『ヨーロッパの目 日本の目』 の記事

Date:10/10/5

「日本のイメージねぇ、下がったとか何とか言うより、単に話題にしなくなったということじゃないかな」とイタリア人の友人。ぼくが「最近、日本や日本製品の存在感の低下が盛んに言われるんだけど、本当のところどう思う?ソニーやパナソニックという名前で日本が語られた時代もあったんだけ・・・」と聞いたところ、すぐ返ってきたのが冒頭の台詞です。「でも、アニメや寿司などもあるよね」というと、「寿司はかなり当たり前の食べ物になってきて、寿司を日本とリンクして考えなくなっているよね。アメリカでピッツァが必ずしもイタリアを連想させないのと同じでね」との答え。「アニメも確かに日本発のものが多いけど、だからといって日本のことをじゃあ語ろうよとはならなくなっているんじゃないの」と続きます。

最初、日本製は安価なイメージ。それが1980年代あたりに品質でブランドができ、1990年代になると高機能で高品質かつ高価格という路線が更に強化されます。韓国のヒュンダイのポニーが1980年代に北米で話題になりましたが、今の時代、サムスンやLGが喧伝されるような存在ではありませんでした。友人は「そう、今は家電で韓国製品の評価は高い。けど、日本製品と区別がついているかといえばそうはいえない。イメージのなかでは、二つの国の製品がゴチャゴチャになっている」と。「中国製は?」と聞くと、「この二つの製品のレベルに至っているという感じは全然ないね。安かろう、悪かろうというとこだ。そう、そう、最近、家を移ってエアコンを買ったんだけど、修理屋には、韓国製のエアコンはまだやめたほうがいいと言われた。日本製のほうが信頼できるって。そうなの?」と話が飛ぶ。

「韓国人と会ったことある?中国人は沢山いるけど・・・」と話をずらすと、「いや、一度も話したことがない。それは道で見かけたことはあるかもしれないけど、どこの国の人とは分からないものね」と。ぼくが、「韓国人は駐在の人がメインってこともあるし、人数が少ないから、そんなに会う機会はないかもね」とコメントすると、「そうなのか・・・・」。「まあ、要するに、どこの国というリンクがそう強くなくなるというのは、そこの国のモノなんかが定着してきたしるしということなんだよね。でも、日本は文化を伝えるとか、そういうコミュニケーションがあまり上手いという印象がないよね。この20年間だっけ、バブルが崩壊して日本経済が低迷しているって言われるのは。そういう状況なら逆に、コミュニケーション戦略がもっと重要になるとも思うんだけどね」と日本の政策への意外感を語ります。

そういえば、日本製品が海外市場で幅をきかせた時代、「日本人の顔がみえない」とよく言われました。どんな人がその製品を作っているのまったく分からないと。どうなんでしょう。あの頃と比べて、少しは顔が出ているでしょうか。少なくても、中国人の顔のほうが出ているかもしれないなとは思います。よくも悪くも。とにかく、話題になるとは、あるテーマが相対的に低くなるから、あるほかのテーマが相対的に高くなるところから生じる現象でしょう。世界各国のテーマが均一にいつも語られる限りにおいて、それは話題とは呼ばない。だから、日本が話題にならないこと自身を嘆くことにあまり意味はないかもしれません。いや、話題になるように仕掛けていて、話題にならないのは悲嘆すべきですが。それより問題は、知って欲しいことが伝わっていないことで、不利を蒙って損をしていないかどうかかもしれません。

ぼくは、「日本の存在感がない」という議論には飽き飽きしていて、どうすれば損をしない仕組みをもったビジネスができるのだろうということに関心があります。特に、最近、ミラノの街を歩きながらもそういった目であらゆるモノやコトを眺めています。

Date:10/6/16

3月20日、六本木アクシスビル内のJIDA事務局にて20名あまりの参加者でローカリゼーションマップ研究会をキックオフしてそろそろ3ヶ月。このあいだ、Twitterの#lmap でローカリゼーションの事例や思いついたアイデアなどを集めてきました。当初3ヶ月間でアイデアをじっくり考え、その後に次のステップに移行すると計画していたので、第一ステップ終了ゴング直前というわけです。

一つよく分かったことがあります。ローカリゼーションという言葉が翻訳やソフトの現地化以外のビジネス分野ではあまり使われておらず、ローカリゼーション産業はまさしくこれらの分野だけを指し示すことが多いということが再確認できました。文化人類学において文化適合などの概念が、日本のビジネス世界で人事面で言及されても、ビジネス全般では一般的な体験談以上には認知されていません。最近、「デザイン思考」という表現が流布しており、ローカリゼーションを考えるときの有効なプロセスとして一部重なるような気もしますが、概念のレベルが違います。

したがって、ローカリゼーションを総括的に幅広く語った本は、少なくても日本語ではなさそうです。マーケティングやWEBサイトのテクニカルな本にそうした記述があったとしても、それが食やハードのデザインを語るには至りません。しかし、ぼくが何度も書いているように、それらは個々に独立した経験をユーザーに提供していますが、ユーザーは一人の人間としてそれぞれを連続性をもって経験し、ある経験は次の瞬間の経験のベースとなっていきます。ケータイの経験はカーナビにいっても引きずり、それをもってクルマのコックピットデザインへの期待度が変わってきます

手元のiPhoneで瞬時にメールをチェックしていると、ノートPCの蓋を開け起動させ、ブラウザを開くなど二世代前の世界に思え、そのうちに全ての人はそうしたスマートフォンを持っているような錯覚に陥り、もっていない人を「不便な奴!」と罵ったりするのです。WEBや情報機器において期待されるローカリゼーションは認知的側面が強く、仮に高次元の満足度を与えた場合、このレベルのサービスに馴れ鋭くなったユーザーの感覚は、ハードを中心とした製品デザインにも適用されます。秀逸なスタイリングのノートPCのデザイン自体が古臭くみえたり、ケータイカメラに馴れると、ネット世界からは孤立している通信機能をもたないデジカメは「孤独感を漂わす」とそのユーザーの目には映るのです。

β版でスタートすることに馴れるには、もしかしたら洋服を変えないといけないのかもしれません。スーツにネクタイで企画9割完成させて肩肘はって一歩踏み出すより、カジュアルなファッションではじめるβ版的ゲリラ戦が歓迎される今ー歓迎というより、それでないとスピードについていけないー、この感覚の横断性はより強くなっています。だからこそ、統合的あるいは総合的イメージが重要視され、個人が前面に出るパ-ソナルブランドが構築しやすいーいわば生き方のレシピが世の中に溢れかえっているのは故なきことではないというわけです。

これがライフスタイル産業ーファッション、または食や日用雑貨ーへの注目度とリンクしてきます。日常をディテールに分割することは発想として、あるいは現実としてありえず、日常は全体としてしか掴みきれない。デザイン性に優れたインテリアと創造性溢れる食卓は当然リンクするしかないのです。リンクしないほうがおかしい。そして、それは言葉の表現の繊細さにも結びつく。やや遠回りしましたが、従来のローカリゼーション産業がライフスタイル産業により接近する必然性がここにあり、村上隆が英語翻訳に高い料金を払ってカタログを作成したことがNYTの美術評論での絶賛に結びついた一つの要因であると本人が書くように(『芸術起業論』)、思考と言葉への注意深い配慮をはずしてデザイン戦略は成立しないのです。こうした前提のうえで、抜群なスタイリング表現と併走できる世界ができます。全ての要素は必要不可欠であり、現在は、それらの間隙にあるエッセンスが見落とされるが故に全体系を作りえないことが多いと思います。

「世界を変えるデザイン展」のエントリーで書いたように、モノを介して文化を理解する大事さを知った人は多かったと思います。コンテクストの理解がまずありきであることが、あの展覧会で強調され、「そうなんだな。それって楽しい」と思った人は少なくなかったでしょう。これがローカリゼーションマップへの興味です。対象地域のユーザーのマインドマップを描き、それをベースにこちらの戦略を作る方法のヒントやノウハウを提供する。ローカリゼーションマップ研究会は、こういう道を作っていくことではないかとの思いをぼく個人、強く持ちつつあります。

Date:10/5/27

日本のトイレの特徴は例を挙げていくと沢山あります。便座の前に立つと自動で蓋が開き、用を終えると自動で蓋が閉まる。約70%というシャワートイレの普及率の高さ。温かい便座。音消し機能・・・と思い浮かべるだけで「ああ、日本だなぁ」と思います。だから逆に、外国人が日本に行くと大いに戸惑うことが多く、例えば「シャワートイレのアイコンがさっぱり分からなくて何なの?」とか(お尻のカタチが数字の3に見えてしまう。シャワートイレの存在さえ想像していないユーザーに、3以外を想像させるほうに無理があるかもしれない)。「シャワートイレは気に入った。でも便座の電気は切りたい・・・」とか。

尻があたたかいといえば、電車のシートが温かくなるのを嫌う外国人は結構いて、疲れて座りたいけど立っているという人もいるぐらいです。ある知らない機能に接したとき、最初は違和感が先走り、しかし使っているうちに馴れ、最後にはそれなしには生活できない・・・というプロセスがあります。日本式トイレの外国文化との一般的接触について言えば、第一ステップのどこかというところでしょう。ぼくがいつも日本で思うのは、公共トイレでドライヤーやペーパータオルが用意している場所が思いのほか少なく、どうして衛生観念が全てのフローに至っていないのか?という点です。パーフェクトであるようでどこか抜けている・・・それが日本文化の愛すべき点なのかもしれません・・・。

今月、お台場でTEDxTokyoというイベントが行われました。「TEDは、テクノロジー、エンターテイメント、デザインの頭文字を表し、この3つの領域が一体となって未来を形作るという考えに由来します。そのイベント が網羅する分野は広く、50回を超えるプレゼンテーションや朝夕のイベントを通して、あらゆる方面からの素晴らしいアイディアを紹介します」とHPに掲載されています。ぼくはこのイベントをTwitter上で知り、ustream でのライブを見ることはなく、視聴者のコメントや感想だけ拾い読みしていました。アーサー・D・リトルの川口盛之助さんのトイレのプレゼンが受けているのも読みました。「日常の身近にある例で技術と文化を語る視点が馴染みやすかったのかな」と想像していました。そうしたら先日、ご本人からメールがあり、YouTubeにアップされたと連絡をいただきました。さっそく3度ほど繰り返して見ました。

トイレの環境を衛生、健康、快適性、デリカシー、ホスピタリティ、エコロジー、楽しみ、便宜性といった項目にブレイクダウンし、それぞれに該当する技術を紹介しています。蓋の自動開閉は衛生、ホスピタリティ、便宜性。音消しはデリカシー、ホスピタリティ、エコロジー。トイレに入り便座まで6秒。だから6秒で便座が温まるよう赤外線がセットされているー川口さんによれば「緊急時以外は6秒で問題ないのでしょう」。これは衛生、快適性、ホスピタリティ。このプレゼンをみながら、技術特性とその応用が分かりやすく整理されているーそれもロボットに喩え擬人化して笑いを誘っているーことに感心しました。個々の技術が集まって作る世界観を一般の聴衆に分かるようにまとめているのです。川口さんは学生時代、短距離の選手だったと伺ったことがありますが、リズム感溢れる軽快な展開はスポーツ的な爽快さがあります。こういう日本文化の紹介方法もアリです。いや、「紹介方法も」ではなく「紹介方法こそ」アリです。

さて、これをローカリゼーションマップ研究会の立場から見てみるとどうなるでしょう。色々な項目と技術の対応が文化圏ごとによって微妙にずれてくるのではないかと想像しました。冒頭に述べたように、手をなるべく汚さないようなフローを実現しながら、最後のステップでオチがある。海外では自動開閉や音消しはないが、最後に手をドライヤーで乾かすことが押さえてある。「日本ではハンカチを常備するものだ」と言うかもしれませんが、ハンカチを何度も使うのと、ドライヤーやペーパータオルとどちらが衛生的なのか?恋人が涙を流したとき、トイレで使ったハンカチを差し出すのか?これは衛生面だけでなくデリカシーの面ではどうでしょうか。

つまりデリカシーや快適性といったカテゴリーだけでなく、衛生というかなり合理性の高い項目も、コンテクストによってかなり揺れやすい概念ではないかと思われてきます。喩えれば「誰が洗ったかわからないフォークより、石鹸でちゃんと洗った手で食べたほうが清潔」という物言いにどう対抗するかです。カール・ケイ「『日本人が知らない「儲かる国」ニッポン』を読む」で引用したように、米国と比較して日本で院内感染が多いのは病室における洗面台の設置の少なさという指摘があります。サービスの本質とは何かの肝心な点で、どこまで文化を差異を超えて共通理解を獲得できるかがテーマになります、

こういう文脈でみると、川口さんのプレゼンは多角的な文化解釈を考えていく上でも有意義だったのではないかと思います。ここに論議するにふさわしいネタが出揃っています。このプレゼンをベースに各地域にどうローカリゼーションをするのが適当かが考えられます。シャワートイレや温かい便座という単機能でみるのではなく、「トイレの世界観」を全体フローで検討するとものすごく充実した成果が得られるのです。ここに「ものづくり」「コンテンツ」「水平展開」「プラットフォーム」といった議論を昇華する「秘儀」があります。

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