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	<title>さまざまなデザイン &#187; その他</title>
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	<description>ヨーロッパの目</description>
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		<title>大学の同窓会も変化してきた</title>
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		<pubDate>Thu, 09 Jun 2011 17:39:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[昨晩、久しぶりに大学の同窓で夕食会を開催しました。ミラノでの同窓会の幹事をやるようになったのは、およそ１０年ほど前からです。その数年前、たまたま東京にある大学の同窓会事務局に出かけたとき、「幹事が日本に戻って、その後、空 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨晩、久しぶりに大学の同窓で夕食会を開催しました。ミラノでの同窓会の幹事をやるようになったのは、およそ１０年ほど前からです。その数年前、たまたま東京にある大学の同窓会事務局に出かけたとき、「幹事が日本に戻って、その後、空席なので、やってくれませんか？」と言われ、あまり考えずに「いいですよ」と答えたのです。正直にいえば、名前だけ書いておけばいいや程度のことしか考えていませんでした。そうしたら、時々、電話やＦＡＸが届くようになりました。「ミラノで通訳を紹介してくれないか」「どこかお勧めのレストランを教えてくれ」「トスカーナの宿泊できる修道院はないか」・・・と問い合わせがくるようになりました。</p>
<p>今から思うと、「ネット検索時代」「ＳＮＳでの情報収集」前夜であったのだと思います。ネットは普及しはじめていましたが、データがそこまで蓄積されていなかった。掲示板やメーリングリストで外国の情報をとることが可能であっても、やはり人を経由した情報への信頼性が高かったのだと思います。そのように、自分ではこなしきれない問い合わせを前にして実行したのは、「名簿の作成」「定期的夕食会の開催」でした。名簿には卒業年度、学科、住所、電話番号・・・というお決まりの項目が並び、メールアドレスがない方もいたので、FAXや郵送で夕食会の開催を連絡するという手間も必要でした。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/06/kae-in-milano-centrale.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4389" title="ms" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/06/kae-in-milano-centrale-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>その時に意外に思ったことがあります。２０代から３０代前半の卒業生が多く集まってきたことです。それまで海外で日本人が集まることに拒否感を示していた世代が、それも学校の同窓というつながりで集まってきたことに意識の変化をみました。一つにはＮＹの９１１で、友人や家族の絆を強めるとの現象が世界的に広まったことがあります。それと、<strong>それまでの滞在年数が大きな指標であったピラミッド構造が崩壊しはじめてきた</strong>のです。必ずしも長く滞在していることが評価の対象ではなくなってきました。だから、誰でも気楽に参加できるようになった・・・というように空気が変わりました。</p>
<p>経験年数が多いことによる情報量があまり重要ではなくなり、それぞれの関心領域にしたがったところで繋がれるから、それまでの「同窓会？なんか駐在員の上下関係がそのままの世界なのでは？」というイメージがなくなってきたと思います。もちろん、これはぼくが卒業した大学に特徴的な現象なのかもしれませんが<strong>、集まる契機が複数存在するから、逆説的ですが、「旧タイプ的」な存在が相対的に軽くなった</strong>のです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/06/2718689917_6ff84bb94c.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4390" title="2718689917_6ff84bb94c" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/06/2718689917_6ff84bb94c-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>２００５年あたりからＳＮＳが普及してくるに従い、この傾向はより強くなってきます。それまで大学の事務局経由でコンタクトしてきた方が多かったのですが、だんだんと減っていきます。一方で、ネット上で同窓であることが分かり、ネットのオフ会という要素が入り始めました。勝手にネットワークができるから、以前のように定期的な夕食会をアレンジする必要がなくなり、それぞれが集まるようになったのです。そして、同時に以前は大切であった名簿が不要になりました。住所や電話番号を記している必要がなくなり、メールアドレスだけあれば、充分です。あるいは大学のＳＮＳやフェイスブックのページが活用されつつあり、メールアドレス自身を知らなくてもすむようになりつつあります。</p>
<p>しかしながら、それは全員ではありません。Twitterで集合をかけるとなればTwitterを全員やっていないといけないし、フェイスブックもそう。アカウントをもっていても、あまりログインしていない人も少なくありません。とすると、やはりメールで告知するという手段が一番漏れがありません。１０年前から比較すれば雲泥の差で連絡が楽であることは確かながら、「やはり、フェイスブックでクリックした結果だけみれば楽なのだが・・」という思いは残ります。この統一した手段が常に一定しない、というのが世の中なのでしょう。<strong>必ず、前のツールと今のツールが混在し、そこで葛藤が送信側にも受信側にもともなう・・・これを余裕もって眺めるのが同窓会という効率性とは無縁の社会の楽しみ方でしょう</strong>。</p>
<p>因みに、「ミラノのレストランを教えてくれ」というような質問はこの数年、一切、なくなりました（笑）。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>ホテルマンが一瞬目を逸らすとき</title>
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		<pubDate>Mon, 07 Feb 2011 15:46:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[よく日本の「おもてなし」のサービスが話題になります。きめの細かいところまで神経が行き届くことを指します。一方で、タイのホスピタリティの質の高さもよく語られるところです。たとえば、マンダリン・オリエンタル・バンコクについて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>よく日本の「おもてなし」のサービスが話題になります。きめの細かいところまで神経が行き届くことを指します。一方で、タイのホスピタリティの質の高さもよく語られるところです。たとえば、マンダリン・オリエンタル・バンコクについてウィキペディに次のような記述があります。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">「1人の宿泊客に対して4人のスタッフがついている」と称されている程の、<strong>タイ風のきめ細やかなサービスが世界的に高い評価を受けており</strong>、そのサービスは、<a title="インスティテューショナル・インベスター（存在しないページ）" href="http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%99%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC&amp;action=edit&amp;redlink=1">インスティテューショナル・インベスター</a>誌や<a title="コンデナスト・トラベラー" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%BC">コンデナスト・トラベラー</a>誌などの権威ある<a title="雑誌" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%AA%8C">雑誌</a>による調査で常に世界のトップクラスに選ばれている。</span></p></blockquote>
<p>ぼくは残念ながら、このホテルに泊まったことがありません。でも、タイに二度旅した経験から、タイ風のきめ細かいサービスがどんな点を言っているのか、なんとなく分かるような気がします。やはり、客の欲することへの想像力が優れているのでしょう。日本の「おもてなし」が独自なスタイルを伴い、そのスタイルがそれなりに評価もされているなかで、日本の「おもてなし」に欠けていることがあるとしたら、なんだろうとも思います。いや、ぼくは日本のホテルや旅館のサービスが、世界レベルの調査のなかでどう評価されているか知りませんが、ぼく自身が日本で気になることがあります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/02/servizi_1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4018" title="s" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/02/servizi_1-300x199.jpg" alt="" width="300" height="199" /></a></p>
<p>ぼくが、日本でこの１５年近く定宿にしてきたホテルは、常時ロビーに沢山のスタッフを配置していました。アシスタントマネージャーも必ずいて、ぼくはそれらの人とほぼ顔なじみであったと言って良いでしょう。そして滞在中、何度もロビーを通過します。したがって、何度も顔をあわせます。で、気がつくのは、<strong>たまに客を見なかったフリをするスタッフがいるのです。目での挨拶を避けるための本能的な動作</strong>です。彼らも、実際に話せば、まったく普通に話すサービスマンです。しかし、一瞬、怠惰になるのです。躊躇ではなく怠惰。それはきっと目で挨拶することが、ＤＮＡのなかに組み込まれていないからではないかと思うほどです。</p>
<p><strong>イタリアのホテルでサービスマンが客を無視するなら、それは堂々と無視をしている</strong>。頭にくるほどに無視する。中国料理屋に入って中国人のウエイターにも無視されることがある。でも、それは日本のホテルで味わう、あの一瞬の怠惰とはどうも違うのです。挨拶すべきと任じているからこそ、怠惰になる一瞬。そこで、あれか？と思い出します。イタリアの０歳児からのあまりの人懐っこさ、です。道端で公園で出会う赤ん坊たちの何ともいえない笑顔。日本の赤ん坊と決定的に違う微妙な差が、あの人懐っこさにあると考えているとき、タイの赤ん坊はどうなんだろうか・・・と思いました。<strong>他人を目にしたとき、一瞬、腰をひくようなことが、タイの赤ん坊には少ないのだろうか・・・とするなら、マンダリン・オリエンタル・バンコクの評価の高さがよく分かります</strong>。</p>
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		<title>イタリア男は女性と一対一で会話が成立する</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Feb 2011 17:23:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[ぼくの奥さんが言うのですが、日本人の男性は一対一で女性と会話するのが下手。彼女は日本にいる時、ピアノの個人レッスンを生徒の家で教えていたのですが、週末なんかだと、たまに生徒の母親が出かけていて父親が家にいることがあります [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ぼくの奥さんが言うのですが、日本人の男性は一対一で女性と会話するのが下手。彼女は日本にいる時、ピアノの個人レッスンを生徒の家で教えていたのですが、週末なんかだと、たまに生徒の母親が出かけていて父親が家にいることがあります。そういうとき、どうもしまらない話になるというか、いや、雑談なんかしまらないのはしまらなくていいですが、どうも話がのらないんですね。それに比べると、イタリアでは違う、と。ウチでピアノのレッスンが終わった後、生徒のパパが迎えにくるのですが、まあ、よく話すのです。イタリア人の男性の話し方と言うのは、いってみれば、「おばさん」的でどうでもいいことを細かくとりとめもなく話すのが特徴です。だから、女性の相手ができるのか？という仮説もたてられるのですが、どうでしょうか・・・。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/02/essereononessere.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4000" title="c1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/02/essereononessere-300x260.jpg" alt="" width="300" height="260" /></a></p>
<p>子供のパーティがあったとき、父親も沢山いるのですが、そうべらべら喋っているわけではなく、結構、つまらなそうにぼんやりとしているものです（いや、子供が幼稚園の頃は、結構、ウキウキと話していましたが）。これはどこの国でも同じじゃないかと思います。で、ぼくなんかは安心するのですが、そういう風にざわざわしているときはどうでもよいとして、一対一の時にどうか？がポイントだと言うのです、うちの奥さんは。普通に普通の話題を喋れる人が多いというのです。そう、仕事の話だ、趣味の話だというのじゃなくて、何でもない日常的なことです。これ、ぼくも思うのですが、年齢もあるかなと思います。やはり、イタリアの高度成長時代に生きてきた世代は口数が少なく、世代が若くなるほど軽く喋れるタイプが多くなっているような気はします。</p>
<p>いやあ、ぼくなんかも、イタリア人のママたちと話すのは得意じゃない。子供のこと、学校のこと、この話が終わると、話すことないんだよなあ・・・高度成長時代にイタリアに来ていれば良かった・・・なんて思わないですが、この話題、案外核心を衝いているかもしれないです。よく英会話は中身だ、発音じゃない！とか言いますし、ビジネスで通じればいいんだ！とも言うのですが、ぼくが昔から言うのは、「晴れた日曜日の午後、気持ちよい草原に寝転びながらできる会話が大切」ということ。これが一番難しいのです。ああ、もちろん、一対一の女性との会話というのは相手の気を引くためのものじゃありません。それは目的意識がはっきりしている。目的のない会話を前提としないといけません。</p>
<p>まったくシンプルに、コミュニケーションとは同じ空気を吸っていることを確認するものだ、という定義です。空気以上の重さを感じちゃいけない。じゃあ黙っていればいいじゃない・・・と言ってはいけません。女性に対して失礼です！女性を前にして沈黙など無礼もはなはだしい！・・・さあ、自らを鍛えねば！←だめ、だめ、こういう思考自身が、無駄な会話と反対なんです。</p>
<p>今日は、「その他」のカテゴリーのエントリーでした。</p>
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		<title>目次のない旅がはじまっている</title>
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		<pubDate>Sat, 22 Jan 2011 18:31:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[旅がより重要な時代に入ってきたと思います。それも目次のない旅です。 ７０年代、ジャンボジェット機によって国際大輸送時代に入りました。それまで海外に飛ぶことなど考えたことのない人が、低価格で文字通り大陸を跨ぐことができるよ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>旅がより重要な時代に入ってきたと思います。それも目次のない旅です</strong>。</p>
<p>７０年代、ジャンボジェット機によって国際大輸送時代に入りました。それまで海外に飛ぶことなど考えたことのない人が、低価格で文字通り大陸を跨ぐことができるようになったのです。そして、「百聞は一見に如かず」という感想を多くの人がもつに至りました。ヨーロッパについて言うなら、ベルリンの壁の崩壊が鉄のカーテンをはずしたことで実際的な活動面積が広がり、シェンゲン協定域内ではパスポートコントロールがなくなり、統一通貨の導入は文字通り財布一つで国境を越える世界を実現しました。並行してネット社会の定着により、物理的距離が化学治療のごとくに障害の一つを急激に縮小させ、ソーシャルメディアはそのスピードの加速度化を促しています。デスクの前のＰＣではなく、行動を共にする<strong>スマートフォンが「留守の時間」を消失させていきます</strong>。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/easyjet.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3954" title="eｊ" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/easyjet-300x197.jpg" alt="" width="300" height="197" /></a></p>
<p>それがゆえに、逆に、人は他人とリアルに会う動機が増加しています。人と知り合うチャンスの増加もありますが、やはり YouTube の情報やスカイプでの会話だけでは駄目だったんだと思った経験も同時に増えているのです。ここでも「百聞は一見にしかず」であることを痛感。この動向にマッチするのがLCC(Low Cost Carrier）であり、数百ユーロではなく数十ユーロで各都市を飛び歩けるようになりました。しかもスーツケース一つに料金設定がされますから、より旅は身軽になります。こうして旅は地図上、より脈絡がない動きを作ります。リヨンの友人に会ったらバルセロナに足を延ばすより、リヨンからベルリンのほかの友人に会いに行く。<strong>各国のガイドブックより各都市のガイドブックのほうが、よりポイントを衝いています</strong>。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/Bay_of_Islands_Aerial_View_to_Cape_Brett.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3955" title="Bi" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/Bay_of_Islands_Aerial_View_to_Cape_Brett-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>トレンディな店のレイアウトが複合化しているのは、このような気分と衝動にフィットするからでしょう。書籍、陶器、Ｔシャツ、ＣＤ、バッグが、あるキーワードで結びついてディスプレイされるのは、ゴーグルにキーワードを入れて検索結果を実際に見るようなフィーリングを与えてくれます。カテゴリーという言葉がじょじょに重みを失い、<strong>Ａの経験とＢの経験をリンクする糸の張り方自身がキー</strong>になってきたのです。ただ気分の問題だけではありません。それは本でいえば、目次のない本です。Ａの本の第一章とＢの本の第二章を自分でつなげていく読書です。もちろん、ある著者の思考全体を知るのに、そういう読み方ではいけません。が、ある基礎があれば、そういう島を渡り歩くことができます。そう、大陸をベタに歩くのではなく、島を飛び歩くイメージが強いです。</p>
<p>カジュアル化したファッション、軽くなりつつあるバッグ、モノの売り方、旅のガイドブックの変化、アジアやアフリカの台頭・・・さまざまなアイテムから、目次のない旅のはじまりを感じます。</p>
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		<title>２０１０年から２０１１年への渡し舟（４）　局地的有名人とは？</title>
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		<pubDate>Fri, 31 Dec 2010 20:37:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>
		<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[古い雑誌を整理していると、随分と読み残している記事が多いのに気がつきます。そうすると、捨てる前にちょっとは読んでしまおうと思ってしまう。そして読んだ、少し前の週刊文春です。林真理子が既に自分のことを知らない若い人が多いこ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>古い雑誌を整理していると、随分と読み残している記事が多いのに気がつきます。そうすると、捨てる前にちょっとは読んでしまおうと思ってしまう。そして読んだ、少し前の週刊文春です。林真理子が既に自分のことを知らない若い人が多いことに気づいたとのエッセーがありました。「かつての有名人」はそこで複雑な思いに駆られるわけですが、今や「かつての有名人」のように全ての人が知っていることが少なくなっています。佐藤栄作の時代は皆が５－６代前の総理大臣も言えて外務大臣や大蔵大臣の名前がすぐ出てこないことは、社会人として失格だったでしょう。しかし、<strong>菅首相と小泉首相の間の何人かの首相の名前と在任期間を言えなくても、あるいは、その時々の外務大臣や財務大臣の名前が言えなくても全然恥ずかしくない</strong>でしょう。</p>
<p>これは政治の世界がコロコロと変わっているからだけではありません。どんなにイチローが有名であろうと、長嶋茂雄が国民的スターであったほどには多くの人の脳裏に焼きついた名前となっていないのです。スターが小粒になったとは言われます。しかし、それは小粒のタレントもあるかもしれないけど、<strong>小粒であるしかないようなシステムで社会が成立するようになったから</strong>だと思います。昔は一部のジャーナリストしか知らなかった俳優の私生活の一部を、FACEBOOKでは多くの人が当然のように知ってしまっています。情報がガラス張りになればなるほど、大粒である成立条件をどんどんと壊していきます。なにせ未知が小を大にする重要な要素であったのですから。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/galeria-21harry-potter_3tf.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3818" title="hp" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/galeria-21harry-potter_3tf-225x300.jpg" alt="" width="225" height="300" /></a></p>
<p>逆にちょっとした有名人は出来やすい。Twitterで何十万人というフォローワーを抱えている人の名前をみて、一般のTwitter以外の世界の多くの人がどれだけ知っているでしょうか。つまり、<strong>「有名人の局地化」が加速しています</strong>。Twitterの有名人は必ずしも他のＳＮＳで有名ではないかもしれないし、いわんやマスメディアのなかでは「市井の人」か「ポッと出」としか形容されません。ちょっとした有名人になるシステムは、マスメディア全盛の時代よりは明らかに揃っているのです。</p>
<p>そこで課題は、かつてのような有名人であることに今もメリットがあるか？「局地的有名人」であることが充分であるか？という問いにどう答えるかです。衆議院の小選挙区制で立候補するより、所属党の意向次第の比例代表制の方が「局地的有名人」であることは有効に作用するかもしれません。もちろんTwitterのセミナー講師で稼ぎまくるならTwitter有名人で充分でしょう。しかし、それでは比例代表区の推薦は得にくいでしょう。それには、マスメディアでの「局地有名人」であるほうが有利です。そして、マスメディアの「局地的有名人」はTwitterの有名人にはなりやすいけれど、その逆が同様にはなりにくいのが現実でしょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/Elisha-Cuthbert-147.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3819" title="ec" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/Elisha-Cuthbert-147-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>しかし、いずれにせよ、現代における有名人は長続きしません。ホリエモンが有名になったのは彼の日ごろの活動ではなく、ＴＶ局の買収劇や逮捕という事件での瞬間風速的な側面が強く、荒川静香という名前はトリノ冬季オリンピックで金メダルをとった数ヶ月が旬だったわけです。<strong>なにも不祥事も事件もなにもなく、またイベントで名前を挙げるということもなくーＷ杯でゴールを入れるー、恒常的に有名であることがあまりないのが現代であり、それがより強まっていると言える</strong>と思います。吉永小百合のような名前が再び出ることは至難です。</p>
<p>即ち、ブランドを考えるとき、局地的ブランドこそが優位性をもつのかどうか、をより真剣に考えるべきシーンに直面している。このことを更に意識しないといけない時代に突入しています。突き詰めれば、<strong>どのような「局地ブランド」を組み合わせるかに傾注すべき</strong>ということでしょう。</p>
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		<title>２０１０年から２０１１年への渡し舟（２）</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3804</link>
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		<pubDate>Tue, 28 Dec 2010 12:00:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>
		<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[Ｆ１の開催国が中東へアジアに移行してきたことが、驚きとはならず当たり前の風景として展開されてきています。サッカーの世界のニュースも同様です。ヨーロッパと極東の日本の間にあった空白が、色とりどりのイベントで埋められいく・・ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>Ｆ１の開催国が中東へアジアに移行してきたことが、驚きとはならず当たり前の風景として展開されてきています。サッカーの世界のニュースも同様です。ヨーロッパと極東の日本の間にあった空白が、色とりどりのイベントで埋められいく・・・かつて学生時代、パンナムの世界一周便の飛行機で東京→香港→タイ→インド→バーレーン→英国と南回りで飛んできたことを思い出す・・・アジア・中東ベルト地帯が表舞台になってきています、表面上は。くどいようですが、あくまでも表面上です。</p>
<p>ヨーロッパの相対的地位の低下が２０１０年、特に強まったわけではありませんが、「もう自分たちの場所に潜在力のある大きなマーケットはあまりないよな」ということを、これまた街の隅々の人が口に出していうようになってきたとは言えるでしょう。今まではヨーロッパのなかでしか活動してこなかった人たちが、インドやアフリカに出かけるようになりました。しかし、Ｆ１やサッカーの例にあるように利権は自分の懐に入れたままです。表面上、中東やアジアが表舞台に出ることをやや顔を引きつらせながらも、虎視眈々とネタを探ってきた結果であり、ヨーロッパのもつ見えない資産の威力を中東やアジアも求めている結果です。<strong>日本が焦っているのは、ここに大きな要因があります。新興国が力を持つにあたって「利幅の大きい役得」をヨーロッパや米国に求めながら、さほど日本には求められていない、その差</strong>です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/vaporetto.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-3805" title="va" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/vaporetto.jpg" alt="" width="300" height="270" /></a></p>
<p>２０００年に入り数年間、ミラノで生まれた息子をみて通りを歩くイタリア人たちが「日本語とイタリア語を喋れていいね」とありきたりの言葉を残していきました。こちらが「いや、中国語のほうがいいかも」と答えると、「いや、いや、中国人はちゃんとディシプリンされていない連中だから、日本語のほうがいいんだよ」と外交辞令を含めて言い返してくるものでした。しかし、２００５年頃からは「そうね、中国語のほうが有利かもね」とはっきりと言われるようになりました。要するに、<strong>日本の地位低下が、同じように地位の低下を続けているヨーロッパの街角の隅々にいたるまで認識されてきた</strong>ということです。それは、今までよりはお洒落な中国人の経営する日本食レストランの増加と並行しています。食という「利幅の大きい役得」の源泉をみすみす取られてしまったのです。</p>
<p>日本人の板前さんたちは、「中国人は日本のオーセンティックな味を守らずに安上がりでやっていてずるい」と文句を言ってきましたが、中国人は「あんたたち、ナニ言ってるの？ローカルなお客さんが喜ぶ料理を提供してナニが悪い？」と答えます。<strong>２０１０年の日本の対世界の大きな変化の一つは、ここにあります。中国人の提供する日本料理のビジネスセンスは批判の対象とはならず、学ぶべきことではないかという認識がじょじょに広まりつつあること</strong>ではないかと思います。そして、遅まきながら、「利幅の大きい役得」とは何かを具体的に探りはじめたのが経済産業省が主導する横断的プロジェクトのクールジャパン事業でしょう。弱体化している民主党の成長戦略の一環であることが危うさを感じさせますが、「利幅の大きい役得」という軌道に入りこむことは必須であることは否定しがたいです。</p>
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		<title>２０１０年から２０１１年への渡し舟（１）</title>
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		<pubDate>Mon, 27 Dec 2010 12:08:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>
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		<description><![CDATA[年は強制的に変わるものです。しかし、今年のことは来年に上手く繋げたいし、来年になれば今年のことが滑らかに押し進んできたことを実感したいと思うものでしょう。ここに何か適当な言葉はないかなと思っていたら、ふと「渡し舟」という [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>年は強制的に変わるものです。しかし、今年のことは来年に上手く繋げたいし、来年になれば今年のことが滑らかに押し進んできたことを実感したいと思うものでしょう。ここに何か適当な言葉はないかなと思っていたら、ふと「渡し舟」という表現が思い浮びました。かつての渡し船は橋に変わり、多くは陸続きになっているのが現代社会ですが、年をまたぐには橋ではなく渡し舟の感覚が似合うのではと思ったのです。だいたい橋は往復イメージが強すぎる！</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/venezia2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3798" title="ve" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/venezia2-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>そう、どんなにあがいても往った年は繰り返さない。でもなんせ３６５日も共に過ごした年をおろそかにするなんて馬鹿なことは考えないほうがいい・・・というわけで、今年を振り返ってみようと思うわけです。まずは、世界全体の動きから。</p>
<p>特に何かのサイトや雑誌で振り返るのではなく、ぼく自身の記憶に残っている「感触」から言います。<strong>２００８年に突入した世界不況は、２０１０年において、２００８年末のマスメディアを騒がしたような状況には至りませんでしたが、その影響が世界の街角の隅々までいきわたったといえるでしょう</strong>。産業間の時差ー例えば自動車や電機と建設業の時差ーは２００９年に既になくなっています。２０１０年は、その時差のないなかでストラクチャーがもろに浮き彫りにされた年です。別の表現にすれば、換えるべきストラクチャーが明確になってきたということです。街の隅々とはこういうことです。<strong>アジアの新興国のことがこれだけ語られるのも、このストラクチャー変化の一表現</strong>とみるべきでしょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/Venezia.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3799" title="V" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/Venezia-300x223.jpg" alt="" width="300" height="223" /></a></p>
<p>ギリシャの破綻あるいはスペインやアイルランドの苦境の話し、あるいはドイツの回復基調は、それぞれ一緒のレベルで語ることができないかもしれませんが、言ってみれば<strong>輝かしい未来がある地域だけに自律的にあるのではなく、新しいストラクチャーとの組み合わせにしかありえない</strong>ことを認識させる現象の数々といえるでしょう。新興国の輸出先としての先進国という捉え方は既に古い地図であり、およそ先進国という表現自身、相当に色あせたものになっています。Ｇ８からＧ２０が象徴的です。もちろん現実としては大きなギャップが地域ごとにあるのですが、経済先進国は結局のところ「先行きが行き詰った国」です。しかし、開発途上国や新興国も「今後に将来があるように見えるが、その先に行けば行き詰るだろう国」でしかない、今のところ。</p>
<p>即ち、考え方や見方の見直しが非常に重要になっています。あれだけの厳しい労働に日々の糧を見出していた中国人移民の子供が、「もう、お金じゃないですよね」と語るのを聞き、世の中の価値観の変貌のスピードに驚きました。伝統は生きるが、伝統に生じる綻びを見逃せない・・・とことさら実感する年でした。</p>
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		<title>「ローカリゼーションマップ研究会」が考えること</title>
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		<pubDate>Wed, 16 Jun 2010 04:41:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[その他]]></category>
		<category><![CDATA[セミナー・講演など]]></category>
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		<description><![CDATA[３月２０日、六本木アクシスビル内のＪＩＤＡ事務局にて２０名あまりの参加者でローカリゼーションマップ研究会をキックオフしてそろそろ３ヶ月。このあいだ、Twitterの#lmap でローカリゼーションの事例や思いついたアイデ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3047">３月２０日、六本木アクシスビル内のＪＩＤＡ事務局にて２０名あまりの参加者でローカリゼーションマップ研究会をキックオフ</a>してそろそろ３ヶ月。このあいだ、Twitterの#lmap でローカリゼーションの事例や思いついたアイデアなどを集めてきました。当初３ヶ月間でアイデアをじっくり考え、その後に次のステップに移行すると計画していたので、第一ステップ終了ゴング直前というわけです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/comunicazione-scientifica-rain-man.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3461" title="c1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/comunicazione-scientifica-rain-man-300x235.jpg" alt="" width="300" height="235" /></a></p>
<p>一つよく分かったことがあります。<strong>ローカリゼーションという言葉が翻訳やソフトの現地化以外のビジネス分野ではあまり使われておらず、<a href="http://european-culture-note.blogspot.com/2010/05/blog-post.html">ローカリゼーション産業はまさしくこれらの分野だけを指し示すことが多いということが再確認できました</a></strong>。文化人類学において文化適合などの概念が、日本のビジネス世界で人事面で言及されても、ビジネス全般では一般的な体験談以上には認知されていません。最近、「デザイン思考」という表現が流布しており、ローカリゼーションを考えるときの有効なプロセスとして一部重なるような気もしますが、概念のレベルが違います。</p>
<p>したがって、ローカリゼーションを総括的に幅広く語った本は、少なくても日本語ではなさそうです。マーケティングやＷＥＢサイトのテクニカルな本にそうした記述があったとしても、それが食やハードのデザインを語るには至りません。しかし、ぼくが何度も書いているように、それらは個々に独立した経験をユーザーに提供していますが、ユーザーは一人の人間としてそれぞれを連続性をもって経験し、ある経験は次の瞬間の経験のベースとなっていきます。<strong>ケータイの経験はカーナビにいっても引きずり、それをもってクルマのコックピットデザインへの期待度が変わってきます</strong>。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/comunicazione-efficace.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3462" title="c2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/comunicazione-efficace-300x202.jpg" alt="" width="300" height="202" /></a></p>
<p>手元のiPhoneで瞬時にメールをチェックしていると、ノートＰＣの蓋を開け起動させ、ブラウザを開くなど二世代前の世界に思え、そのうちに全ての人はそうしたスマートフォンを持っているような錯覚に陥り、もっていない人を「不便な奴！」と罵ったりするのです。ＷＥＢや情報機器において期待されるローカリゼーションは認知的側面が強く、仮に高次元の満足度を与えた場合、このレベルのサービスに馴れ鋭くなったユーザーの感覚は、ハードを中心とした製品デザインにも適用されます。秀逸なスタイリングのノートＰＣのデザイン自体が古臭くみえたり、ケータイカメラに馴れると、ネット世界からは孤立している通信機能をもたないデジカメは「孤独感を漂わす」とそのユーザーの目には映るのです。</p>
<p>β版でスタートすることに馴れるには、もしかしたら洋服を変えないといけないのかもしれません。スーツにネクタイで企画９割完成させて肩肘はって一歩踏み出すより、カジュアルなファッションではじめるβ版的ゲリラ戦が歓迎される今ー歓迎というより、それでないとスピードについていけないー、この感覚の横断性はより強くなっています。だからこそ、統合的あるいは総合的イメージが重要視され、個人が前面に出る<strong>パ－ソナルブランドが構築しやすいーいわば生き方のレシピが世の中に溢れかえっているのは故なきことではない</strong>というわけです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/corsi-comunicazione.gif"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3463" title="c3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/corsi-comunicazione-300x198.gif" alt="" width="300" height="198" /></a></p>
<p>これがライフスタイル産業ーファッション、または食や日用雑貨ーへの注目度とリンクしてきます。日常をディテールに分割することは発想として、あるいは現実としてありえず、日常は全体としてしか掴みきれない。デザイン性に優れたインテリアと創造性溢れる食卓は当然リンクするしかないのです。リンクしないほうがおかしい。そして、それは言葉の表現の繊細さにも結びつく。やや遠回りしましたが、従来のローカリゼーション産業がライフスタイル産業により接近する必然性がここにあり、村上隆が英語翻訳に高い料金を払ってカタログを作成したことがＮＹＴの美術評論での絶賛に結びついた一つの要因であると本人が書くように（『芸術起業論』）、思考と言葉への注意深い配慮をはずしてデザイン戦略は成立しないのです。こうした前提のうえで、抜群なスタイリング表現と併走できる世界ができます。<strong>全ての要素は必要不可欠であり、現在は、それらの間隙にあるエッセンスが見落とされるが故に全体系を作りえないことが多い</strong>と思います。</p>
<p><a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3448">「世界を変えるデザイン展」のエントリーで書いた</a>ように、モノを介して文化を理解する大事さを知った人は多かったと思います。<strong>コンテクストの理解がまずありきであることが、あの展覧会で強調され、「そうなんだな。それって楽しい」と思った人は少なくなかったでしょう。これがローカリゼーションマップへの興味</strong>です。対象地域のユーザーのマインドマップを描き、それをベースにこちらの戦略を作る方法のヒントやノウハウを提供する。ローカリゼーションマップ研究会は、こういう道を作っていくことではないかとの思いをぼく個人、強く持ちつつあります。</p>
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		<title>「ネットワーク行動学から都市デザインへ」に参加</title>
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		<pubDate>Tue, 08 Jun 2010 11:55:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>
		<category><![CDATA[セミナー・講演など]]></category>

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		<description><![CDATA[２０世紀は肥満の時代といわれ、人が身体を動かさなくても用事がすみ、そのため肥満解消のためにジムに通ったりジョギングをすることが積極的に奨励されてきました。その原因は飽食を別にすれば特にクルマ社会に象徴されがちですが、郵便 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>２０世紀は肥満の時代といわれ、人が身体を動かさなくても用事がすみ、そのため肥満解消のためにジムに通ったりジョギングをすることが積極的に奨励されてきました。その原因は飽食を別にすれば特にクルマ社会に象徴されがちですが、郵便代や電話代を節約するために人の家を訪問することが動機として成立しない社会になっている現在、<strong>人が身体を動かすことの意味、身体を動かして移動することの意味は重要なテーマ</strong>になっています。「どうして身体を動かさないといけないんだ？」という質問に答えられないと、非生産的な人間にみられたりします。「そんなのメールですませばいいのに」「Twitterで集合かければコストも安くてすむのに」という批判ともつかぬ冷淡な目に晒されながら、あえて身体を動かすのは何のためなのか？です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/1158087993_f.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3440" title="c1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/1158087993_f-300x219.jpg" alt="" width="300" height="219" /></a></p>
<p>その一方、ケータイ、スマートフォン、タブレット・・・と、身体を動かしながらでもコミュニケーション、それも世界中の人々と交信可能なツールはどんどんと発達してきています。あたかも身体を動かすのが前提になっているがごとく。しかし、反対の極論をいえばベッドで寝ながらでも１万キロの彼方とコミュニケーション可能な環境が作られているのです。「メールで交信しているのに、メールでは失礼だからと電話をしてくる人がいるが迷惑だ」と言われることが珍しくなくなっていて、名刺にもケータイ番号とメールアドレスあれば十分。いや、名刺も不要でネット検索やソーシャルネットワークの何処かにコンタクトが記載されていれば問題なしとなりつつあるなか、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3371">ホリエモンが苛立つ様に「どうしてiPhoneのバッテリーチャージャーをオンラインで売っているというと、『オンラインだけですか？』と聞く人が少なくない。なぜなんだ？」という状況もあります</a>。動機もないのに動く非生産的な人たちの多さ・・・。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/tatto.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3443" title="c3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/tatto-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>昨日、建築学会建築事業委員会が開催しているカルチベートトークに参加しました。講師は東大都市工学科で交通工学を教えている羽藤英二さん。移動の数理分析が専門の方。（参加していた早大の学生さんのまとめがブログにアップされているので、詳細はそちらを参考にしてください→<a href="http://ameblo.jp/ry-utabou/entry-10556977630.html">http://ameblo.jp/ry-utabou/entry-10556977630.html</a>）　基本的に人間は移動する存在であることが定義されています。<strong>人が移動しない存在であるとは定義しずらいでしょうが、今の世界をみていて、移動が大前提になっていると考えてよいのかどうか、まずこれがぼく自身の第一の疑問</strong>でした。意味を問われないで移動することが正当化されるロジックとは何なのか？健康や気晴らしのための散歩は、その理由付けをする時点で本来の人の行動として不自然です。目の前にきれいな公園があるから散策に出ようと思うのか、自然に接したいという本能を満たすために公園に出かけるのか。つまり、どこまでを本能的な行動として生産性の枠外におくか、どこからを生産性の問題とするか、これが面倒ではあるが整理しないと生きづらい世の中になってきたのです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/ITS_MD_US-EN.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-3441" title="c2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/ITS_MD_US-EN.jpg" alt="" width="259" height="259" /></a></p>
<p>これは自家用車について顕著です。ＣＯ２を排出する内燃機関の自動車、それもパーソナルカーに乗る理由はより厳しく問われるようになりました。もともと社会悪的な側面をもつ存在であったクルマですが、これを散歩と同じように楽しみに乗る。それも海辺や山ではなく都市内で利用する場合、明らかに散歩を非生産性の枠外におくようにはクルマを枠外に置きにくいロジックが強くなりつつあります。しかし、およそ過去を振り返れば、都市計画者にとって公共交通は許せても、パーソナルカーは馬車の子孫とは認めたくない。自転車はいいが、できれば「クルマは始末すべき」とみられがちでした。羽藤さんは、２０世紀の都市はクルマをどう入れ込むかが大きなテーマだったといいますがーこれが恐竜的な巨大社会を構成したー、これは意地悪く見ればクルマを厄介ものであることを前提にした議論であったといえます。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/getmedia.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3444" title="c5" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/getmedia-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a></p>
<p>いずれにせよ、羽藤さんは恐竜型からヒューマンスケールの哺乳類型へ移行しつつある都市のあり方を唱え、その一つとして、鉄道ー自動車ー自転車ネットワークがいわば幸福の絆を築けるようなモビリティ・クラウドー羽藤さんの言葉。ＭＩＴではモビリティ・オン・デマンドという言葉を使うらしいーを提案しています。そして、それを後押しするのはスマートグリッドにおけるＥＶの位置づけです。<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/2733">ぼくも「２０３０年　ＥＶで変わる社会とクルマを読む」というエントリーで書きました</a>が、エネルギーのバランサーという役割をＥＶがもつことで、社会的正当性をもちやすくなる可能性はあります。ただ、それだけでなく、パネラーである東大都市持続再生研究センターの阿部大輔さんも指摘していましたが、「ラストマイル」の詰め具合がポイントであり、郊外のあるポイントまでクルマできて、あとは公共交通あるいは自転車に任せるだけではモビリティ・クラウドは現実的には成立しないでしょう。そしてカーシェアリングというサービスの定義と意味が深く問われます。</p>
<p>これは同時にパーソナルカーの概念の大変換を促し、概念の変貌は実際ＥＶを契機としてクルマの過去のマイナスを清算していくことで可能になっていくかもしれません。その文脈で、昨日の「移動ネットワークから都市デザインへ」という表題が狙った都市計画者と建築家の協業は、今後はクルマの企画者とデザイナーと手を結んでいくことの暗黙の了解を得たようにぼくの目にはー勝手にー映ったのでした。２０世紀に手を結ばなかった非をお互いが反省した上で、当然、その方向に向かうべく世の中は動き始めていると思うし、今、クルマの側のほうがより都市に関心を寄せているとも見えます。<strong>お互いが手を結んで可能になることーそれは長らく停滞気味だったＩＴＳ（Intelligence Transport System) がヒューマンスケールを視野に入れることで一気に現実性を帯びてくることではないか</strong>、とも考えています。</p>
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		<title>イタリア好きのアリタリア便</title>
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		<pubDate>Sat, 05 Jun 2010 11:04:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>
		<category><![CDATA[イタリア料理と文化]]></category>

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		<description><![CDATA[昨日、日本に飛ぶためミラノの空港に向かう直前、自宅に一通の手紙がきました。差出人はパドヴァの警察。「えっ、出発直前に、なんだ、このややこしいのは！」と思いながら乱暴に封を切ると、昨年１１月、パドヴァ市内で通行禁止の区域を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/padova.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3427" title="pa" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/padova-300x212.jpg" alt="" width="300" height="212" /></a></p>
<p>昨日、日本に飛ぶためミラノの空港に向かう直前、自宅に一通の手紙がきました。差出人はパドヴァの警察。「えっ、出発直前に、なんだ、このややこしいのは！」と思いながら乱暴に封を切ると、昨年１１月、パドヴァ市内で通行禁止の区域を走ったのを監視カメラに撮られたようです。<a href="../archives/2364">１１月のパドヴァといえば、「メトロクスの旅」で書いた、メトロクス社長の下坪さんと営業の片岡さんの３人でＢ－ＬＩＮＥに行ったとき</a>のことです。約 ９０ユーロ（約１万円）の罰金を払えというのですが、「<strong>この手紙が発行された１２月１５日から６０日以内に振り込まないとペナルティを科す</strong>」とギョッとし たことが・・・。ご丁寧にも６０日以内であって２ヶ月以内ではないと注釈もあります。<strong>しかし、手紙を受け取ったのは２０１０年６月４日。封筒の消印をみる と２０１０年５月４日！</strong> 思わず大笑いしてしまいました。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/20080925_alitalia_hostess1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3428" title="pa2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/20080925_alitalia_hostess1-239x300.jpg" alt="" width="239" height="300" /></a></p>
<p>さて、航空会社選択には二通りのパターンがあると書いたことがあります。<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/2821">「ＪＡＬのサービスに想う」</a>です。</p>
<blockquote><p><span style="color: #0000ff;">外国に出かける人は二つのタイプがあり、一つは「<strong>これから出かける国の雰囲気に飛行機から味わおう</strong>」という経験先行型であり、もう一つは「<strong>目的地に到着するまでは、なるべく自分の習慣を通したい</strong>」という経験先延ばし型でしょう。料金や乗り継ぎの便宜性という合理的レベルでの判断を別にすれば、上述の二つのパターンは一般的と考えてよいと思います。</span></p></blockquote>
<p>この１０年以上、欧州内でアリタリアを使うことはあっても、日本との往復はもっぱらＪＡＬでした。しかしＪＡＬは９月末にミラノと成田の直行便を廃止することになりました。それで新しい環境に早く馴れようと、昨日はアリタリア便に搭乗してみました。そこで、随分、ＪＡＬ便と違うなあと思いました。まず第一に搭乗直前にチケットとパスポートを提示するところで、「ボンジョルノ」「グラッツィエ」と挨拶する日本人がＪＡＬ便と比較して圧倒的に多いのです。それは機内でも同じで、ワインではなくヴィーノという乗客が多いように感じました。要するにイタリア好きが多いのです。上の範疇によれば、経験先行型です。一人旅も少なくなく、なんとなくテーマがあってイタリアに行って来たという雰囲気をもっています。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/hostess-alitalia.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-3429" title="pa3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/hostess-alitalia.jpg" alt="" width="250" height="274" /></a></p>
<p>実はミラノに長く住んでいる日本人は、こと日本との往復に関してはＪＡＬを使う人が多いーアリタリアの定時運行の確率の低さにうんざりしていて、日本に行くときくらいそういう苦労は避けたいーとの印象をもっているのですが、面白いのはイタリア人。ＪＡＬを選ぶイタリア人はどことなく日本びいきの傾向があり、アリタリアに搭乗するイタリア人はその日本びいき率が若干下がるようなタイプが目に付きます。経験先延ばし型にカテゴライズされそうな人たちです。「日本に特に興味があるわけじゃなく、でも嫌いっていうんじゃないんだよ。ただ、移動は馴れた航空会社がよくてね」と。もちろんマイレージをもっている人が多いこともあるでしょうが、わざわざＪＡＬのマイレージカードは作らないのでしょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/piredda2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3430" title="pa4" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/06/piredda2-300x234.jpg" alt="" width="300" height="234" /></a></p>
<p>ぼくは、アリタリアの機上の人となりながらーなんと陳腐な表現！－出発前に受け取った警察の手紙のことを考えていました。全てがああだったら社会はまったく機能しないけど、たまに生じるにはたいしたことない。ぼくは、正直言ってイタリア的役所仕事の健在ぶりにホッとしました。ＥＵの誕生以降、ＩＴの普及とあいまって自由がききずらくなっているのですが、最後の管理に穴があるところに、市民が逆手をとる余地があるわけです。その痛快さに大笑いしたのです。これがイタリアの良さでしょう。愛嬌のある文化は結局は好かれる・・・・。</p>
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