『ヨーロッパの目 日本の目』 の記事

Date:09/12/19

検索エンジンは便利なもので、何かを腰をすえて調べる前の下準備やうろ覚えの事柄のちょっとした確認にも都合がよく、ぼくもグーグルは毎日かなりの頻度で世話になっています。世界のことが一瞬にしてすべて分かるような錯覚に陥っても無理はないでしょう。グーグルのローカリゼーションは抜群で、これが一瞬にして分かるとの「錯覚」の原因にもなってます。なぜ錯覚なのでしょう? 使っているPCの言語が日本語であれば、日本語のグーグルが出てきてます。自動的に「フランス」と入力すれば、フランスに関する日本語情報が多く出てきます。「france」と入力すると、英語、フランス語、日本語の情報が並列されてきます。つまり、日本語環境からみたフランスです。よってフランス語環境からみたフランスを知るには、グーグルのフランス版から入っていかないといけません。イタリア語版にすれば、イタリア語環境ーすなわちイタリア文化ーからみたフランスの姿がメインで浮き上がってきます。同じ検索エンジンを使いながら、ローカライズされた違った世界観が並列しているわけです。これらの世界観をつなぐツールはあるのでしょうか。英語版にすれば、英語の環境からしか分からず、それも不十分です。

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管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』に英語に関する以下の文章があります。

思うのだが、英語がどれほど確立したように見えても、英語が支配しているのは所詮それが支配できる範囲と層のことでしかないだろう。第一、適用範囲を拡大し世界に対する実効範囲を確立したと見える英語とは、英語と呼ばれる言語の幅広いスペクトラムの中のごく狭い一部分の帯域のものでしかない。英語による口承空間も、文の空間も、その外において、はるかに広大にひろがっている。

(中略)

英語には決して見えない聞こえない範囲のほうが、つねに比較を絶して広大だ。インターネットによる情報網が世界をおおいつくそうと、文書と画像のデジタル・アーカイヴが惑星を何度も飲み込むほどの気が遠くなるような質・量への発展をとげようと、英語とも、インターネットとも、デジタル・アーカイヴとも、まったく無縁のまま誕生して死んでゆく人々の数は、今後増大してゆくばかりだろう。

これは水村美苗『日本語が亡びるとき』に対する感想の一部です。水村美苗はグーグルの構築する世界像に脅威を抱いているーそれも異常にーことにナイーブな印象をぼくは受けましたが、今やそのグーグルは英語の世紀ではなく、ローカリゼーションで各国語の世界観を出しているから皮肉なものです。もちろん、日本に限らず、英語の侵略を憂え、それに対策を講じようとしている人たちは世界に多くいます。最近も、複数言語社会であるスイスで英語にどう対処するかの論議が行われています。ドイツ語圏とフランス語圏の人間が英語でコミュニケーションをとることも珍しくないスイスで、やはり自国文化の保存が話題になります。自国文化の保存とは、言ってみれば、自分たちの考え方の維持でありー時間軸を伴わない考え方は威力の発揮が難しいー、その延長線上での世界観での勝負どころで優位性をもつための方策ともいえます。

ヨーロッパがEUとして国家の上位に対する権威をもちながら、多言語主義をとっていることは、このブログでも何度も書きました。庄司克宏『欧州連合 統治の論理とゆくえ』のレビューの以下を参照してください。

公衆道徳や国民的文化財産の保護については各国間の調整が認められません。これは経済的な自由を確保するにあたり、文化の多様性の維持が必須であるとの前 提に基づいています。経済的合理性が全てを覆うことはありえない。よって、EU市民はEU諸機関などに対し、EU加盟国の公用語のいずれの言語でも手紙を 書き、同一の言語で回答を受け取れる権利が与えられています。現在、義務教育課程で、母国語以外に二つの外国語を教えているのも、ヨーロッパという「小グ ローバル社会」の実現の一端です。およそ単一言語やメジャー言語だけで社会が機能するとははなから思っていないのです。

このEUで、大きな隠れた問題があります。それは各国の市民が共通の社会問題について話し合うためのメディアー共通プラットフォームというべきーがないのです。英国のエコノミストやFTが比較的欧州全体について報道しますが、これは英国カラーが強すぎます。ブラッセルのEUから発信される情報は、ビビッドとは言いがたいです。言論の世界は圧倒的にローカル勢力が強く、ドイツであればドイツ文化の文脈においてドイツ語で発言する人間が力をもち、イタリアではイタリア文脈になるわけです。日本の英字新聞があまり面白くないのと同様ー日本語新聞が面白いわけでもないがーローカル文脈が結局のところ強い影響力をもつのは、EUにおいてでもそうなのですーが、日本との比較でいえば、そうであってもヨーロッパ各国のほうが「国際的」とはいえるー。だから、青少年のドラッグの問題について一般市民が各国の知恵を持ち寄って解決にあたればーたとえば、青少年の問題は英国から大陸に、北ヨーロッパから南ヨーロッパに時間差で移転することが多いー有効なはずですが、それが実質的に上手くいっていないのです。

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アゴラで神田敏晶さんが、日本のネットの世界におけるガラバコスぶりを嘆き憂えています

10年後、アジアのデジタルネイティブで英語が使えない国は、日本だけになっている可能性は高い。20年後、世界から後進国が消えた時、日本語のプロトコルの価値はどうなっているのだろうか?少子化が進み、高齢化社会を迎え、海外の労働人口に頼らざるを得なくなったその日。ブルーカラーの職種は、英語と中国語とスパニッシュを使い、リタイアしたホワイトカラーは日本語のみという、いびつな国際化の日本を迎えていることだろう。

言語がプロトコルだとすれば、普及させるか、普及しているものを使うか…そろそろ、そのあたりの未来の日本の話も考えておいて損はないと思う。

こういう問題意識もありうると思います。その場合、対英語という「軽装備」では、議論が深くまでいかないでしょう。管啓次郎さんの指摘しているポイントに踏み込まないとしれきれトンボー第二次大戦直後に日本であったカタカナ論やローマ字論のようにーになるでしょうから、多角的視点が必要だと思います。少なくても、EUの多言語主義レベルの論議が必須です。

Date:09/12/12

今週はアイルランドに出かけてきました。日本でアイルランドというと「アイスランド?」(スコットランドのちょっと西が正解)とか「あのテロのあるところ?」(英国の一部である北アイルランドのこと。だいたい、テロは終結している)とか聞く人が少なくありません。あるいは、ギネスビールやケルト音楽など急にディテールに入り込むこともあります。しかし、それは極めて普通で「フジヤマとゲイシャ」とあまり変わらず、外国人が知らぬ国に対してもつイメージは、およそこのあたりであるとするのが無難でしょう。あえていえば、日本で知っているアメリカやフランスあるいはドイツについての知識が、やや世界の水準以上であると考えるべきかもしれません。

いずれにせよ、アイルランドをミステリアスな国であると思うむきが多いのですが、知識や情報が不足していればミステリアスでロマンチックなイメージをもつのは当然です。日本でスカンジナビアのファンが多いのも、つまるところ、フランスやドイツほどには知識が一般化していない部分によることも大きいと思われます。だからこそ、ある一点ースウェーデンの環境政策やフィンランドの教育ーが過大に取り上げられたりするわけです。・・・・と言いながら、一点を語るのもなんですが、アイルランドのギネスは抜群に美味く、ロンドンのパブで飲むギネスと比較し、そのレベル差がよく分かりーイタリアで飲むエスプレッソがフランスのそれより格段に美味いのと同じレベル差です。水が違うからと聞きますが、アイルランドで飲むギネスはサッパリしていますー、アイルランドが英国の長い植民地であったが、独自の世界があるのが象徴的に分かります。

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ぼくは、ダブリンの大学内のテクノロジーイノべーションセンター(上の写真)で行われたミーティングに参加するためにアイルランドに滞在しました。昨年、金融危機直後のダブリンの街の変化について書きましたが、今回、集まったメンバーと話していて、そういう中でもしぶとくやる精神的タフさを強く感じました。資源も市場規模にも乏しい国が、自分だけを頼りにサバイバルするに、「島国だから」ということを否定的に使っていません。彼らもかつては閉鎖的な時代がなかったわけではないようですが、この21世紀の今になって、そういうことを微塵も感じさせないオープンマインド自身の存在感が印象的です。島国で風が強いことを利用しての風力発電への積極的施策をみても、それを思います。

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参加者が集まる前のミーティング準備中、10月、御嶽山で一緒に滝修行をした友人がこちらを向いて笑顔。彼も、メンタルがタフです。苦境で嫌なことがあれば、スポーツで汗を流して何とか前進しようとします。背を丸めた負け犬になることなど考えたこともない。そういう強さをみせます。このミーティングで話し合われたことは、詳細は省くとして、個々の強みを発揮したネットワークでいかに統合度の高いものを実現するかということです。個々のレベルがそれなりであることは最低条件ですが、さらに重要なのは、大きなテーマに的中する意義をまずは最優先させなければいけないという考え方をするかどうかです。コンセプトが大きな社会的文脈で貧弱であれば、どうにもならないことを認識しているかどうか、ということでもあります。

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この国にはヨットマンが多くいます。ものすごい強風のなかでも、ハーバーから力強く船を出していきます。日本であればハーバーで出航禁止になるレベルです。ヨットは風が強ければ、その分、より大きなエネルギーをもって一つ一つの作業に立ち向かわないといけません。それを億劫がらずにやる気力に感心します。そういえば、今回泊まったホテルは、7-8年前に逗留したホテルです。そこで、7-8年前に部屋に飾っている一枚の絵に「これがアイルランドだなぁ」と思ったことがあります。その絵に再会しました。ダブリンの街を流れる川での水泳レースです。部屋の十分な明るさがないところの以下の写真ですが、ぼくの感想が少し共有できるでしょうか?

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Date:09/12/2

昨日、スイスに出かけました。朝、7時10分のミラノ発の電車に乗り込み、チューリッヒに到着したのは12時半。予定では10時半でしたから2時間の遅れ。雪のためにダイヤが大幅に狂い、チューリッヒまで電車を三回も乗り換える羽目になったのです。次の電車を待つ間、しんしんと降る雪を眺めるしかなく、12月なのであたりまえなのですが、意外なところに潜んでいた冬の襲撃を受けたような気分です。下は車窓からの眺め。

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ヨーロッパ文化部ノートにメモしたように、この日曜日、スイスでは国民投票が実施されました。イスラム教寺院の尖塔建設を禁じる法案にYESとするかNOとするか。57%がYESでした。これはイスラム教自身の問題でもないし、イスラム教信者の移民の行動の問題でもなく、「目に見える異文化」への心理的不安感を煽った結果ではないかと思えます。プロテスタントとカトリックの教会の形状の違いではなく、じょじょに増加するイスラム教の人達(スイスの外国人は約20%で、イスラムは40万人)がイスラム教の形状に象徴されるとなったとき(まだ4つの尖塔しかないが)、宗教の自由の「かたち」が表面に出てきたともいえます。EUに加盟していないスイス政府が、ルクセンブルグの欧州司法裁判所に絡んでもらうよう働きかけるかどうかなど色々な可能性があるでしょうから、この問題は行方を注視していこうと思います。

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チューリッヒでは、駅からタクシーで10分くらいの高台にあるお宅を訪問しました。上の写真は居間からテラスをみたところ。今から10年ほど前、スイスの全体像を描く本を編集した女性の自宅です。自然、政治、宗教、経済、教育、建築・・・・全てを、それぞれのエキスパートが書いた稀な本です。そして写真の質が抜群。彼女はチューリッヒの大学の元学長で経済史が専門の方も一緒に招いてくれていて、昼食をご馳走になりました。彼女は「以前なら市内の書店に日本関係の書籍が沢山あったのに、最近はまったくない。中国の本ばかり。日本には素晴らしい文化があるのに、それはディテールで語るのみで、全体のかたちに落とし込むのが苦手で、非常に損をしている」と嘆きます。日本通であるからこそ、その存在感の低下に危機感をより募らせます。居間にある下の作品は中国のものです。

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ぼくの持論である、加藤周一に代表される知識人がヨーロッパ文化について書いてきたことを、ビジネスに応用できるようにどう統合して視覚化するかが重要だと話すと、「ここには加藤周一さんも来ましたよ」と言われ、それなら話しは早いと、ぼくの舌ものりはじめます。狭義の文化のための文化ではなく、広義の文化のための文化を説明していくための具体事例についてディスカッションです。要するに経済的価値を生む文化理解の事例です。スイスの文化面だけでなく政財界にも顔の広い彼女も主旨に賛成してくれ、どんどんと人を紹介していこうと言ってくれます。彼女のように日本(中国やインドにも造詣が深いようですが)をよく知り、かつその問題点を痛感しているスイス人が味方になってくれると心強いです。

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もちろん、上述した国民投票についても話題になりましたが、57%という数字を前にして、「あれは極右の運動だから」と弁解できない苦しさが感じられました。多文化に関心の強いインテリだからこその苦しさです。住宅地から市内に戻ると、もう暗く、クリスマスのイルミネーションが迎えてくれます。駅の構内では、クリスマス用品などを売った店が立ち並び、「スイスの師走」ぶりです。遠くにみえる白いツリーは、スワロフスキー製です。

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ミラノに戻る電車は、やはり到着が遅れています。それで駅内をぶらぶらしていて、気づいたのが以下のH&Mの広告です。ソニア・リキエルがデザインしたようですが、このナイトガウン、KIMONOと書かれています。美容院に行っても、「KIMONOを着てください」と言われるし、息子の空手のイタリア人の先生も空手着をKIMONOと呼んでいます。ボタンがなく身体の前面で生地を合わせてヒモなりでとめるものを、全てKIMONOと呼んでいるようです。日本人とすれば、浴衣でもKIMONOと呼ばれたくない気持ちがあると思いますが、これは中国人の作る日本料理と同じで、KIMONOの再定義であると考えるべきでしょう。

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