僕自身の歴史を話します の記事

Date:08/7/8

どこまでがユニバーサルで、どこからローカライズすべきか、その判断が大事だと書きました。厳密に言えば、これは国だけではなく、社会階層や世代にもよります。またサブカルチャーやインターネットの浸透は、共通基盤の拡大に貢献しています。ですから、何となく同じになってきたのではないかと思うところに落とし穴があります。表面的に同じように見えるからこそ、その根底にある違いに足元をすくわれてしまいます。「2008 ミラノサローネ」で指摘したのは、この点です。いずれにせよ欧州文化も変容するのですが、その変容のスピードが日本と比較すると遅い。常に新しいインプットを咀嚼するのにより時間をかけるのです。

随分と遠回りした説明になってしまいましたが、ぼくが色々なビジネス経験をしてきた結果、その経験を統合して相手にすべきは、欧州文化そのものになったということです。今までやってきたビジネスを現場で継続しながら、欧州文化への見方を自覚的に、普遍的な評価ができるものに発展させていく。大げさな言葉を使えば、これがぼく自身の使命ではないかと考えはじめたのです。2005年あたりからでしょうか。欧州に住み始めて15年経過した頃です。大学時代からふくめれば、欧州文化になんらかの形で継続的に接してきて25年以上経っています。

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欧州文化の研究者は江戸の時代からカウントすれば、それこそ星の数ほどいらっしゃる。多くの成果を積み上げてきました。だからぼくが欧州文化を真っ向から相手にするなんて恐れ多いとも思います。何かを何処かで言えば、地雷のごとく、「いや、あなたはそのあたりの事情を正確にご存知ない」と言われる可能性がとても高い分野なのです。「それはギリシャ哲学の、こういう思想に基づいているのです」「キリスト教の教会発展史を知らないと分からないでしょうね」と言われるかもしれません。

しかし、それを恐れていては、日本の製品はいつまでたっても欧州市場でまともに扱われない一方、日本では気位ばかり高くなっていく。そのようなサイクルをどうにかして正常な向きに変えていくには、欧州文化の見方を多くの方に語りかけていくしかない。そのプロセスで、ぼくの見方に独りよがりの部分があれば、それを随時正していく。こういう活動を続けていくことが、文化を孤立したものではなく、経済活動と不可分なものとして位置づけることを促進し、その結果、経済活動自身がより長期的な視点で安定したストラクチャーを獲得する。そういう考えのもとで、ぼくは「2008 ミラノサローネ」を2ヵ月半に渡って書いたのでした。

Date:08/7/7

電子機器のユーザーインターフェースに関わるにつれ、欧州文化が工業製品の開発において未開拓地のような場所になっていることに気づきました。日用品のマーケティングや自動車デザインなどは、かなり以前から欧州文化の理解に努めてきましたが、比較的新しい領域であるユーザーインターフェースの世界では違うのだと分かったのです。しかし、一度そういう観点で色々な分野を見始めると、既によく分かっているだろうと思っていた分野でも、欧州文化への理解が不足していることが目につきはじめます。しかも、欧州文化を専門とするアカデミズムにおいてさえ、今のリアリティのある欧州を把握しているとは言い切れないと思ったのです。大学時代にフランス文学科にいた人間としては、かなりショックでした。

かつて文化事業を手がけた宮川氏が「文化を事業にしようとしてお金を取ろうとすると人は来ない。かといって無料にすると、人が来すぎて対応しきれない」と語ってくれたことがあります。宮川氏のトスカーナの文化センターはおよそ10年くらいで閉めたのです。 文化がビジネスとして如何に成立しにくいかを傍で見ていたぼくは、独立してからは文化にはあまり近づかないようにしてきました。魅力あればあるほど、足元を固めておかないといけません。いわば文化マターはぼくの内に封印してありました。しかし、「文化理解」というテーマがビジネスとして成立するのであれば、封印を解くべきだと考えました。

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経営学やマーケティングの観点から「異文化理解」「異文化コミュニケーション」というテーマが、特に米国の多国籍企業のなかで第二次世界大戦後に注目されてきました。つまり国際人事面だけではなく、商品の市場適合性という面でも参照されていたわけです。スウェーデンのイケアに関する本を読むと、イケアは米国市場へ参入した際、それまで世界均一で生産してきたベッドやテーブルではサイズが小さすぎ、また欧州で売れる洋服ダンスは小部屋をそのままクローゼット替わりに使う米国では不人気だったとあります。大量に均一製品を作るからこそコストを抑えられるという条件あるいはポリシーとローカライズの狭間で苦しんだようです。結果、基本は世界均一でありながらも、少数のアイテムはその国独自の製品を開発し、米国向けの大きなふわふわしたソファを、逆に欧州にももっていったらヒットしたというエピソードも紹介されています。

どこまでユニバーサルが通用し、どこからローカライズが求められるか、この判断をするための文化の見方がどの領域でも求められているとの一例です。

Date:08/7/4

電子機器のインターフェースをみていると、如何に市場の文化的素養が必要かを痛感します。外国らしいデザインがブランド性を高めることがありますが、ユーザーインターフェースは、痒いところにも手が届く発想が必要です。グラフィックや適切な言葉だけでなく、ユーザーの考え方あるいは考える道筋などについての適合性が求められます。デザイン、人間工学、認知心理学、文化人類学、これらの素養を援用しながら最適化を図っていくわけです。こういう分野に接していると、家具デザインのターゲットの絞り方や表現が実に気になります。

人は止まっているときより、何らかの行為をしているほうが性格の特徴が出やすいですが、電子機器インターフェースも、持ち歩き動きながら使う機器は、より直感で把握できるインターフェースでないといけません。家具のデザインをするのに、このインターフェースと同じような気配りは余計かもしれません。しかしながら、「2008 ミラノサローネ」で紹介したように、日本人のコンテンポラリーアーティストが作品を欧州人のロジックに分かるような見せ方を行い、適切な文字情報を解説として提供したら、批評家やコレクターの反応が全く違った。この例にみるように、その先のもうひとつの頭と気の遣い方次第で、結果が全く違ってくるのです。これはユーザーインターフェースの開発で使う頭と近いところを使っています。

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このあたりのくだりからも、「2008 ミラノサローネ」でかなり手厳しく日本のメーカーの展示方法を批評した背景が分かるのではないかと思います。たぶん、「欧州の人に何かを表現する場合、ユーザーインターフェースと同じような頭を使うべきではないか」とのっけから言われたら、みなさんは分かったような分からないような気持ちになるのではないでしょうか。が、コンテンポラリーアートの例は、もう少しダイレクトに分かってもらえる材料になるのではないかとも考えました。いずれにせよ、色々なアングルから語らなければいけない。そう思っています。

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