びいき率が若干下がるようなタイプが目に付きます。経験先延ばし型にカテゴライズされそうな人たちです。「日本に特に興味があるわけじゃなく、でも嫌いっていうんじゃないんだよ。ただ、移動は馴れた航空会社がよくてね」と。もちろんマイレージをもっている人が多いこともあるでしょうが、わざわざJALのマイレージカードは作らないのでしょう。

ぼくは、アリタリアの機上の人となりながらーなんと陳腐な表現!-出発前に受け取った警察の手紙のことを考えていました。全てがああだったら社会はまったく機能しないけど、たまに生じるにはたいしたことない。ぼくは、正直言ってイタリア的役所仕事の健在ぶりにホッとしました。EUの誕生以降、ITの普及とあいまって自由がききずらくなっているのですが、最後の管理に穴があるところに、市民が逆手をとる余地があるわけです。その痛快さに大笑いしたのです。これがイタリアの良さでしょう。愛嬌のある文化は結局は好かれる・・・・。

Date:10/5/29

今週、ミラノのサルトリアでジャケットを見ていたところ、ハッとするピンクのジャケットを見つけました。そんなに濃いピンクではなく薄いピンク。とても品があり綺麗なので思わず手にとり試着しました。サイズもちょうどいい。買っちゃおうか、と一瞬思いますが、頭を振って「いや、いや、こういうのを買ってはいけない。どこに着ていくんだ?」と自問します。見た瞬間、夏の海岸沿いのカフェでビールを飲む姿を想像します。確かにあそこにはいい。でも、「ミラノでも仕事で着れるか?いわんや、東京でどこで着れる?」という疑問符が頭を走ります。

ピンクのシャツは何枚かもっているしセーターも着ますが、ジャケットは話が違います。同じカラーでも洋服のカテゴリーが異なると急に敷居が高まります。「でも、ミラノならいいんじゃない?」と言う人もいますが、これは逆でダークスーツが基本で、それには白かブルー系のシャツがルールであることが定着しています。薄い茶系の麻のスーツにもシャツは白かブルー。「ピンクやイエローのシャツはイナカモンが着る色」と言われたりします。とても保守的なわけですーミラノでファッションに長く携わってきた友人によれば、特にこの数年は世界的にこの保守的傾向が強いようです。あるいはシック。しかし、それは逆にいうと、色のコンビネーションは色彩学上定義されていることを尊重していることも意味します。この色とあの色は合わないというのが徹底され、この色を使うときはどこかのパーツに同系色を入れる、といった気配りが当然視されるということです。そのルールから外れると、生理的に落ち着かないという感覚世界で生きています。つまり色彩学的な判断が生理的な部分とリンクしており、だからTPOを含めた色の扱いに説得力がでます

自宅に戻っても、あのジャケットのピンクが目に焼きついています。「ああいうジャケットは、場所そのものだけでなく、職業的にそういう立場じゃないと難しいよな」と思い返します。アーティストなら何色を着てもいいだろうと、アーティストではないぼくは思います。アーティストが何というか分かりませんが、とりあえず外の人はそう思うという土壌が色にはあります。必ずしもアーティストが自由人とは定義できないけど、それに近いところにいると世間に思ってもらえることが可能なポジションにいます。その日の晩、ぼくは「アーティストになりたい。自由にピンクのジャケットを着れるような人間になりたいなぁ・・・」と不思議と強く思いました。

別にピンクに自分のメッセージを込めたい、自由に服を選びたいーだいたい、今でも自由な立場で自由に選んでいるほうですがーというより、極めて感覚的なところで底のない自由を求めたいという欲求です。洋服の色を契機にこう思うのもあまりないのですが、どういうわけか、ピンクのジャケットは違ったようです。

Date:10/5/24

Twitterやブログのプロフィールの書き方が色々なところで教示されていますが、「自分の興味の範囲を明確にせよ」「キーワードを羅列せよ」「できれば実名がいい」とか色々とありますが、「年齢を書け」というアドバイスはあまり見た覚えがありません。リアルに目の前で会って話している人は何十代くらいなのか想像がつきます。が、ネット上のブログやマスコミなどで意見や感想を公にする場合、見知らぬ多勢があなたの意見を判断するに年齢表示はかなり重要です。何歳と正確に書く必要はありませんが、何十代であるかは示唆しておくべきではないかと思います。これはぼくの以前からの持論なので、一橋大学大学院教授の石倉洋子さんのブログで以下を読んだとき、「これは一言」と思いました。

「先生」は困るなあ、と思っていた所、最近、履歴書を出す必要が重なり、さらに、自分の(本当の)年齢が活字になったのを見つけて愕然としてしまい ました。私はかなり前に「大台」にのった時から、毎年誕生日ごとにひとつずつ若くなろうと決めてその通りにやっていた(気分はという意味です)のですが、 物理的年齢は増えているので、正式な書類を書く時に、この事実に直面してしまったのです。特に今会社の人事関連のニュースが多数出ている時期なので、新し い社長の紹介には大体年齢が書いてあることがほとんどです。だんだん自分より若い(といっても世界の基準から考えるととても年齢が高いですが)方々がトッ プに就任されることが多くなってきて、自分の実際の年齢を意識するようになったこともあるかもしれません。

意見のバックグランドにあるキャリアが見えないところでは判断しきれないことが沢山あります。よって、ぼくの一言は以下です。

あることに対する意見が、どういうバックグランドから出てきているのかを知るのは大切です。Aという意見の判断をする際、20代の人のものか、40 代の人のものかで見方が変わってくるのは当然です。「まだ経験がさほどないのに、これだけの理解をしているのか」と「これだけの経験があって、この程度の 理解していてしないのか!」という差異を無視するわけにはいきません。その差異に基づいて、明日のあり方を考えるのが自然です。

高齢だからといって、それだけで考えが古いという風潮こそを崩すべきです。同時に、若いだけで未熟とする風潮も崩すべきです。最近日本で多い世代論 争の不毛な点は、ここにあります。年齢をはっきりさせた上で、お互いを尊重する文化を創ることに意味があると思います。「あの人、もう90歳近いのに、 30代みたいに頭が柔軟だ!」という賞賛する文化があることは重要です。

因みに、イタリアの新聞記事でも年齢は普通に表記します。それは不要に高年齢の人間を揶揄したりする土壌がないことを逆に示しているとも感じます。

これを書いた後、上海に住む女性が、中国では年齢を重視しすぎるところがあり嫌気がさすが、外国人と会うと「上海に何年お住まいですか?」と聞きあうと投稿しています。「この国の事情をどれくらい知っているか、体験しているかによって、お互いの話の内容や興味がまったく違ってくるからです」と。キャリアの内容を知ることが会話のベースになるいうことは、人の考えなどを判断する際、発言者の背景を知らなくても良いとはおっしゃっていないということです。背景とは簡単にいえば年数です。年数だけでキャリアの全ては語れませんが、それぞれの人が一々詳細に履歴書並みに説明するわけにもいきませんから、「社会人として何年やってきた」「こういう時代をリアルにくぐってきている」と相手に想像させる情報提供するのはプレゼンの基本だと思います。

冒頭で書いたように、リアルに会っている場で年齢を語るべきだと言っているのではなくー別に年齢を語るべきではないともぼくは言いませんー、背景の分からぬ言説が漂う社会にあって、非常に明快な指標に冷淡であってはいけないと言っているのです。それでぼくも、このブログには生まれた年や大学の卒業学科を記しています。因みに、卒業学科を書いているのは、ぼくがヨーロッパ文化論を語っているから。大学の時にそう勉強したわけでなくても、学科選択のときにフランス文学科を選んだのは、30年以上ヨーロッパに目が向いているという「キャリア」を示せるだろうと思うからです。

さて、ぼくの投稿に石倉さんが次のようなコメントをくれました。

そうですね、年齢でいろいろ決めようとする所が??だと思います。年齢を基準にすると誰も反対できないので、リーダーを決める場合など、年齢にしてしまうのは、「安易」なやり方だと思います。基準自体をどうするか、という議論を避ける傾向もあるようです。

ちょっと論点がずれたのは?と思いました。これは組織編成上の問題点として指摘しています。これはこれで当然ながら問題でしょう。しかし、ぼくが想定しているシーンは違います。公共空間における意見に判断を求める際ー多くのブログは判断を求めていないかもしれませんがーに必要な情報提供とは何か?というのが視点にあります。その次に、ぼくが投稿のコメントに書いたように、年齢が消去法の対象ではなく、年齢表示の積極的活用に至らなければ人は幸せになりにくいだろうということです。年齢にしたがう肉体的衰えは隠しようがない。年齢を意図的に隠す文化は人を不幸にする一方だろうと思います。年齢をネタにあらゆる世代が一笑に付すことが目指せないと、世の中は堅苦くなるだけです。数日前に「イタリア式が最高とは言わないが・・」で書いた内容とニアミスします。

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