ミラノサローネ2009 の記事

Date:09/5/18

世の中に新しい価値を広めるのは、とてつもないエネルギーと熱が必要だということを、王宮で開催されている未来派の展覧会をみて再認識しました。昨年も今ごろ、未来派のジャコモ・バッラの展覧会がありましたが、今年のそれは、未来派にかかわる総合展です。絵画からはじまり、彫刻、建築、舞台美術、陶器、ファッション、写真・・・あらゆるものが対象になっています。飛行機からみた地上風景を描いた絵画をみて、人類が地球そのものを眺めたのも、思ったより時間がたっていないなと感慨にふけりました。

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20世紀の初頭、科学や工業技術が一気に急伸し、その現象に今と明日のリアリティを感じたアーティストたちが、それらを一気呵成に表現しきったのです。この展覧会には、もちろん未来派の宣言文が説明されており、その趣旨を読むと、1世紀を経た今に至っても心揺さぶられるものがあります。実は、これをあることの対比で、ぼくは語っています。4月22日のブログで書いたことです。今、新しい価値体系の構築のために、ヨーロッパは歴史編集作業を行っている。それと、レクサスのL-finesseのブランドフィロソフィーがユニバーサルに分かりにくい。この二点です。

世界すべての人が受け入れている概念は存在しないでしょう。民主主義はもとより、人権も危ないです。象徴的なのが、クリントン米国務長官が中国を訪問した際、経済苦境からの脱出を優先するために、今までさんざん第一条件として要求してきた人権問題をとりあえず脇においたことです。アムネスティが猛烈な反撃を加えたのは当然ですが、ぼくはこれをニュースで読み、「ああ、なんだ、人権は絶対的な価値じゃないんだ・・・」と多くの人の心に残ったであろうことを想像しました。

現ローマ教皇は10年ほど前、ドイツの大学で「キリスト教にとって脅威なのはイスラム教ではない。仏教である」と講演しましたが、自然を制御する存在としての人間が、危ういポジションにたっていることは確かです。それでは、仏教を背景とした文化が、ユニバーサルに通じる価値観や創造性の主導権を発揮できるか?と問うた場合、何十年の単位では無理ではないかと思います。それは可視的な価値観に重きをおかず、予定調和ではないなんとなしの調和に敬意を表する文化が、今までの西洋的価値体系を越えるのは、三桁に近い年数や、瀕死に近い状況で人々が「必要」を感じて方向転換を決めるしかないでしょう。

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こういうことを書かないといけないほどに、レクサスのL-finesseのフィロソフィーは、西洋的価値体系やユニバーサルな文脈にNOと言っているのだ、ということをトヨタのデザイントップはお分かりなのだろうか?と、ぼくは以下を再読して思うのです。多分、そういう覚悟はないでしょう。エンリコ・フミア氏は、その困難さを知った上で、非常に皮肉的な対応をしています。これで、本当にいいのでしょうか?

http://response.jp/feature/2005/1227/f1227_1.html

とにかく日本の土壌で勝負するという気持ちも戦略も理解できます。でも、それならば、日本の文化のユニバーサル性をもっとスタディするべきではないかと考えます。日本の独壇場を作るなら、西洋文化文脈ともっと組み込みがいい日本文化を認識するのが妥当です。それをしないと行き止まりです。これをぼくは非常に深刻な問題と考えています。世界でトップで日本の経済の屋台骨を支える企業の動向には、大いに目を光らすべきです。日経ビジネスオンラインの川口盛之助さんのD1グランプリに関する記事(下記)はいつものように面白いですが、我々は視点をずらし多数の視点をもてば、本道でももっとできることがあるのではないか? そういうことを考えます。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20090513/194513/

6月3日の日欧産業協力センターでのセミナーは、こういう点に対して突っ込んでみたいと思います

Category: ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之  | 
Date:09/5/12

ぼくのミラノサローネの見方を色々と書いてきましたが、6月3日、実際にお話します。千代田区一番町にある日欧産業協力センターでセミナーを下記要領で行います。日欧産業協力センターは経済産業省とEUのJVです。それでは6月3日にお会いしましょう。

日・EU フレンドシップウィーク欧州セミナーのご案内
欧州市場の文化理解とビジネスへの活かし方

日 時 2009 年6 月3 日(水)午後15:00 ~ 17:00
会 場 日欧産業協力センター
参 加 無料 言 語 日本語
5億人の市場をもつ欧州。その市場でいま、日本製品の存在感は低下しているのだろうか。それは、日本企業の欧州あるいは欧州文化への関心の低さと関わりがあるだろうか。このたび、日・EU フレンドシップウィークを記念して、欧州文化の再認識と、文化理解をビジネス・製品開発へどう活かすかをテーマにセミナーを開催致します。

概 要
孤立したガラパゴス諸島からの脱出方法
― プラットフォーム作りに方向転換する時代の文化理解 -

独自の生物進化を遂げた南太平洋のガラパゴス諸島になぞらえ、日本市場のガラパゴス化が言われるようになって久しい。日本では成功する製品が、多くは標準仕様の設定のギャップから、海外では悉く敗北する傾向にあることを指している。先行する発展が世界を引っ張ることなく逆に乖離を促してしまう。携帯電話の孤立性を表現するために使われはじめ、その他、ゲームソフトやカーナビなどが例にあげられやすい。しかし、残念ながら、この傾向はITや電機業界だけでなく、あらゆる分野にあてはまることを、あらゆる分野のエキスパートが指摘している。

‘70年代に日本の輸出力が高まり、MADE IN JAPAN が高品質のブランドとなったが、今からみると、そこにもガラパゴス化への分岐点はあった。高品質は肯定されるが、過剰品質は否定される。その問題に正面から向き合わなかった。高品質で多機能であることに普遍性があると思い込んだ。ここに陥穽があった。我々にとって良いものが、必ずしも隣人にとって良いものとは限らない。

一方、海外の国に目を向けてみると、ガラパゴス的陥穽に落ち込む危険が全くないわけではなく、同じようにその危険性はある。ただ、共通する文化土壌の広さや、常に隣人の存在を意識せざるを得ない環境があることが多い。米国製品や欧州製品がガラバゴス的とは言われにくい背景がここにある。すなわち、プラットフォームが共有されやすいことが有利に働いている。

プラットフォームとは基盤という意味で使っている。製品仕様ではソフトウェアがのるハード部分を指したり、ソフトウェアではオペレーションシステムを意味したりする。階層の下部構造である。プラットフォームの成功具体例では、スウェーデンのIKEA(家具)やオランダのTomTom(カーナビ)が挙げられると思う。

ここで我々は一つの仮説をたてた。ヨーロッパ文化には「普遍性への志向」という特徴があった。日本文化がどちらかといえば「固有性への拘り」が強かった。それが世界で普及するプラットフォーム作りを不得手にした遠因ではないか、と。したがって、何がユニバーサル文化か?何かローカル文化か? これらを把握するフレームをもつことが大切ではないか、と。

従来、ヨーロッパ文化は「北欧エコロジー」「地中海ライフスタイル」という範疇で扱われることも多い。ここではユニバーサル文化を推進してきたアイデアマンたちの考え方の土台とその今を知ることにフォーカスする。

プ ロ グ ラ ム
司会進行 安西 洋之 氏(ヨーロッパ文化部主宰:在欧ビジネスプランナー)

15:00 開会の辞 日欧産業協力センター 事務局長 塚本 弘 氏

15:05 「なぜ欧州ビジネスに文化理解が必要か?」
‘80年代後半の冷戦終結で文化が前面に出るようになったと言われるが、製品ビジネスでは電子機器のインターフェースの普及が、市場文化理解が求められる一つの理由となろう。また、プラットフォームを考えるにあたっても文化理解は必要になる。それもアカデミックな知識ではなく実践的な理解が大切だ。今年4月のミラノデザインウィークの事例なども示しながら、具体的方向を探る。
講師:ヨーロッパ文化部主宰 在欧ビジネスプランナー 安西 洋之 氏

15:45 「ヨーロッパのプラットフォームと日本文化」
江戸の賢人たちは、かなり西洋的合理性を理解していたと思われる。しかし、維新による歴史の断絶が「日本らしさ」とは情緒性や繊細な感性のみであるとの思い込みを生んだ。これがユニバーサルなプラットフォームを作りにくくしている。ヴィジョンのあり方や作り方のヒントを考えていく。
講師:元上智大学教授(社会学) 八幡 康貞 氏

16:25 質疑応答

17:00 閉会の辞 日欧産業協力センター 事務局長 塚本 弘 氏

講 師 の 紹 介
安西 洋之
ビジネスプランナー:1983年、上智大学文学部フランス文学科卒業 いすゞ自動車勤務後、1990年よりイタリア在住。2000年 日本と欧州のインターフェースとしてモバイルクルーズ株式会社を設立。自動車、建築、デザイン、ユーザビリティなど多岐の分野に関与してきた。ブログ「ヨーロッパ文化部ノート」(http://european-culture-note.blogspot.com/)「さまざまなデザイン」(http://milano.metrocs.jp/)で広義のデザインのあり方を探っている。

八幡 康貞
社会学者:ミュンヘン大学博士課程で社会学を勉強後、15年以上ドイツにてジャーナリスト活動や研究を行う。帰国後、日本大学国際関係学部助教授,上智大学比較文化学部教授を歴任。その間(1992-1997)ザンクトガレン大学,チューリヒ大学,ハレ=ヴィッテンベルク大学客員教授。現代欧州を多角的にフォローしている。

申 込 み
申込用紙にご記入の上、FAX(03-3221-6226)またはEmail(seminar@eu-japan.gr.jp)でお申込みください。申込み受領後に受講書・会場地図をお送りいたします。
氏名
会社
部署
役職
Tel
Fax
Email
業種
<問合せ> 日欧産業協力センター TEL : 03-3221-6161 Fax: 03-3221-6226 (担当:樋口・宮本)
※ご記入頂いたお客様の情報は、適切に管理し、本セミナー運営のために利用いたします。

Category: ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之  | 
Date:09/5/3

このシリーズで色々と辛らつな意見も書いていますが、誤解なきよう目的を再度書いておきます。ミラノサローネを通して理解するヨーロッパ文化動向が狙いですが、それはヨーロッパ人とビジネスをする、あるいはヨーロッパ市場を攻略する、そのためのヨーロッパ理解です。ヨーロッパを着飾り気取るための文化理解ではありません。その点、ご注意を!

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昨日、「ミラノサローネ2008」で作品を紹介したコンテンポラリーアートの廣瀬智央さんと会ってサローネについて話し合ったのですが、アーティストの目からみたサローネの感想の一例としてご紹介しておきます。

サローネを見ると何か物足りないものがいつも残るんです。これは僕なりの感想なので一般的に当てはまらないかかもしれませんが。特にデザイン製品そのものを見せるような展示ではなく、フオーリ・サローネなどで展開されている各企業なり、作家が表現しているデザインイメージとして提示している展示の話しなんですけど。インスタレーションで表現している空間や作品が、何かデコレーション的な美しさにだけで終わってしまっているような感じで、その先のメッセージとかがいつも伝わってこないんです。「美しい」作品以上に、「美し過ぎる」作品が多いでしょう。それに、アートですでに表現されているような作品の焼き直しも多いでしょう。デザインとして割り切って見てしまえば、それはそれで良いのかもしれませんが、アート作品として見ようすると、どうにも何か物足りないものを感じてしまうのです。

その物足りなさは何か?どのような見方をするかで変わますが、職業上どうしても展示作品をみると、表現している人のメッセージなり精神性を読もうとしてしまうのです。やはり、企業の依頼やその都度の展示の一過性でインスタレーションが制作されているが故に、作家のメッセージ性とかがどうしても弱くなってしまうのだと思います。アートの場合、一生かけて人間の悩みとか、生きる上での問題とか、逃れられない性とか、自身のリアルな世界をとおして、どうしようもないモチベーションから作品が創られて行くゆえに、作家の精神性が反映されざるをえないんです。自身をしっかりと見つめて行くことでしか表現できないから、どうしても作品の背後にある精神性が見えざるをえないのだと思います。アート作品は目の前にある作品そのものの他に、その背後にある精神性を観客がリアルに感じた時に感動するのだと思います。生きていくうえで我々が抱えている問題は、もっとドロドロした欲とか人に言えないような醜さで、そうした世界が「美し過ぎる」訳がなく、ほんとうは人は人間の持っている醜い部分がもっと見たいのだと思います。

そう考えると、デザイナーが表現する作品の精神性やメッセージ性は、デザインされた作品そのものに反映されてくるのであって、デザインされた作品を見せるためにアレンジされた一過性のインスタレーションの方には反映されにくいのだと思います。ですので、サローネでは、中途半端のインスタレーションを見るよりも、単純にデザイン作品そのモノを見た時の方が、素直に感動したりします。

もしかしたら、デザイン作品のためのインスタレーションにそのような見方自体が不要なのかも知れませんけど。デザインとアートのどちらが優位とか言う話しではなく、そうした作品が生まれる迄の精神性がいかに作品に反映されているかということで、視覚的に同じように見えるような作品でも、伝わるメッセージ性の強度が変わってくるのだと思います。それゆえにフオーリ・サローネなどで展開されているインスタレーションがなにか中途半端に感じて、物足りなく感じるのだと思います。もしかしたら、デザイナーの方からみても中途半端に感じるのかもしれませんけどね。

西洋では、ハイアートとローアートの世界か明確に分かれていてますが、ここ4~5年ぐらいから、デザインや建築、アートの境界がくずれて、クリエイティヴの新しい可能性を探る展覧会が世界各地で行われています。逆に日本ではハイアートとローアートの世界がゴチャゴチャになって、それが独自のオリジナルな文化を形成していて、そこに日本のオリジナルがあると西洋の人は見ています。それにしてもどのような作品であろうとも、作品の背後にある作家のメッセージ性は、常にとわれていると思います。デザインは、人が生活する上でのコミュニケーションとしての役割を持っている以上、何らかのメッセージ性は作品の強度につながるのだと思います。

廣瀬さんは、「キャノンのインスタレーションでも、人が寄るとクラゲが集まるだけでなく、あそこで実際にクラゲを手に取れるようなところまでいけば、違うんだけどな・・・」と語ります。ぼくも彼のインスタレーションに対する不満を共有していますが、最近のセンサー技術が逆に不足感をより作っていることもあると思います。視覚以外の感覚をどう感知してより重層的なインターフェースを形作るかがテーマになっていますが、まだ熟成したレベルには達していません。結局、「ああ、あのセンサーがぼくのほんの一部を見たのね」という感覚がどうしても残ってしまう。だったら、視覚レベルでもっと刺激的な見せ方ができるのではないか?という疑問を抱かせてしまう。それが不足感や欲求不満を促進してしまうのではないかとも思います。

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レクサスのインスタレーションですけど、いつも残念に思うんです。サローネに出品している日本の多くの企業は、うち向け、つまり海外展開のためのプレゼンテーションではなく、日本国内にむけて、我が社はサローネに出品してデザインを重視した展開をしてますよ、みたいな感じの所が多いのだと思いますが、レクサスは、むしろ海外展開を真剣に展開している訳で、そのためのサローネでのインスタレーションですよね。もう少し、うまく見せられないかな~とやきもきしてしまいます。

ハイエンドユーザーの車として、レクサス良い車なんですけどね。アメリカではすごい人気でステータスですけど、残念なことにイタリアではあまり知られていないような気がします。実際に僕のイタリア人の友人は、レクサスを知らない人のパーゼンテージが多いし、サローネのインスタレーションを見ても何がいいたいのか分からないという意見が多くありましすね。もしかしたら、ブランド力をあげた上で、あのようなイメージインスタレーションは有効かもしれないけど、レクサスを知らない人にあのようなインスタレーションをみせても車としてのレクサスのそのモノの存在さえ、うまく伝わっていないのではないかという気がしてなりません。

なので、僕の解釈では、レクサスの哲学イメージからブランド自体をしっかりとアピールし、高級イメージを展開するための、あのようなインスタレーションをしているのだと思いますが、その方法が何か中途半端になっている気するんです。いつも高級イメージを展開するためのインスタレーションの美しさは充分にありますが、美しいだけで終わってしまい、レクサスの車のもつメッセージやメッセージ性をうまくに伝えられていないのが残念です。

たぶん、レクサスの哲学が難しすぎて分かりにくいこともあり、それが中途半端な方向にいっているのかもしれません。レクサスの哲学を読んで、日本人である僕もよく分かりにくいので、こちらの人がレクサスの哲学を読んでももっと分からないと思います。アップルがあのシンプルで分かりやすいコンセプトやプレゼンテーションで世界を圧巻している様とは非常に対照的ですよね。もしかしたら、レクサスには、インスタレーションの展開云々の話し以前に、アップル的な分かりやすさが意外に必要なのではないかと思います。

要するにリアルな文脈を踏まえた、どれだけのレクサス体験があるかを十分に考慮したインスタレーションとは思えないというわけです。デザインのコンセプトを伝え、レクサスのブランドを定着させるという意図が感じられない。ただ、その前に、レクサスのコンセプト自身がもう一度練られるべきではないかという点は、大切なことだと思います。

そういえば、ちょっと話がずれますが、サローネでMolteni & Co. のスタンドでみた収納家具に対する見学者の熱心さは印象的でした。とくに扉の開閉システムを自らチェックする人達、それを色々なアングルから撮影する人達、十分にコミュニケーションできているなあと感心したシーンです。

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Category: ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之  | 
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