ピレッティと語り合おう の記事

Date:08/2/19

「チャールズ・イームズが他の誰よりも抜きん出ていることはすぐ分かったけど、本当にそのすごさを理解するには少し時間がかかったかもしれないな。わたしが彼と実際に知り合ったのはね、カステッリがパリでプリアをプレゼンしたときだった。そのとき、ハーマン・ミラーがアルミニウムグループをプレゼンしたんだね。」とピレッティはイームズとの出会いを思い出します。ポランもイームズを絶賛していますが、彼は自分でも内気だというくらいなので、イームズと近くにいる機会があっても話しかけませんでした。ピレッティはその点積極的でした。

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「それから何年かたってピレッティ・コレクションを発表したとき、イームズの奥さんがわたしのことをすごく褒めてくれてね(笑)。彼女が亡くなる数ヶ月前だったな・・・・。わたしは彼のした仕事、全人生、どのように生きてきたのかをよくみてきたけど、学んだことは多かったよ。彼に近い人とも知り合い、イームズのもとで働くようにも勧めてくれたこともあった。すでに結婚してカステッリで働いていたから無理だったけどね。」と話してきて、ネルソンにも言及します。

「ネルソンはハーマン・ミラーの責任者だったわけだが、 彼はイームズの作品をみて、自分より優れていると思ったんだね。それでイームズにデザインを頼んだ、責任者としてね。ブラボーだと思うだろう。ネルソン自身もいくつかデザインしたが、イームズのように記憶に残るものは何も・・・・。イームズは歴史をつくったけど、ネルソンは少しだけ。でもネルソンは賢かった。だからイームズに『おいで』と言えたのだね。」 この部分、才能を存分に発揮する人間と、存分に才能を発揮させるマネージメントのよい関係を示していて、興味深いですね。

このような話をしながら、また時代を遡りスカンジナビアに戻ります。「カイエルホルムとも会ったけど、とても素敵なシェーズロングを作ったね。詩的だった。ユールやヴェグネルとも知り合ったけど、彼らとわたしが違うのは、わたしは生産する数に拘るということだね。木では何十万という数の椅子を作れない。コストが高すぎる。つまりね、わたしは低コストに興味があるんだな」

 

Date:08/2/18

「わたしはね、マックス・ビルがはじめたウルム造形大学に行きたかったんだよ。準備もしていたんだ。でも閉まってしまったからね、いやあ残念だった。けれど後になって、ディレクターだったトマス・マルドナードがボローニャに教えに来ていたとき、わたしは彼の生徒だったんだ。いい仕事をした人だと思うけど、わたしを夢中にはさせてくれなかったなぁ。」

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こう語るのが今週の主人公ジャンカルロ・ピレッティです。上の写真の椅子、プリアチェアは世に出て8百万脚以上も売れたといいます。だがデザインした彼自身は、この仕事ではあまりお金を手にすることはできなかったというのですが、その話題は後回しにして、まずは彼の若い頃のデザイン修行の話を聞きましょう。1960年代なかば、彼は25-6歳。

「わたしが結婚した頃はデンマークがデザインの中心だったよ。ユール、ヤコブセン、ヴェグナー、みんなすばらしかった。それで新婚旅行はデンマークにしたんだ。わたしの夢だったんだ。フィンランド人のヴィルカッラもいたね。そこで偶然、ヤコブセンのスタジオで働いていたイタリア人と知り合い、わたしをヤコブセンに紹介してくれたんだ。上の階にヤコブセンがいて、下は所員。結局、2-3週間、見習いをさせてもらったんだ。奥さんはほったらかしてね(笑)。彼女は博物館に行ってたけどね。」

スカンジナビアからもアメリカからも影響なんて受けていない、と言うイタリアのデザイナーも少なくありませんが、 彼は「どこのものであろうと、美しいものであれば芸術作品のようにわたしは近づいていき、無意識のうちの影響をうける。」と話します。というわけで、彼の追っかけもよう(笑)を引き続き聞いてみましょう。

 

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