メトロクスものがたり の記事

Date:08/12/8

デザイナー達と話しをして、我々は50年代から70年代の空気や考え方について、ある実感をもって知ることができました。人の語る過去は美化している部分、整理しすぎた部分、そういうことが沢山あるのは承知していますが、それでも、メーカーがロイヤリティを約束とおりに払ってくれなかった話などになると、まさしく今の問題のように喋ってくれるものです。

およそのところ、どんなクリエーターもそうであるように、過去の自分の作品を振り返ることにさほど関心のない様子をみせますが、一度製作当時のことに想いが届くと、まったく違った顔をみせてくれます。その瞬間をみると、我々も「同時代性」をリアルに感じるのです。

さて、話をビジネスに戻しましょう。直接輸入商品が事業の核になってくると、経営面からのリスク分散を考えないといけないことになってきます。輸入はオーダーから入荷、そして販売までのリードタイムが非常に長いです。売上げ金を実際に手にするまで、3-4ヶ月はかかります。為替変動もありますし、リードタイムが長いと、どうしても社内で柔軟な対応がとりにくくなります。

もう一つの車輪をもっと大きなものにしないといけません。もう一つの車輪とは国産品です。セルシステムやプチデスクのようなロイヤリティ生産では不足している部分、これをどう補完していくかがテーマになってきます。

Date:08/12/5

東京店のための不動産物件探しも楽ではありませんでした。当初から天井の高い空間であることに拘りました。必然的に倉庫や工場跡が候補になり、羽田空港の近く、あるいは木場の倉庫街などが考えられました。良いモノが良く見える場所である必要がありました。しかし、大型トラックの排気ガスが蔓延する道路を、徒歩でおいでいただくお客さんの気持ちも考えないといけません。紆余曲折のあったなか、今の新橋の物件が見つかったのです。元ダンボール工場です。

愛宕警察の裏にあたるこの地域、家具を作る小さな工場が多かったことは後から知ったのですが、高い天井と何となく昔の匂いが残す町並み、汐留や芝公園に近いという地の利、こういう要素が全てメトロクスの味方をしてくれるだろうと下坪さんは考えました。インテリアショップが軒を連ねる場所に安易に引き寄せられなかったのは、彼の意思の強さだと思います。

2003年、もう一つ新しい試みをスタートさせます。‘50-’70年代に活躍したデザイナーへのインタビューです。その時代のデザインを扱っていて、それを考えたデザイナー本人の生の声を聞いておきたいという欲求が強くなってきました。それもどこの雑誌や本でも取り上げているデザイナーではなく、作品自体は有名だけど、デザイナー本人があまり外に出ていない。そして、メトロクスが扱っている(あるいはこれから扱いたい)製品をデザインしている人、こういう条件のもとにはじめました。

一年に二人ずつ、インタビューを開始しました。トップバッターはMH WAYの蓮池氏、そしてプリアチェアのジャンカルロ・ピレッティ氏、ジョエ・コロンボの右腕だったイグナチア・ファヴァタ氏、フランス工業デザイン界のヒーローだったピエール・ポラン氏、パリのオルセー美術館の設計も担当したガエ・アウレンティ氏・・・と続きました。我々がここで得たものは、想像以上に大きなものでした。

Date:08/12/3

モダニカ札幌を運営しながら、下坪さんが好きなヨーロッパのデザインを扱いたいと強く思っていた‘90年代半ば、パリの蚤の市で一つのデスクと出会います。もともと下坪さんはデスクに惹かれるようで、オリベッティのデスクとは’90年代前半の米国買い付け時代に出会っていました。今もイタリアのアンティークショップでデスクを見つけると、目がキラリと輝くのが下坪さんです。

このパリで買ったデスクは1956年、米国のネルソンの影響もうけたピエール・ポランがデザインしたものでした。‘60年代以降、非常に有機的なデザインを始める前の直線ラインが印象的な作品です。2002年、メトロクスはこの作品を日本で生産することを検討し始めます。これまでの輸入ビジネスから一歩進んだ、ロイヤリティ生産する初めての経験です。

ぼくはポランの連絡先を探し出し、ポランが指定したパリの弁護士との契約協議のために、下坪さんと二人でパリに向かいました。そこで我々が特別に依頼したポランのサインをデスクの一部に入れたいという要望が、引き出しの中ならOKという形で受けいれられたのは、嬉しい思い出です。ポランはとても控えめな人柄で、目立つことをあまり好まないのです。

2003年は一つの重要なイベントがありました。それは東京店のオープンです。これまで札幌を拠点としていることで良いことがありました。東京の多くの同業者と直接対峙することがなかったのです。常に協力関係でした。また、タイムリーなことばかりにエネルギーを費やさず、東京人と違うリズムで生き、違うモノをみることにより、違う考え方を維持することができるというメリットがありました。しかし、更なる成長を見込むには東京への出店は不可避な時期にきていました。

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