『ヨーロッパの目 日本の目』 の記事

Date:11/11/20

このドラマ、毎週、視聴率がぐんぐんと伸びているそうです。松嶋菜々子演じる家政婦ミタがまったく笑みや感情を出さず、ロボット的に仕事をこなしていく。ミタは崩壊した家庭に派遣されているのですが、その家の各メンバーがそれぞれ勝手に自分の気持ちを「正直」に表現し、ダイレクトにミタにいろいろな依頼をすると、ミタは「承知しました」と受けていくのです。それで、「小さな(?)正直」は「大きな破綻」をどんどんと製造していきます

透明性ーものごとは隠すことなくガラス張りにするほうが良い。暗示的であるより明示的であるべきだ。説明責任が常に問われる。その時々の感情は抑えるべきではないーという言葉が世の中を闊歩するなかで、それが一方通行的に進むことが適切なのか?というテーマが、ここで問われているのではないかとぼくはみます。今や、情報提供のプレッシャーが非常に強いです。数々の企業不祥事などからの反省も当然の成り行きながら、「ガラス張り」があるゆる局面においてベストチョイスなのか?といえば、そうとも言えないことが多々あります。一生隠し通したほうが全体の幸せを作ることもあります。

この月曜日、日本に来ました。その翌日、赤坂のインターコンチネンタルホテルでアリババのサプライヤーDAYがあり、およそ450人を前にローカリゼーションマップについて講演する機会がありました。そして他の方のパネルディスカッションを聞き、お会いした方たちと話していて、ネット上だけで異文化市場を読む難しさを考えました。難しいが、経済的リターンが即見えないところでネット上の情報に頼るしかないパターンが非常に多い。よって、「だからリアルな経験が必要なんだ!」とは言わない道を探さないといけません。ネット上には有象無象の情報-このブログも!-が徘徊していますから、どのように実態に近い情報に出会うかー出会えるかーは成功への分岐点になります。

この問題は昨日の勉強会「インフォグラフィックにみる文化差」でも提示され、面白い表現が目につきやすいということと、第一次情報から含めて信頼に足るレベルであるかどうかは別問題であり、現状、ここに多くの「穴」があることが浮き彫りにされました。情報の受け手が「分かりやすさ」「伝えやすさ」「共感のされやすさ」を重視すればするほど、本来かえりみられるはずの情報そのものの質の検証作業が遠のくというパラドックスに陥っています。定量情報ならよく、定性情報により不安だと述べる前のレベルで、そもそも情報がどのアングルから把握されたものであるかの確認が習慣化されていないのです。眼前に提示されている情報の「裏読み」の仕方を学ぶ必要があります。

ヨーロ危機およびイタリアの現況について多くの人から質問を受けますが、今回の問題の一つに、やはり透明性が挙げられています。たとえば、イタリア社会全体の「暗示的表現」を批判することを、英国の雑誌「エコノミスト」は大きな役割として任じている感がありーそれは対日本もそうですー、今回のイタリアの市場の「売り」は、まんまとその批判のツボにはまっています。イタリアの社会が変わらなければいけない点もたくさんあるのは当然ながら、批判の尻馬に乗るのも愚かではないかと考えています。それは、ユーロの優等生であるドイツを一方的に絶賛するわけにもいかない躊躇がアングロサクソン系雑誌ゆえに見られるからです。ここに「裏読み」が不可欠だと思います。

第一次情報が自分で経験したことであったとしても自分の視座には自覚的でないといけませんが、だれがポストしたかまったくわからないネット上の情報をどう選択していくは、前述したように、今を生きるに大きなテーマです。だからこそ、信頼を獲得したいとの思いが強い発信者は情報提供過多に陥ります。そして、多くの矛盾が指摘されて墓穴を掘る可能性が高くなります。が、その矛盾こそが信用できるとみる受信者もいますから一概に否定はできません。しかしながら、少なくてもこの構図を常に意識しないといけません。たまに軌道をはずしながらもなんとか全体的な信頼を得ていかないといけないーちょっとTwitterでクリティカルな反応を受けても気にしないで全体像をより確実なものにしていくー根拠をどう自分で強いものにしていくかが「鍛錬」の目標になります。

ミタが派遣されている家庭のメンバーは、ミタにそのような「鍛錬」を目的としたトレーニングを受けているのではないか・・・とみると、ドラマとしてはつまらないか(笑)。

Date:11/10/23

ヨーロッパの財政危機を巡る日本国内でのコメントや意見を耳するたびに、相変わらずEU認識にずれがあるなあと思います。まるで経済的な動機でEUが成立したかのような前提で論議されていることが非常に多いのです。EUはエリートの産物であるがゆえに経済的ロジックに嵌るはずがなく、統合の考え方は地に落ちていくのが当然であろうとでも言いかねない勢いです。言うまでもなく統合の出発点にあるのは、何世紀にも渡っていったいどれだけの人たちが終わりのない復讐に命を落としたのか? 戦いで流してきた血を止めるしか生きる道はないとの覚悟がすべての根底にあります。ヨーロッパ統合のコンセプトが破綻しないための経済的な括りが共通通貨に表現されていると考えるのが妥当でしょう。

何か前向きなことが生じると一斉にヨーロッパの将来を語りはじめ、少しでも暗部が露呈するとすべてが終わりのようなシナリオに夢中になりすぎる。短い期間をとっても、2007年のリスボン条約締結以降の日本の書店のヨーロッパ関係の本棚を観察すれば、そのあたりの節操のなさがよく分かります。ヨーロッパが市場として規模が大きいかどうかではなくー北米より大きいが言語が細分化されて面倒との見方をする企業が多いー、「こういう考え方をしたらどうだろう」との提案をするヨーロッパの動向を定点観測しておく意味がよく理解されていない。すなわちは世界の思潮を見極める大きな要因をフォローせず、世界各地で起こる一現象に振り回される確率が増えるという悪循環に陥っています。世界を動かすメカニズムのキーの一つがヨーロッパにあるのに見過ごしているといえます。新興国の台頭で米国も含む西洋社会は凋落の傾向にあってでも、です。

一例がここにあります。「21世紀はモラルの時代になる」と一部の人たちの間で前世紀から語られてきました。明示的なルールではないレイヤーでの勝負とは言わない「紳士的な振る舞いでの「勝負」」が重要視されるだろう、と。実は、それが目に見えない机上の理想論ではなく、現実の世界に浸透しはじめているのがCSR (Corporate Social Responsibility =企業の社会的責任)ということになります。

CSR とは、社会面及び環境面の考慮を自主的に業務に統合することである。それは、法的要請や契約上の業務を上回るものである。CSRは法律上、契約上の要請以上のことを行うことである。CSRは法律や契約に置き換わるものでも、また、法律や契約を避けるためのものでもない。

これがヨーロッパの発想です。企業幹部が不祥事で頭を下げるたびに話題になる法律の遵守がCSRではなく、明示できない問題への対処がCSRのテーマになるのです。グローバルに展開するサプライチェーンによって、自国では維持する価値を他国では踏みにじるー本社のある国での人権は途上国にあるサプライヤーでも同じく尊重されないといけないーということが生じないようにするにはどうすればよいかを考えるのです。

ヨーロッパは持続可能な発展を環境保護と経済発展の両立とは考えない。環境保護と社会的一体性の維持とそして経済発展の3つが同時に成り立つことがヨーロッパの言う持続可能な発展である。

環境と経済だけが表に出やすい米国や日本との違いは、この社会問題を同等に扱うとの定義にヨーロッパの意思が表れています。EUのRoHS指令(電気電子機器に含まれる特定有害物質の使用制限に関する指令)はヨーロッパを含む世界中の産業界に喧噪を引き起こしましたがCSRの狙いを的確に読み取れば、議論のレベルをどこにもっていかないといけないかが明らかになります。本書には、「CSRマネジメント規格の議論の位置づけの日欧のちがい」という説明があります。

ヨーロッパ

社会問題への危機感→企業の責任についての議論→CSRという概念構築→経営に取り込む方策の模索→規格の必要性の有無についての議論

日本

ISOでの検討開始→CSRへの関心→過去のISOマネジメント規格に関する苦い経験→ISO規格とCSRへの警戒感

日本でのISOに関する苦い経験は環境管理システムを定めた14001や品質規格の9000を指していますが、上の経緯を見ただけでも、考え方の道筋のありかを見定めて態度を決めないと大気圏外に飛ばされてしまう可能性があることに気づくでしょう。財政問題しかりです。

Date:11/9/2

9月に入りました。そこで、『ヨーロッパの目 日本の目』に書いたエピソードを思い出します。アイルランドの友人が長い海外生活を終え、ダブリンに久しぶりに戻ったとき、両親が「9月に入ったから、そろそろクリスマスの準備を考えないとね」とつぶやきました。それを聞いた友人が、「もうクリスマス?」と季節や時間の感覚に対して大きなギャップを感じたのですが、実は小さなことでありながら、とても大きな差異の象徴的なことであったと後になって気付きます。

いわゆる年中行事や伝統行事に対するアプローチは、その土地やその習慣にどの程度「はまりこむか」が表現されています。友人の両親の世代では夏が終わり、9月に入ればクリスマスを考えることが当然だった。それだけイベントが少なかったとも言えますが、それだけクリスマスが重要なポジションを占めていたのでしょう。そして、それは家族や親せきの結束をも暗示しており、この「固さ」が友人家族にその後、窮屈な思いをさせることになります。

ある年中行事そのものが嫌いではないのに、それにまつわる「面倒」を回避するために、行事自身に消極的になるという事例です。日本でもおせち料理が嫌いではないけれど、その準備や親せきとのつきあいを考えると、正月はどこか旅先で過ごしたいという人たちがいます。欧州でも、クリスマスは相変わらず重要な家族のイベントで一緒に過ごすことが「義務」のようになっていますが、この数年感じる変化は、クリスマスの食事が終わったら、そそくさとリゾートに出かける率が高まり、なおかつ、その日が早まりつつあることです。25日に皆で集まったら、翌日は即スキー場に向かうといった具合です。

重要なイベントは維持しながら、その時間が準備も含めて短縮化されるわけです。それがイベントの濃度を上げるか?といえば、そうではないでしょう。希薄化の傾向のほうが強いはずです。年中行事はその時だけでなく、その前後の長い時間をもって成立しているのですから、その特別な日だけにエネルギーを費やし自己満足度が高くとも、本来の文脈でいうならば、「テーマパーク的」であると評されても仕方がありません。ですから、年中行事が商業的なイベントとして、さまざまに地域を越えて拡散するという現象もあります。いつの間にか、日本でもイタリアでもハロウィンが普及した様子をみると、「もっと正月とか、クリスマスの方にエネルギーを費やすのが妥当では?」とも思うことがあります。

そう、そう、何から何まで付き合っていられません。となると、年中行事も世界のいろいろなものを自分で選択して「自分流」にしている以上、必要なのは「自分にとって重要な行事に如何に長期的に向き合うか」ということかもしれません。これが「文化選択の時代」の一つのカタチなのかなとも思います。すなわち、世界にある、さまざまな習慣や考え方が、それぞれの土地にある文脈から切り離され新たな構成を図るーアラカルト的にーことを志向する人が増加したのが、20世紀後半以降の特徴であり、それを現実に可能としはじめたのが、この20年くらいなのではないか、という印象があります。

しかしながら、その自分流の「甘さ」に飽きもきて、より土地への愛着を増す方向が強くなるとの流れもあります。伝統的社会にどっぷりつかてきた人ではない人が、伝統的な社会の良さを再発見するパターンもあるし、宙ぶらりんのポジションに疲れて「地に足をつける」ことを希求することもあるでしょう。「テーマパーク」で人生を終えることはできないのです。

 

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