その他 の記事

Date:10/6/16

3月20日、六本木アクシスビル内のJIDA事務局にて20名あまりの参加者でローカリゼーションマップ研究会をキックオフしてそろそろ3ヶ月。このあいだ、Twitterの#lmap でローカリゼーションの事例や思いついたアイデアなどを集めてきました。当初3ヶ月間でアイデアをじっくり考え、その後に次のステップに移行すると計画していたので、第一ステップ終了ゴング直前というわけです。

一つよく分かったことがあります。ローカリゼーションという言葉が翻訳やソフトの現地化以外のビジネス分野ではあまり使われておらず、ローカリゼーション産業はまさしくこれらの分野だけを指し示すことが多いということが再確認できました。文化人類学において文化適合などの概念が、日本のビジネス世界で人事面で言及されても、ビジネス全般では一般的な体験談以上には認知されていません。最近、「デザイン思考」という表現が流布しており、ローカリゼーションを考えるときの有効なプロセスとして一部重なるような気もしますが、概念のレベルが違います。

したがって、ローカリゼーションを総括的に幅広く語った本は、少なくても日本語ではなさそうです。マーケティングやWEBサイトのテクニカルな本にそうした記述があったとしても、それが食やハードのデザインを語るには至りません。しかし、ぼくが何度も書いているように、それらは個々に独立した経験をユーザーに提供していますが、ユーザーは一人の人間としてそれぞれを連続性をもって経験し、ある経験は次の瞬間の経験のベースとなっていきます。ケータイの経験はカーナビにいっても引きずり、それをもってクルマのコックピットデザインへの期待度が変わってきます

手元のiPhoneで瞬時にメールをチェックしていると、ノートPCの蓋を開け起動させ、ブラウザを開くなど二世代前の世界に思え、そのうちに全ての人はそうしたスマートフォンを持っているような錯覚に陥り、もっていない人を「不便な奴!」と罵ったりするのです。WEBや情報機器において期待されるローカリゼーションは認知的側面が強く、仮に高次元の満足度を与えた場合、このレベルのサービスに馴れ鋭くなったユーザーの感覚は、ハードを中心とした製品デザインにも適用されます。秀逸なスタイリングのノートPCのデザイン自体が古臭くみえたり、ケータイカメラに馴れると、ネット世界からは孤立している通信機能をもたないデジカメは「孤独感を漂わす」とそのユーザーの目には映るのです。

β版でスタートすることに馴れるには、もしかしたら洋服を変えないといけないのかもしれません。スーツにネクタイで企画9割完成させて肩肘はって一歩踏み出すより、カジュアルなファッションではじめるβ版的ゲリラ戦が歓迎される今ー歓迎というより、それでないとスピードについていけないー、この感覚の横断性はより強くなっています。だからこそ、統合的あるいは総合的イメージが重要視され、個人が前面に出るパ-ソナルブランドが構築しやすいーいわば生き方のレシピが世の中に溢れかえっているのは故なきことではないというわけです。

これがライフスタイル産業ーファッション、または食や日用雑貨ーへの注目度とリンクしてきます。日常をディテールに分割することは発想として、あるいは現実としてありえず、日常は全体としてしか掴みきれない。デザイン性に優れたインテリアと創造性溢れる食卓は当然リンクするしかないのです。リンクしないほうがおかしい。そして、それは言葉の表現の繊細さにも結びつく。やや遠回りしましたが、従来のローカリゼーション産業がライフスタイル産業により接近する必然性がここにあり、村上隆が英語翻訳に高い料金を払ってカタログを作成したことがNYTの美術評論での絶賛に結びついた一つの要因であると本人が書くように(『芸術起業論』)、思考と言葉への注意深い配慮をはずしてデザイン戦略は成立しないのです。こうした前提のうえで、抜群なスタイリング表現と併走できる世界ができます。全ての要素は必要不可欠であり、現在は、それらの間隙にあるエッセンスが見落とされるが故に全体系を作りえないことが多いと思います。

「世界を変えるデザイン展」のエントリーで書いたように、モノを介して文化を理解する大事さを知った人は多かったと思います。コンテクストの理解がまずありきであることが、あの展覧会で強調され、「そうなんだな。それって楽しい」と思った人は少なくなかったでしょう。これがローカリゼーションマップへの興味です。対象地域のユーザーのマインドマップを描き、それをベースにこちらの戦略を作る方法のヒントやノウハウを提供する。ローカリゼーションマップ研究会は、こういう道を作っていくことではないかとの思いをぼく個人、強く持ちつつあります。

Date:10/6/8

20世紀は肥満の時代といわれ、人が身体を動かさなくても用事がすみ、そのため肥満解消のためにジムに通ったりジョギングをすることが積極的に奨励されてきました。その原因は飽食を別にすれば特にクルマ社会に象徴されがちですが、郵便代や電話代を節約するために人の家を訪問することが動機として成立しない社会になっている現在、人が身体を動かすことの意味、身体を動かして移動することの意味は重要なテーマになっています。「どうして身体を動かさないといけないんだ?」という質問に答えられないと、非生産的な人間にみられたりします。「そんなのメールですませばいいのに」「Twitterで集合かければコストも安くてすむのに」という批判ともつかぬ冷淡な目に晒されながら、あえて身体を動かすのは何のためなのか?です。

その一方、ケータイ、スマートフォン、タブレット・・・と、身体を動かしながらでもコミュニケーション、それも世界中の人々と交信可能なツールはどんどんと発達してきています。あたかも身体を動かすのが前提になっているがごとく。しかし、反対の極論をいえばベッドで寝ながらでも1万キロの彼方とコミュニケーション可能な環境が作られているのです。「メールで交信しているのに、メールでは失礼だからと電話をしてくる人がいるが迷惑だ」と言われることが珍しくなくなっていて、名刺にもケータイ番号とメールアドレスあれば十分。いや、名刺も不要でネット検索やソーシャルネットワークの何処かにコンタクトが記載されていれば問題なしとなりつつあるなか、ホリエモンが苛立つ様に「どうしてiPhoneのバッテリーチャージャーをオンラインで売っているというと、『オンラインだけですか?』と聞く人が少なくない。なぜなんだ?」という状況もあります。動機もないのに動く非生産的な人たちの多さ・・・。

昨日、建築学会建築事業委員会が開催しているカルチベートトークに参加しました。講師は東大都市工学科で交通工学を教えている羽藤英二さん。移動の数理分析が専門の方。(参加していた早大の学生さんのまとめがブログにアップされているので、詳細はそちらを参考にしてください→http://ameblo.jp/ry-utabou/entry-10556977630.html) 基本的に人間は移動する存在であることが定義されています。人が移動しない存在であるとは定義しずらいでしょうが、今の世界をみていて、移動が大前提になっていると考えてよいのかどうか、まずこれがぼく自身の第一の疑問でした。意味を問われないで移動することが正当化されるロジックとは何なのか?健康や気晴らしのための散歩は、その理由付けをする時点で本来の人の行動として不自然です。目の前にきれいな公園があるから散策に出ようと思うのか、自然に接したいという本能を満たすために公園に出かけるのか。つまり、どこまでを本能的な行動として生産性の枠外におくか、どこからを生産性の問題とするか、これが面倒ではあるが整理しないと生きづらい世の中になってきたのです。

これは自家用車について顕著です。CO2を排出する内燃機関の自動車、それもパーソナルカーに乗る理由はより厳しく問われるようになりました。もともと社会悪的な側面をもつ存在であったクルマですが、これを散歩と同じように楽しみに乗る。それも海辺や山ではなく都市内で利用する場合、明らかに散歩を非生産性の枠外におくようにはクルマを枠外に置きにくいロジックが強くなりつつあります。しかし、およそ過去を振り返れば、都市計画者にとって公共交通は許せても、パーソナルカーは馬車の子孫とは認めたくない。自転車はいいが、できれば「クルマは始末すべき」とみられがちでした。羽藤さんは、20世紀の都市はクルマをどう入れ込むかが大きなテーマだったといいますがーこれが恐竜的な巨大社会を構成したー、これは意地悪く見ればクルマを厄介ものであることを前提にした議論であったといえます。

いずれにせよ、羽藤さんは恐竜型からヒューマンスケールの哺乳類型へ移行しつつある都市のあり方を唱え、その一つとして、鉄道ー自動車ー自転車ネットワークがいわば幸福の絆を築けるようなモビリティ・クラウドー羽藤さんの言葉。MITではモビリティ・オン・デマンドという言葉を使うらしいーを提案しています。そして、それを後押しするのはスマートグリッドにおけるEVの位置づけです。ぼくも「2030年 EVで変わる社会とクルマを読む」というエントリーで書きましたが、エネルギーのバランサーという役割をEVがもつことで、社会的正当性をもちやすくなる可能性はあります。ただ、それだけでなく、パネラーである東大都市持続再生研究センターの阿部大輔さんも指摘していましたが、「ラストマイル」の詰め具合がポイントであり、郊外のあるポイントまでクルマできて、あとは公共交通あるいは自転車に任せるだけではモビリティ・クラウドは現実的には成立しないでしょう。そしてカーシェアリングというサービスの定義と意味が深く問われます。

これは同時にパーソナルカーの概念の大変換を促し、概念の変貌は実際EVを契機としてクルマの過去のマイナスを清算していくことで可能になっていくかもしれません。その文脈で、昨日の「移動ネットワークから都市デザインへ」という表題が狙った都市計画者と建築家の協業は、今後はクルマの企画者とデザイナーと手を結んでいくことの暗黙の了解を得たようにぼくの目にはー勝手にー映ったのでした。20世紀に手を結ばなかった非をお互いが反省した上で、当然、その方向に向かうべく世の中は動き始めていると思うし、今、クルマの側のほうがより都市に関心を寄せているとも見えます。お互いが手を結んで可能になることーそれは長らく停滞気味だったITS(Intelligence Transport System) がヒューマンスケールを視野に入れることで一気に現実性を帯びてくることではないか、とも考えています。

Date:10/6/5

昨日、日本に飛ぶためミラノの空港に向かう直前、自宅に一通の手紙がきました。差出人はパドヴァの警察。「えっ、出発直前に、なんだ、このややこしいのは!」と思いながら乱暴に封を切ると、昨年11月、パドヴァ市内で通行禁止の区域を走ったのを監視カメラに撮られたようです。11月のパドヴァといえば、「メトロクスの旅」で書いた、メトロクス社長の下坪さんと営業の片岡さんの3人でB-LINEに行ったときのことです。約 90ユーロ(約1万円)の罰金を払えというのですが、「この手紙が発行された12月15日から60日以内に振り込まないとペナルティを科す」とギョッとし たことが・・・。ご丁寧にも60日以内であって2ヶ月以内ではないと注釈もあります。しかし、手紙を受け取ったのは2010年6月4日。封筒の消印をみる と2010年5月4日! 思わず大笑いしてしまいました。

さて、航空会社選択には二通りのパターンがあると書いたことがあります。「JALのサービスに想う」です。

外国に出かける人は二つのタイプがあり、一つは「これから出かける国の雰囲気に飛行機から味わおう」という経験先行型であり、もう一つは「目的地に到着するまでは、なるべく自分の習慣を通したい」という経験先延ばし型でしょう。料金や乗り継ぎの便宜性という合理的レベルでの判断を別にすれば、上述の二つのパターンは一般的と考えてよいと思います。

この10年以上、欧州内でアリタリアを使うことはあっても、日本との往復はもっぱらJALでした。しかしJALは9月末にミラノと成田の直行便を廃止することになりました。それで新しい環境に早く馴れようと、昨日はアリタリア便に搭乗してみました。そこで、随分、JAL便と違うなあと思いました。まず第一に搭乗直前にチケットとパスポートを提示するところで、「ボンジョルノ」「グラッツィエ」と挨拶する日本人がJAL便と比較して圧倒的に多いのです。それは機内でも同じで、ワインではなくヴィーノという乗客が多いように感じました。要するにイタリア好きが多いのです。上の範疇によれば、経験先行型です。一人旅も少なくなく、なんとなくテーマがあってイタリアに行って来たという雰囲気をもっています。

実はミラノに長く住んでいる日本人は、こと日本との往復に関してはJALを使う人が多いーアリタリアの定時運行の確率の低さにうんざりしていて、日本に行くときくらいそういう苦労は避けたいーとの印象をもっているのですが、面白いのはイタリア人。JALを選ぶイタリア人はどことなく日本びいきの傾向があり、アリタリアに搭乗するイタリア人はその日本びいき率が若干下がるようなタイプが目に付きます。経験先延ばし型にカテゴライズされそうな人たちです。「日本に特に興味があるわけじゃなく、でも嫌いっていうんじゃないんだよ。ただ、移動は馴れた航空会社がよくてね」と。もちろんマイレージをもっている人が多いこともあるでしょうが、わざわざJALのマイレージカードは作らないのでしょう。

ぼくは、アリタリアの機上の人となりながらーなんと陳腐な表現!-出発前に受け取った警察の手紙のことを考えていました。全てがああだったら社会はまったく機能しないけど、たまに生じるにはたいしたことない。ぼくは、正直言ってイタリア的役所仕事の健在ぶりにホッとしました。EUの誕生以降、ITの普及とあいまって自由がききずらくなっているのですが、最後の管理に穴があるところに、市民が逆手をとる余地があるわけです。その痛快さに大笑いしたのです。これがイタリアの良さでしょう。愛嬌のある文化は結局は好かれる・・・・。

Page 1 of 20123451020...Last »