ミラノサローネ2009 の記事

Date:09/6/1

先週木曜日の晩、東京に着きました。職人全員マスクをする戒厳令のような空港を駆け抜け赤坂見附のホテルに入り、雨の中を向かったのはラーメン屋。無性にラーメンだったのです、気持ちは。

翌日昼食、スペイン人と会ったのですが、彼が指定したのは麹町のイタリアレストラン。地下にあるそのレストラン、日本人のスタッフは誰もおらず、公式言語がイタリア語。日本人が「ボンジョルノ」と挨拶する場所は数知れず、しかし、日本語が通じないレストランとは、「またやるな~」と驚くやら感心するやら・・・。味はさすがで、イタリア色120%。

さて、夜は六本木ヒルズのヒルズアカデミーでのライブラリートーク。会員限定で70-80名の参加者だったのですが、デザイナーや建築家の方も参加者のなかにいるのは、話しながらだんだんとわかってきたのが楽しいです。ある部分で頷かれる、そこに共通しているものを感じます。「この方はデザイナーだろうな~」と思っていたら、後の名刺交換でそうと判明。もちろん、全員100%正解かどうかは分かりませんが・・・。話した内容は、このブログでも書いたことが多いのですが、ある結論を導くように話さないといけないだろうなと思い、その道筋の明確化に気を使いました。あまり説明過剰になると弁護的になるので、あるところは誤解される危険を承知のうえで強行突破(?)することにしました。

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要するに、自分が伝えたいことを伝えるに、どこからも「刺されない」ロジックというのもありえません。「刺されたとき」に追加説明するしかないだろうということです。それにしても、正直言うと、パワーポイントは嫌いです。何かパワーポイントに支配された感じで自由を失い、自分の言葉が先に来ないような気がするのです。原稿をなぞる、それは力を何か喪失するような気がします。でも、デザインで文化の話をするというのは、目でわかるからこそです。そこに意味があるので、画像ははずすわけにはいきません。バランスだなあと思います。それでも、抽象的な表現をまったく使わないということはできず、それをどう具体例にひとつひとつ置き換えていくか? それが課題だなと反省しました。

翌々日の日曜日、友人の「夜回り先生」水谷修さんの講演を聞きに行きました。実は初めてです。30年近くつきあってきて、彼の塾や学校での授業は聞いたことがありますが、彼が「夜回り先生」になってから、講演を聴いたことはなかったのです。年間3-400の講演を行っているだけあり、さすがにすべてがパーフェクトです。聴衆を引き込んでいくプロセスがぼくにもよく分かり、「うまいもんだなぁ」と思います。まったく原稿がないなかで、秒分単位でストリーが仕組まれているのが見えます。それで90分ジャストで終了。

講演の後、新宿で天ぷらをカウンターで食べながら、聞きました。「パワーポイントって使わないのですか?」と。「いや、使わない。あれを使うと、話に迫力がなくなり、ダイナミックに訴えることができなくなる。使ったとしても、ホワイトボードに字をちょっと書くだけ。それが教師というものだ」とバシッといわれ、教師じゃないぼくは、教師がとてもうらやましい存在に思えました・・・・。ぼくも、パワーポイントは必要な場所だけに限定する工夫をしていこうと思います。

Date:09/5/27

前回(51)で書いた続きです。6月3日の日欧産業協力センターでのセミナーの社会学者の八幡さんとのディスカッションポイントです。

文化変容とは、その文化の「必要性」によっておこるのです。そして、必要とは合理性なのです。

重要な点はここです。日本の文化の自己定義で、「ディテールに強い、あるいはコンセプト作りに弱い」と言う傾向にありますが、これは必要性がなかったから弱かったと認識すべきなのです。ヨーロッパは世界観の構築に優れているとするなら、それはヨーロッパの近代の歴史が、ヨーロッパの人達をして世界観を考えざるをえない状況が続いたがために優れているとしか説明しようがないのです。今の「日本のものづくり再生」の論議を見ていると、日本文化をとても狭く見積もっています。品質だ、すり合わせだ、磨きだ・・・と。これらが強いのは、キャッチアップするのにその方法がベストだったからであって、コンセプトや世界観を作る必要性がなかったのです。

論理だ、ロジック、合理性だというと、数理哲学的な領域に入るのではないかとか恐れ勝ちなのも判断ミスを招く原因で、ここで言っているロジックというのは、日常的な生活で当然必要なレベルのロジックです。日本でも昔から「理(ことわり)」という言葉がありますが、それです。ぼくたちは言葉を使ってコミュニケーションをとっている以上、犬が吼えるように言葉をしゃべるということはありえず、そこには何らかのロジックが絡んでくる。これです。ヨーロッパはロジックを重視するというのも、そういうことであり、やや考え方のプロセスの違いがあるにせよ、基本的に通じ合えない世界ではないのです。これがユニバーサルです。

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言葉以外の世界を重視する、あるいはそこにより深い世界があるという考え方は、無文字社会において強いと言われ、無文字社会でなくてもアイルランドや日本の文化にその傾向をみることがあります。文化のプリミティブなレイヤーの質に上下をもつというのは変な構図であるというのがぼくの印象ですが、そのレイヤーで勝負をしよう、そこにブランドのコアをおこうというのは、考えてみれば、他の文化にとって随分と失礼な話です。いずれにせよ、長い歴史において、「分けが分からない」というのは、それ自体でブランドになることがある -例えば、ヒッピー時代のインド哲学 - と思うのですが、ヨーロッパにおける日本の文化も、それに似たところがないとは言えません。それに惹かれる層や世代があるのは事実ですが、マスプロダクションのメインストリームにはなりえません。マニアックなニッチな世界で良いのなら別ですが、それでもまず、メインストリームがあってのニッチです。この地図がちゃんと認識されていないといけません。ぼくが『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』でも書いた、ハイカルチャーとローカルチャーの区別が残るヨーロッパ文化の特徴は、こういう側面からも効いてきます。

急いで話を最後にもっていくと、ビジネス活動におけるユニバーサルとは、もっと柔軟性の高いもので、文化の固有性から離れたものです。即ち合理性に基づいていることを最優先すべきで、その点において、日本人デザイナーや企業が、自分の道を狭める必要は全くないのです。それにプラスして、日本的テイストが付加すればより売れる商品の場合、 -イケアがスウェーデン家具と文化を使っているように - それをコンセプトの上に搭載すればいいのです。パヒュームのためのフランス文化もそうです。

今日、これからミラノを発ちます。金曜日に六本木でトークショーがあり、そこでも、これに近い話をしようと思っています。

Category: ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之  | 
Date:09/5/22

先週「ミラノサローネ2009の見方をお話しします」というエントリーで書いたように、6月3日、都内、日欧産業協力センターでセミナーを実施します。そのために現在、内容の詰めを行っているのですが、ぼく自身の頭を整理する目的もかねて、ここにお話しする内容を整理しておきます。まず、全体構成として、ぼくの話、社会学者の八幡康貞さんのレクチャー、そして質疑応答も含めた二人でのパネルディスカッションを考えています。

それでぼくの話ですが、ヨーロッパ文化を知る目的を明らかにします。これは何度も書いているように、何かを学ぶという態度でヨーロッパ文化を知るのではなく、ヨーロッパ人と一緒にコラボレーションしたり、何かを売るための文化理解です。これが大前提です。ヨーロッパの教会の見学し、「宗教が分からないと、絵画も飽きてしまいますね」という人達が多いですが、それを飽きないための文化理解ではない、ということです。それらを知っていれば知ったに越したことはないですが、それはセミナーの目的ではないです。次にここでいう「文化」ですが、これは文学や美術などのハイカルチャーやサブカルチャーを指すのではなく、文化人類学で使う人間が行う外面的及び内面的な行動全てです。「生きるための工夫」です。

それでは、何故、あえて文化理解が必要というのか? 一つは、1989年秋にベルリンの壁が崩壊し、1947年以来の「鉄のカーテン」が取り払われ、二つのイデオロギーの下に隠されていた文化が、国際政治上でも前面に出てきたことです。そして、アメリカを極とした経済のグローバル化を補完する概念としてのローカリゼーションの必要性です。かつ、このローカリゼーションは、それまで市場の好むカラーや人間工学的側面に焦点をあててきましたが、1990年代以降のネットや携帯電話その他の電子デバイスの普及で、ユーザーの考え方の違い、即ち認知科学的側面にも注意を払う必要がでてきました。そして、これらが十分に配慮されていないと、カーナビのようにユーザーや周囲の人間の生命を危険にさらす可能性が高くなったのです。また、このインターフェースへのセンシビリティが、従来の意匠レベルでのデザインへも影響する、いわば心象風景の変化がでてきています。文化というと、やや気取ったものとして扱われたり、文化交流というと異文化との長期の関係向上がイメージされがちですが、今、ぼくたちが直面している文化的現実とは、もっとシリアスです。

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その次に、ヨーロッパ文化に入る前に、日本文化についてサマリーします。ヨーロッパ文化にリアリティをもつためには、自分がよく知っている日本文化をまず大筋で整理するのが、比較文化的手法として有効だと思います。そのために、いくつかのポイントを指摘します。例えば、ディテールから積み上げで全体像を作る、あるいは普遍的志向性より固有性への拘りが強い、こういった点を挙げます。これらのステップを踏んだうえで、初めて、ミラノサローネにおける日本企業や日本人デザイナーの展示に対する見方に話題を移します。それらのなかで、特にレクサスは少々時間を割きます。L-finesseのデザインフィロソフィーの問題点を指摘します。米国ではメルセデスと同等の戦いをしながら、欧州ではメルセデスの10分の1以下の売り上げしかとれない現実と、このフィロソフィーがどう関係しているのか?という点を仮説的に触れます。

一方、ヨーロッパの会社の例では、スウェーデンのイケアを取り上げます。どんなに美しいデザインであっても、それは金額があって、はじめて総合的な判断ができるというポジションがイケアにはあります。よくレストランの味は自分のポケットマネーで食べて初めて分かるといいますが、ぼくもこれは真実だと思います。すべからく、経済的な位置も含めて、デザインの良し悪しを判断するところに意義があると考えています。純粋な美的判断という世界もありますが、ことデザインの世界において、それはメインストリームではない。あるいはメインストリームたりえない。その点にデザインの現実があると思います。

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話のテーマはユニバーサルとローカルですが、レクサスやイケアの対比で分かることはユニバーサルに視覚や言葉で表現しきれるというのは、コンテンツが定義するのではなく、コミュニケーションの結果なのだということです。L-finesseは、視覚や言葉の世界に背を向けたような印象を与え、言葉にならない世界の調和を目指しているように見受けられます。それをぼくは大いに疑問に思うのですが、仮にそれを良しとする場合、それではコミュニケーションはどこにあるの?ということになります。ユニバーサルというのは、言葉で理解できること、それもお互いに言葉を長い間交わして得た合意、この全てです。こうした苦労を経てヨーロッパ市場であるポジションを獲得したのが、コンテンポラリーアートの村上隆であると考え、彼の戦略について語ります。

何か、ある決まった内容はユニバーサルではない、そういうことはありません。文化変容とは、その文化の「必要性」におこるのです。そして、必要とは合理性なのです。

寿司、ケバブー、パスタ・・・・これらは、文化が好まれて世界中の人に食べられているのではなく、「軽い」「ヘルシー」といった合理性が市場に受けいられた第一要因であり、それぞれの文化は後からついてきています。だからといって文化を無視していいということではなく、上手くユニバーサルなレイヤーの上に載せることが重要です。イケアはその点でも参考になります。日本の例では、ソニーのウォークマンが合理性と世界観の提示で世界に普及しましたが、今、ぼくが注目しているのは、頓智・のセカイカメラです。まだ市場でビジネスがはじまっていませんが、新しい世界観の提案という意味で期待しています。

以上、こんな感じですが、この続きは次回書きます。

Category: ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之  | 
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