日本の建材メーカーや建設会社のコンサルタントをしながら関わったプロジェクトが、2002年サッカーW杯に向けてのサッカースタジアム設計でした。欧州で生まれたサッカーに相応しいスタジアム、それは選手がやる気になり観衆が興奮する空間が求められるわけですが、このエッセンスを日本側は探しあぐねていたのでした。ぼくは日本からユベントスに研修にきていたJリーグのコーチの意見に耳を傾けたりしながら、ぼくが何をできるかを考え始めました。ここで、サッカービジネスを横目で見ていた経験が活きました。
渡辺氏が大規模スポーツセンターを設計したときに知り合った構造設計家マイヨヴェスキは、ローマ、トリノ、モントリオールなどのスタジアム設計に関わっていた人でした。テンション構造や膜構造の第一人者です。構造そのものを美しく見せる人で、旧ミラノフィエラの中央広場にも、彼の設計した大テントが張ってありました。ミラノ中央駅前のあのスマートなピレッリビルを1950年代に設計したのはジオ・ポンティですが、構造設計はネルヴィです。どうしてラテン系の構造は、こうもデザインに冴えるのだろうと興味をもちはじたのです。いわゆるミラノデザインの世界とは距離をおいていたぼくにとって、これは貴重な才能だと思いました。
日本の技術を駆使した建材や設備が、メーカーが胸を張って思うようにはイタリアで歓迎されない という経験を積むなかで、イタリアから日本に紹介していく商材を考えるほうが現実的なのではないかとも考えていました。文化的な影響がやや入りにくいハイテク製品とは違い、住環境に関わる製品は文化の壁を越えるのに時間が必要だと認識していたので、サッカースタジアムのように欧州の基準が優先されるソフトの輸出に関わっていくことを試してみたいと思ったのです。

渡辺氏が設計、マイヨヴェスキが構造設計を担当。この営業にぼくも走り回りました。1994年米国でのW杯ほど腹がきりきりする思いで見た試合はありません。イタリアが勝ち進めば進むほど、「あの強豪のイタリアが使うスタジアムを設計した人間の登用を考えてみませんか」という文句が言いやすいだろうとわけもなく思い込み、イタリアの試合に一喜一憂したのでした。ブラジルとの決勝でPK戦となり、バッジョのシュートがゴールを外れたときの脱力感はたまりませんでした。
じょじょに建築分野に足を踏み入れ始め、そこで分かったのは「このままトリノにいてはいけない」ということでした。車業界のビジネスにはよくても、建築関係となるとミラノでした。トリノの建材や家具などのメーカーは、イタリアでは優秀でも海外市場に進出していくには力不足の感が否めなかったのです。突出している会社がないわけではないのですが、平均を狙った時に難しいということは、ビジネス上のリスクが高いことを意味します。
ミラノからコモ近くには有名な家具メーカーが多いですが、かといってミラノの周囲なら良いとも言い切れません。ただ、ミラノから東、ボローニャやヴェローナなどの都市周辺に良いメーカーが多く、交通の便も良いのです。トリノから出かけると一泊しなくてはいけないところも、ミラノからは日帰りでいけます。ミラノに名の知れたデザイン事務所が多いことは、引越しのあまり積極的な理由になりませんでした。 デザインでは平均点はあまり意味がなく、抜群であり、かつ個人的な絆が強いことが重要であることを、宮川氏とジュージャロの関係をみながら学んでいました。逆にいえば、100通のダイレクトメールを送り会った建築家20人のなかに、これに賭けようと思う才能を見出せなかったとも言えます。また他方、なんでもまずリサーチありき、というぼくの行動自身が、野武士になりきれていなかった部分でもあったとも反省しました。こうして1994年の春、ミラノに拠点を移しました。

思いおこしてみれば1980年代の中ごろ、小学館『カーデザインの巨人ージウジアーロ』を買って読んでいたのです。この本の巻末には、特別寄稿で宮川氏の「ジョルジェットの涙」というかなり長い文章があり、二人の長い歴史や映画の黒澤明監督やソニー元会長大賀氏との交友などが記されています。しかし、そのときぼくはこの宮川氏の文章に全然反応していなかったのだ、ということを後になって気付きました。出会いが人を作りますが、機の熟さぬ出会いはチャンスを作りえない。そういうことでした。さて、ミラノで待っていたことは何だったのか。「ミラノでのスタート」として、次回から書きます。
20軒ほどの建築事務所との面談で、いくつかの小さなプロジェクトが生まれました。ほんとうに小さな小さなプロジェクトです。でもとにかく、何かを一緒にやる経験がどうしても必要でした。イタリア人の建築家が日本に何を求めているのかがだんだんと分かってくるにつれ、一方で日本の建築家がイタリアから何を得たいかも分かってきます。当然ながら、それはなかなか交差しません。ボッカという唇の形をイメージしたソファをデザインしたストゥディオ65のメンバーも、この20軒のひとつでした。また、建築家を介して現代音楽の女性研究者とも知り合いました。音大のピアノ科を卒業した家内は、この研究者が書いたクラシック音楽のコンサート批評を毎月日本語に訳し、日本の雑誌に6-7年にわたって掲載しました。欧州の音楽事情や考え方を知るに、脇で見ていたぼくもずいぶんと良い勉強になりました。
既にその時に25年近くイタリアで建築家として活躍してきた渡辺泰男氏と出会ったのも、1993年でした。槙文彦氏の事務所の後、ミラノの都市設計家であるジャンカルロ・デ・カルロのもとで、ウルビーノ大学の寮の設計を担当し、その後、ペザロで3人のイタリア人パートナーと建築事務所を経営していました。他のイタリア人は構造や営業担当で、渡辺氏が設計の責任者です。今では40人以上の所員がいる事務所となっています。

数多くの公共建築、殊に学校建築の設計を多数行い、ペザロの1万人収容のスポーツセンターを設計し施工が進んでいる時期でした。日本とイタリアの両方の都市計画と建築をリアルに知っている方です。渡辺氏に「アドバイスを今後お願いします」と申し上げると、「いいですよ」と快諾してくれました。「イタリアにいる日本人で、あなたのようなビジネスプロデューサー的な人は少なかったから、面白いでしょう」「よくギブ・アンド・テイクというけど、ぼくはギブ・アンド・ギブという考え方もいいと思う」という言葉を伺ったとき、どうして皆さんこんなに心が広いのだろう、と心から感じ入りました。
1993年といえば米国でサッカーのW杯が開催される前年、日本では2002年の開催誘致活動を繰り広げ、全国に10以上のサッカースタジアムを用意しないといけない。そこで、日本の多くの建築関係者が、1990年のイタリア90で使われたスタジアムの視察に来ていた。そういう時代です。