僕自身の歴史を話します の記事

Date:08/6/20

トリノの会社らしからぬ事務所は、F1やサッカーなどのスポーツビジネスをスタートしはじめた頃でした。スポーツは好きですが、スポーツビジネスはぼくの目指す世界ではないことは、自分でよく分かっていました。そういう世界がどういうものなのか、知っていることが大切ですが、そのなかに生きるのはぼくではない。そして、スポーツ関連にリンクする場合のコネと勘があればよいだろうと思っていたのです。宮川氏には「本当に好きなことをやれ」と言われていました。好きなことというのは、何かのために実際に体を動かし、そのプロセスのなかで分かってくるものだ、ということにおぼろげながら気づき始めていました。頭のなかで「これが好きだ」と決めつけるものでもなかろうということです。

ぼくは都市計画に興味がありました。が、その世界の人間を知ったからと言って、そこで何らかの仕事ができるはずもありません。それには小さな規模のビジネスも成立可能な建材やインテリア商品の輸出入で、現実を知っていくことからはじめるのが良いのではないかと思いはじめました。しかし、実行に移すのは遅く、そのまま「卒業」の時期がきてしまいました。卒業までのビジネスプランナー修行は2年の予定でしたが、結局は3年半でした。多くの人と知り合いました。その間、いくつかの企画を試みはしたものの、自分でゼロから生み出したビジネスはありませんでした。実施に至ったのは、他人の発案にのったものが大半でした。やはり、ヨチヨチ歩きから野武士になるには時間が必要だったのです。

結局、尻に火がついて、現実がより見えてきます。それまでは自分が見えていたと思った現実は、すべて宮川氏に守られた世界でした。イエローページでトリノの建築事務所の住所を片っ端から調べ、およそ100通の手紙をダイレクトメールとして送ったのは、1993年の後半だったと思います。手紙は、「建築分野で日本とイタリアが協力しあえることは何か知りたいからリサーチに協力して欲しい。そのために一度伺いたい」という内容です。イタリア人の親友にイタリア語の文章を直してもらい、どのようにアプローチすれば心がつかめるかを教授してもらいました。。

rb8

手紙が届いたタイミングを見計らって、それらすべてに電話をかけていきました。「手紙をお送りしたのですが、読んでいただけましたか?一度、お会いしていろいろと話し合いをさせていただきたいのです」と。「そんな手紙、もらっていない」「忙しくて会えない」という冷たい返事が多いなか、20軒程度の事務所とのアポイントが取れました。他の人が知らない、ぼくしか知らない世界を作っていくには、こういう方法をとるしかない。それがぼくの宝になっていくのだ。そう考えたのです。これで一歩踏み出したという実感をもちはじめました。

1988年に宮川氏に最初の手紙を送ってから5年の年月を経ていました。

Date:08/6/19

文化センターに首を突っ込みはじめた次の年、つまり91年のいつ頃かスーパーカーのプロジェクトにも足を踏み入れることになりました。ジュージャロのデザインした車です。ダブルキャノピーのこの車を1億円という価格に設定したのはバブル経済の賜物でした。F1パイロットの中島悟が乗った宣伝などで記憶にある人も多いと思いますが、とにかくヨチヨチ歩きのぼくも、この車の仕上がりをチェックすることになりました。

宮川氏から車をみてくれと言われたとき、ちょっと逃げ腰になりました。いくら欧州メーカーのスポーツカープロジェクトに関わったことがあっても、ぼくはビジネス畑です。それも、組織のなかの一パーツです。「それは品質検査あるいは実験・評価の人たちプロの仕事だろう」と瞬時に思いました。そんなぼくが見ても・・・と正直迷いました。自動車メーカーにいたからなお更そう反応したのでしょう。

rb6

もちろん、この車を作っているカロッツェリアの品質管理の人間も見るし、ちゃんとテストドライバーも走ります。しかし、ユーザーの目で見ることも大事なんだ、と。ぼくは1億円の車なぞ買えるユーザーではないですが、「君の目と触覚で判断することも大切なんだ。自分自身の目で見る、それがいいんだ」と言われたのです。

1億円の価値がどこにあるかを考えながら、一台一台出来上がった車をみました。誰の目でもない、まさしくこのぼく自身の目で直接みる意義あるいは大切さを知ったのは、こういう経緯を契機としていたのではと今にして思います。それまでのぼくは「職務分担された自分」ではなかったか・・・と考えるのです。

Date:08/6/18

1990年3月にトリノに来たぼくは、何をしていてもいい言われ、毎日ブラブラしていました。昼間からカフェでビールを飲んで、明るい日差しのもとでボンヤリとバロック建築の街並みや人を眺めていたり。その年の秋頃でしょうか、突如、何かをやりたくて仕方がなくなったのは。トスカーナの文化センターとなる狩の館の改修工事が進んでいたので、文化事業に首を突っ込んでみたいと思うようになったのです。欧州における日本研究の現在を知ろうと、英国の大学をスコットランドからロンドンまで専門の教授7-8人と会う旅もしました。

都市計画関係のネットワーク作りをスタートさせたのもこの時期。文化センターの構想を話し合う会議には、色々な人間が集まりました。心理カウンセラー、医者、美術史研究家、建築家、実業家・・・と多様です。テーマは「文化の違いを知り、それを受け入れるにはどうすれば良いのか?」。

rb5

そういう会議に出席しながら、ぼくは何となく分かった気になりましたが、でも眠気も感じたのも正直な感想です。その時、宮川氏に言われました。「君にはまだ難しい話だろうな。あと10年くらいしないと分からないと思うよ」。「えっ、そんな!」と反発もしましたが、本当、その通りでした。文化の違いをディテールとコンテクストの両方から身をもって知るには、まだまだ時間と経験が必要だったのです。

Page 9 of 12« First...7891011...Last »