ミラノのアートフェアは規模、質から言ってイタリアで一番というわけではありません。トリノやボローニャにはやや劣ります。特に海外の有力ギャラリーの出展が少ないのが物足りなさとしてあります。アートフェアは個々のギャラリーのプレゼンテーションなので、アーティストの作品は断片的にしかみえず、ある作家の作品をより理解するためというより、どんな作品がマーケットに動いているのかという指針になります。
今日、2-3年ぶりくらいにこのイベント、MiArtを訪ねたのですが、いろいろと変化がありました。まず中国や東欧の作家の作品が圧倒的に減り、それも政治的な主張を前面に出した作品が少なくなりました。それと同時にスーパーリアリズムも一度ほどではない感じがします。経済的な変貌を背景として、投資銀行による勢いある買占めが減少した結果なのでしょうか。コンテンポラリーアートがむやみな動きではなくなった反面、モダンアートはマスターピース的な安定感のある作品が好まれている傾向があるようで、1950-60年代あたりの作品に人が集まっている風景がありました。

またイタリアという市場の特殊性があるのでしょうが、写真が非常に多いです。ただ、一時流行したリアルな風景を逆にヴァーチャル風に見せる技巧には飽きがきつつあるのではないかという感じもします。これは合成写真や映像アートにも同様に言え、近い将来には力を失うかもしれないと思われます。その一方で、クラシカルな写真の価値が評価されるという流れもあります。

下はヴェロネーゼの絵画に椅子を置いて、一人の人間がヴェロネーゼの絵画になかにジャンプして中に入ったという合成表現です。一番前にしゃがんでいる人間です。

次の作品はいまだ市場で億のつく作品です。アート市場の価格形成メカニズムに上手く嵌っているというべきなのでしょうか。

今まで触れたような合成写真やインスタレーションなどとは別に、いわゆるペインティングには必ず固定ファンがつきます。ある表現手段がブームになるということはありますが、基本的には、表現手段は二の次であり、作家とギャラリーの力量が幸運な関係を作り、それが市場に上手く乗るかということではないかと思います。

ここで家具デザインの世界へのアドバイスをアート界から得るとすれば、マスターピース買いが増えているように、ある商品の財産価値をより重視する傾向が強まるかもしれません。回転の速いものより、回転とはなるべく縁の遠い長期的に保有し、それが資産シートのなかでマイナスとなりにくい商品を求めるマーケットが良好という兆しがあるかもしれないということです。
→ デザインばっかり見るな!
プロテスタントの国は食事が不味い、カトリックの国は美味い、そう言われます。言われなくても経験的に知っています。北ドイツや北欧で美味い食事もありますが、フランス、イタリア、スペインと比べて、「いや、やはり北ドイツの料理のほうが美味しい!」と主張する方は、これを読まなくて結構です。味覚に普遍性はありませんが、あまりに感覚が違いすぎる・・・。とにかく、カトリック文化圏で料理に見るべきもの多いのはなぜか?を考えるのは、文化の枠組みに興味をもち知っていくうえで重要な指標になるはずです。それから、モンテナポレーネ通り9番地の刃物のセレクトショップ「ロレンツィ(G. Lorenzi) 」について書いたことを思い出してください。どうして日本の刃物は切れ味が良いのか?盛り合わせで求められる繊細さの違い、厨房で全てカットするシステム(日本)とプラス食卓でカットするシステム(西洋)の違い。レストランでも料理だけでなく、道具を巡る文化の発達史を知るヒントが得られます。

音楽を聴きに行くのもいいです。スカラ座でお洒落してオペラを観るのもいいですが、それだけではありません。オーケストラのゲネプロを見学するという手があります。何故、練習風景がいいのか? 「あれっ、このあたりすっきりしないなぁ、これでいいのだろうか」と思うパートを、指揮者が「駄目、駄目、ここは、そうじゃなくて・・・」と説明し、次に演奏するととても締まったりする。そういう現場を見るのがいいのです。あなたは「やっぱり、そうだったんだ。これは、ぼくの耳もまんざらじゃない」と思ったり、「そうか、そうなのか、それは発見だなぁ」と感心したりします。たとえ指揮者の言葉が分からなくても、実際に演奏される二種類の同じ音楽を比較すれば、ポイントが何なのかおよその見当はつきます。タキシードやドレスを着て演奏してみえる姿ではなく、GパンやTシャツを着て演奏する姿を眺めることは、単に外見上の違いだけでなく、音楽を作っていくリアリティに接することができます。完成されたレンダリングではなく、手書きのアイデアスケッチにエッセンスを見るのと似たところがあります。

→ どこでオーケストラのゲネプロを聴くか?
サローネの開催中、良い機会があります。4月23日(木曜日)の午前中です。スフォルツェスコ城に近いテアトロ・ダル・ヴェルメ(Teatro dal Verme - Via San Giovanni sul Muro, 20121 Milano - 上の写真はホール内です。場所の地図は一番下にのせておきます) で、その日の晩にやるコンサートのゲネプロが午前10時から行われます。ゲネプロは全て通しで演奏し、その後に、いくつかのパートだけをやり直すこともあるし、問題のあるポイントでストップさせてやり直しすることもあります。指揮者のやり方次第です。ある時、ドイツ人の指揮者が、モーツァルトを団員がイタリア的に自由に演奏するのを、どんどんやり直させ、見事にドイツ的になったことがあります。しかし、そのとき、イタリア人の団員たちの顔には「ウンザリ」という文字が・・・。表現で何を優先させるのかが分かる事例です。
23日の曲目は以下です。
ロッシーニ:ピアノのためのプレリュード・インオファンシフ
ハイドン:ピアノコンチェルト ニ長調
ヴィテッロ: モーツァルトの主題による夜想曲
モーツァルト: ピアノコンチェルト イ長調 K414
9時45分頃に着けば十分よい席が取れるでしょう。チケットはゲネプロのため僅か5ユーロ(約650円)です。

→ 文化文脈は展覧会の入り口で掴め!
デザイナーたちが何を考えているか? これを知ることが最初です。作品をみて直感で分かる人がいれば、それは超能力者に近いでしょう。夫婦でさえ毎晩枕を並べているのにお互いよく分からないというのに、どうして何も知らない人間の考えていることが分かるのか? 極論すれば、こういうことです。作品をみれば何となく分かった気になりますが、それがデザイナーの意図と全く違っていれば? それはデザイナーの表現方法に甘さがあるのか、見る側の理解力不足なのか、どちらかでしょう。しかし、デザイナーの表現方法に問題があったとしても、ここでデザイナーの考える方向を知っていれば、他の表現方法に成功している作品をみたとき、「なるほど、こういう考えをしている人が今は多いんだね、それにしても、このデザイナーの表現は的確なんだな」ということがよりよく分かるのです。
デザイナーで直接話すことができれば一番早いです。しかし、いつもデザイナーがそこにいるわけではありません。もし、その会場の入り口に「私はこう考えている」という時代認識あるいは社会認識が書いてあれば、少なくても、それを見逃す手はありません。コンセプトが書いてあれば、それを読むべきです。読まないより読んだほうが良いに決まってます。しょっちゅう会い、酒を飲みながらでもよく話し合う、そういう関係が長く続いている友人の作品に出会う。また、大好きなデザイナーの作品を時と共に生きている。その人達の作品がより面白いと思えるのは、作品のバックグランド、即ちデザイナーのことを良く知っているからでしょう。「ああ、あいつ、こういったな」「今度は、こう攻めたか」と思えるのは、デザイナーが社会にどう自分を見せたいか(どういうアウトプットを狙っているか)知っているからです。あなたが知らない見知らぬポーランドのデザイナーも、本当は、そういう風に興味をもって見て欲しいのです。

→ 暇そうなデザイナーと積極的に話せ!
でも、限られた時間の制約のなかで、そんな丁寧な見方は全てに対してなかなかできません。また、もちろん、自分なりの分かり方というのがあります。必ずしもデザイナーに自分を合わせる必要はない。が、せっかく文化のリアリティを把握するよい機会を前にしてそれをフイにするのは、あまりに非効率で不経済です。もし、どうしても入り口のパネルを読みきれないのであれば、そこに人が集まって読んでいることに気づき、そのように読んでいない自分は、あの人達よりここで獲得する情報量が圧倒的に少ないという自覚をもつことです。大きな読み違いをする可能性があることを自覚していることと、全くそういう自覚のないケースでは、サローネ後の感想に慎重さという意味で大きな差異が出るはずです。
昨年、フオーリサローネのイベントが500近くあったといいます。それを駆け足でなるべく沢山見るのではなく、ある程度の緩急をつけて見る。それはどういうことかというと、大勢の人達の見るトルトーナあたりで、人ごみをかけ分けながら見る一方で、ぼくが昨日書いたような人の少ない静かな展覧会をみつけ、人と話し、一人で考える、そういう時間を必ず確保することです。暇そうなデザイナーが考えていることが方向として間違っているのではなく、たまたま多くの人にみてもらう場所を確保するチャンスが得られなかったか、そういうチャンスをものにする積極性に欠けているのか、あるいは表現が苦手なのか、何らかの理由で大勢のなかにいないに過ぎない、ということが多いのです。「何を考えているか」という情報収集の相手としては十分です。