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Date:11/6/10

昨晩、久しぶりに大学の同窓で夕食会を開催しました。ミラノでの同窓会の幹事をやるようになったのは、およそ10年ほど前からです。その数年前、たまたま東京にある大学の同窓会事務局に出かけたとき、「幹事が日本に戻って、その後、空席なので、やってくれませんか?」と言われ、あまり考えずに「いいですよ」と答えたのです。正直にいえば、名前だけ書いておけばいいや程度のことしか考えていませんでした。そうしたら、時々、電話やFAXが届くようになりました。「ミラノで通訳を紹介してくれないか」「どこかお勧めのレストランを教えてくれ」「トスカーナの宿泊できる修道院はないか」・・・と問い合わせがくるようになりました。

今から思うと、「ネット検索時代」「SNSでの情報収集」前夜であったのだと思います。ネットは普及しはじめていましたが、データがそこまで蓄積されていなかった。掲示板やメーリングリストで外国の情報をとることが可能であっても、やはり人を経由した情報への信頼性が高かったのだと思います。そのように、自分ではこなしきれない問い合わせを前にして実行したのは、「名簿の作成」「定期的夕食会の開催」でした。名簿には卒業年度、学科、住所、電話番号・・・というお決まりの項目が並び、メールアドレスがない方もいたので、FAXや郵送で夕食会の開催を連絡するという手間も必要でした。

その時に意外に思ったことがあります。20代から30代前半の卒業生が多く集まってきたことです。それまで海外で日本人が集まることに拒否感を示していた世代が、それも学校の同窓というつながりで集まってきたことに意識の変化をみました。一つにはNYの911で、友人や家族の絆を強めるとの現象が世界的に広まったことがあります。それと、それまでの滞在年数が大きな指標であったピラミッド構造が崩壊しはじめてきたのです。必ずしも長く滞在していることが評価の対象ではなくなってきました。だから、誰でも気楽に参加できるようになった・・・というように空気が変わりました。

経験年数が多いことによる情報量があまり重要ではなくなり、それぞれの関心領域にしたがったところで繋がれるから、それまでの「同窓会?なんか駐在員の上下関係がそのままの世界なのでは?」というイメージがなくなってきたと思います。もちろん、これはぼくが卒業した大学に特徴的な現象なのかもしれませんが、集まる契機が複数存在するから、逆説的ですが、「旧タイプ的」な存在が相対的に軽くなったのです。

2005年あたりからSNSが普及してくるに従い、この傾向はより強くなってきます。それまで大学の事務局経由でコンタクトしてきた方が多かったのですが、だんだんと減っていきます。一方で、ネット上で同窓であることが分かり、ネットのオフ会という要素が入り始めました。勝手にネットワークができるから、以前のように定期的な夕食会をアレンジする必要がなくなり、それぞれが集まるようになったのです。そして、同時に以前は大切であった名簿が不要になりました。住所や電話番号を記している必要がなくなり、メールアドレスだけあれば、充分です。あるいは大学のSNSやフェイスブックのページが活用されつつあり、メールアドレス自身を知らなくてもすむようになりつつあります。

しかしながら、それは全員ではありません。Twitterで集合をかけるとなればTwitterを全員やっていないといけないし、フェイスブックもそう。アカウントをもっていても、あまりログインしていない人も少なくありません。とすると、やはりメールで告知するという手段が一番漏れがありません。10年前から比較すれば雲泥の差で連絡が楽であることは確かながら、「やはり、フェイスブックでクリックした結果だけみれば楽なのだが・・」という思いは残ります。この統一した手段が常に一定しない、というのが世の中なのでしょう。必ず、前のツールと今のツールが混在し、そこで葛藤が送信側にも受信側にもともなう・・・これを余裕もって眺めるのが同窓会という効率性とは無縁の社会の楽しみ方でしょう

因みに、「ミラノのレストランを教えてくれ」というような質問はこの数年、一切、なくなりました(笑)。

 

Category: その他 | Author 安西 洋之  | 
Date:11/2/8

よく日本の「おもてなし」のサービスが話題になります。きめの細かいところまで神経が行き届くことを指します。一方で、タイのホスピタリティの質の高さもよく語られるところです。たとえば、マンダリン・オリエンタル・バンコクについてウィキペディに次のような記述があります。

「1人の宿泊客に対して4人のスタッフがついている」と称されている程の、タイ風のきめ細やかなサービスが世界的に高い評価を受けており、そのサービスは、インスティテューショナル・インベスター誌やコンデナスト・トラベラー誌などの権威ある雑誌による調査で常に世界のトップクラスに選ばれている。

ぼくは残念ながら、このホテルに泊まったことがありません。でも、タイに二度旅した経験から、タイ風のきめ細かいサービスがどんな点を言っているのか、なんとなく分かるような気がします。やはり、客の欲することへの想像力が優れているのでしょう。日本の「おもてなし」が独自なスタイルを伴い、そのスタイルがそれなりに評価もされているなかで、日本の「おもてなし」に欠けていることがあるとしたら、なんだろうとも思います。いや、ぼくは日本のホテルや旅館のサービスが、世界レベルの調査のなかでどう評価されているか知りませんが、ぼく自身が日本で気になることがあります。

ぼくが、日本でこの15年近く定宿にしてきたホテルは、常時ロビーに沢山のスタッフを配置していました。アシスタントマネージャーも必ずいて、ぼくはそれらの人とほぼ顔なじみであったと言って良いでしょう。そして滞在中、何度もロビーを通過します。したがって、何度も顔をあわせます。で、気がつくのは、たまに客を見なかったフリをするスタッフがいるのです。目での挨拶を避けるための本能的な動作です。彼らも、実際に話せば、まったく普通に話すサービスマンです。しかし、一瞬、怠惰になるのです。躊躇ではなく怠惰。それはきっと目で挨拶することが、DNAのなかに組み込まれていないからではないかと思うほどです。

イタリアのホテルでサービスマンが客を無視するなら、それは堂々と無視をしている。頭にくるほどに無視する。中国料理屋に入って中国人のウエイターにも無視されることがある。でも、それは日本のホテルで味わう、あの一瞬の怠惰とはどうも違うのです。挨拶すべきと任じているからこそ、怠惰になる一瞬。そこで、あれか?と思い出します。イタリアの0歳児からのあまりの人懐っこさ、です。道端で公園で出会う赤ん坊たちの何ともいえない笑顔。日本の赤ん坊と決定的に違う微妙な差が、あの人懐っこさにあると考えているとき、タイの赤ん坊はどうなんだろうか・・・と思いました。他人を目にしたとき、一瞬、腰をひくようなことが、タイの赤ん坊には少ないのだろうか・・・とするなら、マンダリン・オリエンタル・バンコクの評価の高さがよく分かります

Category: その他 | Author 安西 洋之  | 
Date:11/2/2

ぼくの奥さんが言うのですが、日本人の男性は一対一で女性と会話するのが下手。彼女は日本にいる時、ピアノの個人レッスンを生徒の家で教えていたのですが、週末なんかだと、たまに生徒の母親が出かけていて父親が家にいることがあります。そういうとき、どうもしまらない話になるというか、いや、雑談なんかしまらないのはしまらなくていいですが、どうも話がのらないんですね。それに比べると、イタリアでは違う、と。ウチでピアノのレッスンが終わった後、生徒のパパが迎えにくるのですが、まあ、よく話すのです。イタリア人の男性の話し方と言うのは、いってみれば、「おばさん」的でどうでもいいことを細かくとりとめもなく話すのが特徴です。だから、女性の相手ができるのか?という仮説もたてられるのですが、どうでしょうか・・・。

子供のパーティがあったとき、父親も沢山いるのですが、そうべらべら喋っているわけではなく、結構、つまらなそうにぼんやりとしているものです(いや、子供が幼稚園の頃は、結構、ウキウキと話していましたが)。これはどこの国でも同じじゃないかと思います。で、ぼくなんかは安心するのですが、そういう風にざわざわしているときはどうでもよいとして、一対一の時にどうか?がポイントだと言うのです、うちの奥さんは。普通に普通の話題を喋れる人が多いというのです。そう、仕事の話だ、趣味の話だというのじゃなくて、何でもない日常的なことです。これ、ぼくも思うのですが、年齢もあるかなと思います。やはり、イタリアの高度成長時代に生きてきた世代は口数が少なく、世代が若くなるほど軽く喋れるタイプが多くなっているような気はします。

いやあ、ぼくなんかも、イタリア人のママたちと話すのは得意じゃない。子供のこと、学校のこと、この話が終わると、話すことないんだよなあ・・・高度成長時代にイタリアに来ていれば良かった・・・なんて思わないですが、この話題、案外核心を衝いているかもしれないです。よく英会話は中身だ、発音じゃない!とか言いますし、ビジネスで通じればいいんだ!とも言うのですが、ぼくが昔から言うのは、「晴れた日曜日の午後、気持ちよい草原に寝転びながらできる会話が大切」ということ。これが一番難しいのです。ああ、もちろん、一対一の女性との会話というのは相手の気を引くためのものじゃありません。それは目的意識がはっきりしている。目的のない会話を前提としないといけません。

まったくシンプルに、コミュニケーションとは同じ空気を吸っていることを確認するものだ、という定義です。空気以上の重さを感じちゃいけない。じゃあ黙っていればいいじゃない・・・と言ってはいけません。女性に対して失礼です!女性を前にして沈黙など無礼もはなはだしい!・・・さあ、自らを鍛えねば!←だめ、だめ、こういう思考自身が、無駄な会話と反対なんです。

今日は、「その他」のカテゴリーのエントリーでした。

Category: その他 | Author 安西 洋之  | 
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