『ヨーロッパの目 日本の目』 の記事

Date:09/9/20

デザインを見方の重要なキーとすると書きましたが、デザインで全てを語ろう、あるいは語れるとは到底思っていません。それは経済学であれ、なんであれ、一つの分野で全てを語れることはありえない。しかし、往々にして、人は何かに依拠することで安心したいという思いがある。こういうことはあるでしょう。例えば、脳科学は今まで人類にとって未知であったことを沢山明らかにしてくれると思いますが、だが全てではないはずです。心理的な不安解消のために一つのツールに頼りすぎるのはよくない、ということです。ある専門の分野を深く知ることに意味がないと言っているのではありません。ただ、もう一つ、違った頭の使い方をしないといけない。これが重要なのです。

極めて直感的で叙述的な頭の使い方です。ぼくがこのブログでもよく書いている、一人で全体を把握するための頭の使い方です。これは専門の水平展開では間に合わないでしょう。あるいは、他の専門の人との共同でも不十分です。隣同士にある隙間により敏感であるためには、それは上空から見ないと分からないのです。知らない街のなかで、歩きながらいろいろな店をみつけて喜ぶ発見。そこで出会う人とのふれあい。これは上空からでは不可能です。歩かないといけない。絶対に。これなしに上空から眺めても、分かることは限定的です。しかし、それだけでは自分が何処までを見たか、街のどんな部分を見たかが分かりません。地図はそのために必要です。

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ここで気をつけないといけないのは、いつ地図を使うかです。新しい人との出会いで会話に夢中になっている最中に地図を広げてはいけません。具体的な現実の世界にいるときに、それを抽象化してはいけないのです。それはそれとしてあるべきで、それを他のなにかに置き換えすぎてはいけない。「ああ、それって、こういうことでしょう?」と要約しすぎるのは駄目です。「ああ、それって、よくあるよね」というと、目の前にある現実が良く見えなくなります。だいたい、それを重ねていると、「しらけた奴だ」と冷たい目で見られるのがオチです。だから地図は現実に歩く前か後に使うのです。それによって、道に迷ったときに、通りすがりの人とコミュニケーションをとるというメリットがあります。それが現実の経験を深くさせる契機になるのです。

(1)で書いた内容に対応させると、道を歩くことが「生活シーンを重視」になり、地図を見るのが「ビジネスを視座においた水平展開」になります。ここでいう水平展開は各専門の横断というより、全体そのものの輪郭を掴むという意味になります。誤解が生じやすいかもしれないので、別の適当な言葉を探すべきかもしれませんが、今はこのままにしておきます。さて、ここで問題があります。街を歩く比喩として地図を挙げましたが、実際、ヨーロッパ文化の地図なぞ存在しないでしょう。過去なら多少の輪郭が描けないこともないですが、また誰かが描いたものを参考にすることはありえますが、現在については自分が主人公になって作業するしかありません。だから、やや腰が引ける話しになります。だから、どうすれば腰が引けないか?を考えないといけないことになります。

→つづく

Date:09/9/19

個人的経験が本当に身につくというのは、どういうことを言うのでしょうか。ぼくもよくありふれた表現、「血となり肉となる」を使いますが、これが「そうだ!」とはなかなか指摘することができません。指摘できる段階では、まだ「血となり肉となっていない」のかもしれません。あることが分かるとは、あることを分かると自覚するステップを越えることかもしれません。どうして、こういうことを書いているかと言えば、ぼくがヨーロッパの文化をどう伝えるのが一番いいのかを常日頃考えているからなのですが、ぼくが自覚してない分かっていると思われることをどう見つけどう表現するか、です。これは人に伝えて指摘され初めて分かることが多いです。

まず一つ言えそうなことは、ぼくが語るヨーロッパ文化は、生活して分かることから発しています。生活するというのは、電話屋さんと口論したり、子供の学校の先生の振る舞いに怒ったり、思わぬところで道行く人から優しい行為をうけるとか、そういう24時間の全てを含みます。そして、できるだけ世間に境界線がないことではないかと思うのですが、実はそうは言っても、かなり境界内で生きています。どういう境界かといえば、いわゆる日本人駐在員の生活圏とは離れています。しかし、例えば中東や南米かの移民の人達とは仕事圏をかなり異にしています。だが息子の学校に行くと、かなり自然にそういう世界があります。アラビア語やスペイン語も交差しており、久しぶりに出かけると、日々狭い世界にいるなと痛感します。

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『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』を書くとき、ぼくが立てるポイントを考えました。世の中に数多くある「生活記録モノ」と呼ばれる本は沢山のエピソードが満載され、それらの多くはぼくも経験のないものであることも当然ながら珍しくありません。しかし、それらの本で満たされないもの、それはカバーしたいと思いました。満たされない点を救うとは、そのエピソードの数々を鳥瞰的に眺めてみることです。「ああ、トラブルにあたって大変だったね」では終わらない、個別の事例を如何に水平展開するかです。そのような本は、ヨーロッパ人と一緒になった人の手によることもあり、そのなかの経験はぼくには知らない濃さをもっていることもあります。

そして、その水平展開に目的をもつことも考えました。そして、文化調査レポートなどにある観察記、あるいはアカデミックなフィールドでの分析にある不自然さを超えること、これがぼくの課題です。「この事件は、カントの生まれた国ゆえのものだ」と今目の前にあるアクシデントに対して言われても、それは「あなたの考え方は、新井白石の国ゆえのもですね」と言われるのと同じで、「それはそういうことも言えないこともないけど、それは、確率の問題かもしれませんね」としか言いようがないです。語ったようで語っていない。ヨーロッパのことを、何でも狩猟民族とキリスト教で説明できるわけがないのです。これは避けなければいけない、そう思ったのです。目的はビジネスに何らかの面で貢献することです。

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生活シーンを重視すること、水平展開ではビジネスを視座におくこと、このような点を自分の立ち位置として想定したのですが、もう一つはできるだけ視覚化された材料も使いたいという点です。アートも一つですが、デザインのほうがより生活に近い、かつグローバルでの比較がしやすいという観点から、デザインの見方を基点にすることを考えたわけです。もちろん、ぼくがデザイン業界に足を突っ込んでいるということが大きいですが、サブカルチャー的な側面からもデザインは重要な要素キーであると思います。

→次回に続く。

Date:09/9/10

7月に「電気自動車を作るのはやさしいか?」という記事を書きました。自動車開発の要諦は、かなり前から、ハンドリング性能や乗り心地あるいはインターフェースにあり、動力源そのものではなくなりつつあったはずです。それなのに、日本では、その手前で旧式の概念にとらわれ、電気自動車が「できない理由」ばかり挙げてきました。結果、世界のスピードから遅れを取っている。そのことへの危機感を書きました。

将来的に内燃機関から電気に動力が変わるだろうと長い間言われてきて、それでも四つのタイヤでボディを支えるという形は変わらないだろうとも言われてきま した。しかし、自動車会社の囲い込みなど色々な要因がありますが、電気自動車は常に「遠い存在」でした。それが一気に現実的なレベルになってきました。三 菱自動車のEVは普通の倍近い価格ということもあり、市場は実験的な匂いを感じていますが、中国では既に通常に近い価格の電気自動車も作られ、「あれが足 りない、これが足りない。だから主流にはならない」と批判しているうちに、世の中の趨勢は思ったより早く進んでいます。

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先日の米TIMEの記事にもありましたが、中国では固定電話というステップを踏まずに一気に携帯電話が普及したと同じことが、中国で自動車で起こる可能性が高いと指摘されています。ガソリンで400-500キロ/日走るライフスタイルがない、だから150-160キロ/チャージ走行が問題とならない。そもそも不便と便利を比較するベンチマークがなく、電気自動車が自動車市場開拓の牽引になるとすれば、次に来る時代ーそれも10年先ではなく、5年以内ーが、どのような状況となるかは予想がつきやすいでしょう。

これは従来の自動車大市場である、欧州、米国、日本だけを見ていてもわかりずらいことですが、現行価格の電気自動車が中国市場で爆発すれば、欧州各国などで目標としてあげられているEVを2020年までに市場の10%とするという数は、さほどチャレンジャブルではなくなってきます。つまり、世の中は周辺の変化に注意を払わないと見えてこないという例になります。

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さて話題は変わり、民主党の大勝を巡り、「民主党が成功しない理由」を鼻高々に語る向きが多くなっています。それは簡単には短期的実績は出ないかもしれませんが、「できない理由」「やらない理由」を羅列することに一生懸命になり過ぎるメンタリティは何とかならないものかと眺めています。「期待するからこそ」と但し書きをつけている人もいますが、どうも期待をもってしばらく静観するという態度がとれない人が多く残念です。これは上述した電気自動車への取り組みと全く同じです。

ぼくは、「ヨーロッパ文化部ノート」で、このような否定が先にくることを問題視していることを書きましたが、その底にある更に大きな問題点は、複眼思考の欠如です。この二つは表裏一体というべきかもしれず、複眼思考ができないがゆえに、「できる理由」が先にこないと言えます。英米紙の報道で新しい日本を不安視しているということを、日本のメディアは過剰に反応していますが、これも、英米紙しか読んでいないからこういう解釈になるのだろうと思います。アジア諸国紙のリファーも必要ですが、ヨーロッパ大陸の各国紙がどう書いているのかくらいは(少なくても)想像して「欧米」と語ってもらいたいものです。それでも、中東やアフリカあるいは南米は見えていません。これも、「周辺」と「複眼」がキーワードになります。そのあたりのイライラが、松本徹三氏のアゴラのブログにも出ているのだと思います

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そうした感想を抱いていたところ、9月9日付け政策研究大学院大学の黒川清氏のブログ、「民主党が衆院選圧勝、それから?」という記事を読みました。必要なもつべき寛容さを説いていると思います。「今まで自民党政権であらゆる過ちを見てきたのだから、とにかく、それに対しては罰を加え、また新しい政党の過ちを経験する」という部分を強調しています。その経験自身を自覚的に活用することが、一度は過去と似たような失敗に直面しても「かつて来た同じ道には行かないだろう」という精神的余裕がもてるのではないかとも考えます。逆にいえば、その余裕なしに、日本が何らかの存在感を世界に示すことにエネルギーを注ぐには至らないでしょう。

電気自動車と民主党政権の行方は、同じ精神構造の上に任されているのです。

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