僕自身の歴史を話します の記事

Date:08/6/12

1989年1月末になっても、宮川氏からは何の返事もきません。半ば予想していたこととはいえ、やはり気落ちします。彼の本のなかにあった、あるエピソードを思い出します。オートバイの世界一周を企画している頃、朝日新聞ロンドン特派員がトヨタの車でロンドンから東京まで走りきりました。それが新聞で連載され、大きな話題になっていたのですが、宮川氏はこの記者にアドバイスを求めようとしました。しかし、やはり手紙にすぐ返事がきません。が、三度目の手紙に「自宅においでください」とのお誘いがきたのです。ぼくも、三度は覚悟しないといけないと思っていました。

そうはいっても、何とか一度は会ってみたいと思う気持ちは日々大きくなるばかりで、2月のある日、思い切ってトリノのイタルデザインに直接電話しました。そうしたら「夜、自宅に電話するといい」と言われ、やはり自宅の電話番号も入手していたぼくは、日本時間の夜中遅くに彼の自宅に電話しました。いつも本人はおらず、毎日違った子供が電話に出ました。宮川氏本人と電話で話せたのは3-4度目でした。「はい、手紙は読んでますよ。一度、会いましょう。今度、東京に行ったときに、いろいろと話しましょう」という言葉を聞いた晩、興奮して眠れるはずもないベッドでのなかで一晩中、これからのことを考えました。

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宮川氏と有楽町の帝国ホテルのレストランで朝食を一緒にとった時、「階段をひとつひとつ上るように、ひとつの会社のなかで出世していく人生を悪いとは言わないが、自分で考えながら山や谷をこえて切り開いていく人生の魅力には勝てないよ」「イタリアは先進国の顔をしたジャングルだね。一度、イタリアのサイズというのが、どういうものなのか、実際に知ってみるといいと思う」と言われ、その場でぼくはすぐ、「今度のGWにトリノに伺います」と答えました。これは行くしかない、と。

Date:08/6/11

『われら地球家族』を借りた日、その晩のうちにこの本を読み終えました。著者の宮川秀之氏は1960年、オートバイで友人と日本から世界一周の旅に出ました。トリノのモーターショーのスタンドで知り合ったイタリア人女性と結婚。そして、ランチアの重役の娘であった彼女の家族を通じ、当時ギアにいた若きカーデザイナーであるジュージャロと出会ったのです。こうして、いすゞの117クーペなどの名車が生まれる環境ができていきました。ぼくが心を動かされたのは、彼が躍動感溢れるビジネスの世界と、家族や社会とのかかわりの両方を一気にカバーしていたことです。

ビジネスではイタルデザインでカーデザインのトップカンパニーに育て上げるだけでなく、スズキのバイクやヒュンダイの車をイタリアでビジネス化。実の子供を4人もち、韓国、インド、イタリアの子供たちを養子にとり、アフリカの子供たちの足長おじさんにもなり、文字通りの「国際家族」を築き上げていったのです。ドラッグ追放運動にもかかわり、ドラッグで駄目になった親をもつ子供たちにも救いの手を差しのべ、トスカーナで有機農園も経営するというように人の何倍もの人生を生きている人です。ぼくは、この人のもとで働きたいと、その晩、強く思いました。

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まだネットが普及していない時代、イタリアにいる宮川氏のコンタクト先を知るのは至難の業でしたが、あるチャンスを生かし、イタルデザインの電話番号を知ることができました。彼に「あなたのもとで働きたい」と手書きの手紙を送ったのは、本を読んでから一ヶ月後くらいだったと思います。確かクリスマスも過ぎ、大晦日の前、そのあたりの日に夢を託して手紙を投函したのでした。しかし、そう簡単に返事をもらえるはずもありませんでした。

Date:08/6/10

1980年代後半、日本は経済活況期でした。それが後になって過去を形容する言葉として、「バブルの時代」と呼ばれるようになったのですが、その頃、ぼくは日本の自動車メーカーでサラリーマンをやっていました。欧州の自動車メーカーにエンジンやギアボックスなどのコンポーネントを供給する仕事でした。その一つに英国のスポーツカーメーカーとのプロジェクトがあったのですが、英国人の頑固さと柔軟性に接しながら、ぼくは一つのことを思いました。「何か新しいコンセプトを作っていくには、米国ではなく、欧州のほうが相応しいのではないか」ということです。もちろん、米国でも新しいコンセプトは生まれますが、過去の遺産と常に見比べながら将来を考える欧州の方に分があるのではないか。そう思ったのです。

一方、ぼくは、できるだけ全体を包括的に掴んで生きたいという願望を、高校生の頃よりもっていました。大学はフランス文学科を卒業したのですが、この学科を選んだのは、フランスでは文化の捉え方が非常に広範囲であることが魅力でした。分野を細かく分割せずに、文学、政治、美術、社会などを横断的にカバーできる、あるいはカバーしないと話しにならない。そういう考え方が気に入ったのです。そういう性向からすると、サラリーマンとして自動車だけやっていることも、だんだんと不満になってきました。自動車という商品はビジネスとして面白いですが、それだけに関わっていることに焦りを感じました。

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いくつか転職先を探してみました。しかし、どうにも惹きつけられるものがありませんでした。ビジネスをやり、文化を語り、社会貢献にも参加する。そして、それらが個々に独立しているのではなく、全てがお互いに相乗作用しあう。そういう世界があるのではないか、いや、それをやっていく道を探るべきではないか。そういう思いを抱えていたぼくにとって、東京であたってみた会社はどれもつまらなく思えてしまったのです。そんな胸のうちを、それまでにも相談にのっていただいていた勤めていた会社の役員に話しました。そうしたら「君のやりたいことをやっている人が、ここにいるよ」と一冊の本を差し出してくれました。それが『われら地球家族』という名の本でした。

1988年11月のことでした。

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