『ヨーロッパの目 日本の目』 の記事

Date:09/9/27

このブログのタイトルが「さまざまなデザイン」だから書くわけでもないのですが、生き方は人によってさまざまですから、社会や国のありようもさまざまであって良い。というより、「さまざまであるべきだ」という気持ちが強いです。最近、英国のケントに欧州他国の自己破産希望者が住み着くようになったといいます。なぜなら自己破産からのリカバリーが英国では圧倒的に早いー12ヶ月ーというのが理由で、何年も待たなくてよいのです。手っ取り早く自己破産して再生するに、大陸に近いケントに住むというわけです。また、病気の回復の見込みがたたず、自らに命を絶ちたいという英国人は、スイスに行きます。スイスでは自殺幇助が認められているのです。またドラッグ治療のためにドラッグを投与することをスイスは行ってきましたが、これは欧州各国から強い批判をうけながらも、独自の道を選びました。

フランスの外人部隊は他国での犯罪者さえも傭兵として採用します。ある国で生きれなくても、地球上のどこかに生きれる、または生き直せる場所があるというのは、人類にとってとても大事なことでしょう。もちろん犯罪者に逃げ道を常に用意すべきだというわけではなく、ある価値観が絶対的に地球全体を覆いつくすことはありえないし、そうすべきではないという意味で、これを書いています。逆にいえば、だからこそ、ある価値観を大義名分として自己を有利に持ち込むことが重要な戦略になるわけです。

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今年12月にコペンハーゲンで開催される国際環境会議で「京都議定書以降」がテーマになりますが、これに対して各国の準備が大幅に遅れているということをー特に米国を筆頭にーEUは強くアピールしています。環境政策はEUの十八番なのです。欧州委員会が定めた化学物質管理システムであるREACHや有害物質規制指令のRoHS指令はスウェーデン発の政策であるように、大義名分のより先端をいくことは市場を自ら作ることと意味します。日本のメーカーもEUのこれらの規制をクリアーしないとヨーロッパ市場でビジネスができないので、対応せざるを得ない。こうした価値と敷居でビジネスをする本家であることが、EUのブランド性を高めることになります。これもサバイバル戦略です。したがって環境問題は優れて政治的手腕が期待されるわけです。

スイスが脱税者保護に加担していると大国から批判をうけてきましたがーそして一部、スイスはその要求に折れ一部の預金口座情報を預金者の国に提供しましたがー、スイスでは脱税は違法ではないし、銀行法では銀行と預金者の関係を第一と定めており、口座情報が必要であれば国は銀行にではなく、預金者本人に聞くべきだとしてきたのです。スイスは大国相手に戦争を仕掛けても勝てるわけもないから、防御を中心として何とかやりくりして、結果的に平和であるという状況を作り出してきました。平和という概念のために中立を選んだのではなく、そうするしかなかったというのがスイスの正直な意見で、これはスウェーデンの中立も同じです。中立が一番有利と考えざるを得ないのです。

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スイスにとって重要な貿易パートナー特にスイスからの輸出ーである日本とFTAを締結し、この9月から発効しました。これが何を意味するかといえば、日本はスイスを経由すれば、スイスは既にEUとFTAがありますから、免税で日本の製品をEU諸国に輸出することができます(原産地証明が必要なので、それなりの「コツ」は必要でしょう)。これも小国ならではのサバイバルの知恵が発揮されている政策でしょう。そして、いうならば、世界の殆どの国は、このような知恵を使わないと生き残ることさえ難しい状況のなかで何とかやっていると認識すべきかと思います。

アゴラで北村氏の記事「日本は国連に過度の「幻想」を捨てるべき」を読みながら、以上のようなことを考えました。ぼくは小沢一郎のいう「国連」は言葉通りにとるべきではなく、米国の代わりに持ち出すものがないので「ましな存在」として言っているように思います。が、それはさておき、この記事のなかで氏は、日本の国連やスイスに対する幻想に警告を発しています。ぼくは、この警告は警告として意味をもつと思いますが、それらの組織や国のありようが、世の中にあるべき「混沌」ー混沌なき秩序はありえないーの一つとしてどこまで許容するのかという観点も、ぼく自身は強調しておきたいと思います。その点からすると、冒頭にあげた英国の自己破産法やスイスの自殺幇助など、いかに「さまざまであるべきか」は重要な論点になりうると思います。

Date:09/9/24

6回に渡って「ヨーロッパ文化を伝える」を書きました。僕が昨年『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』を書いたとき、エピソードの数々をもとにぼくの考え方や見方を「選択肢の一つ」として提示することに注意を払いました。見方の「決定打」というのはありえないし、「決定打」があるように振舞うことは、多くの人が「決定打を目指さなくてはいけない」という強迫観念をもっているなかで逆効果であり、誠実でもありません。「何々に役立つ」という結論に導くことには嘘があり、見方や理解の仕方というのは自分でマスターするしかないので、ぼくができるのはいくらかのヒントを提示することしかありません。だいたい、ぼく自身、「決定打」に至っているとは思っていません。確実にいえることは、一生、「決定打」に至ると思えないということです。

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最近、日本のTVドラマは暗示的なところで終わらず、最後の最後まで見せる傾向があり粋ではないと思いますが、それをやらないと視聴者が不満ということもあるのでしょう。多くの新書のタイトルが刺激的で「これで全ての謎がとける」ようなムードを放っていますが、もちろん、そんなことはありません。結局、自分でやっていくしか道はないのです。どんなに沢山本を読んでも、読んでいるだけではだめで、「あっ、これか!」と思える日常生活での経験の裏づけがないといけません。日常生活世界と本などの世界がある時点でダイナミックにインタラクティブに動き始めて、モノやコトが見えてきます。モノやコトのありようやその関係性が見えてくるのです。

ぼくが語るヨーロッパ文化は、実際のビジネス、特にヨーロッパ市場で売る商品の企画をするに際してもつべき素養について語っているのであり、アカデミックなヨーロッパ文化理解をもつべきだといっているのでありません。当然ながら、もつべきはないということではなく、もっていて無駄はないだろうが、それだけに振り回される愚は避けるべきだということです。「あの大先生が言っている話しもちゃんと理解できないのに、ヨーロッパ文化を自分なりに語るなんて無理」と思わないことです。人生の見方に60億以上のタイプがあると同じく、ヨーロッパ文化の見方も60億以上あります(ヨーロッパの存在すら知らない人たちも多数いるでしょうから、この数字は非現実的ですが)。こう表現するのはヨーロッパを知っているかどうかではなく、知らないのなら知らないなりに自分のなかでの位置づけがある。そこに出発点があるからです。

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こういう考え方でぼくはヨーロッパ文化を語り始めましたが、ヨーロッパには生活でも仕事でも関係ない人たちにも参考になる内容であると思っています。しかし、どういうふうに参考にしてもらえるのか、それを出版の後に考えてきました。米国やアジアと商売をしている人達にも参考になるということではなく、日本に生活し日本市場のみを対象とし、外国文化とも接することがほとんどない人達にどう問題提起できるか、ということです。それは、「見方の作り方」ということになるのではないか、そう思いました。これも、ある「選択肢の一つ」であり、こうすべきであるといっているわけではないです。ヨーロッパ文化の見方をぼくは、こういう風に構築しつつあり、それは対象を他に変えても、あながちピントを外れていないかもしれない・・・・という思いです。昨日までに書いた内容を箇条書きにすると、以下になります。

1)日常の生活シーンを重視する
→日々の生活経験に拠点をおく
2)但し、それをビジネス目的に水平展開する
→喜怒哀楽のエピソードに終わらない
3)そこで描いた地図の利用はタイミングを間違えないこと
→活動中に地図は不要
4)三点観測を心がける
→三ヶ国語あるいは三地域を定点にもつ
5)一人だけで見ることに拘る
→メンタリティとして他人の見方に依存しない

世の中に情報は十分あります。しかし、それを自分の経験にひきつけて語ることができないと、その情報を使いこなしたことになりません。逆にこれができると、「どこかに正解があり、それを明快に語れる人がいるのではないか・・・」という恐れにも似た強迫観念から脱することができます。これは専門家を軽んじるということでなく、専門家とは「あることの専門家でしかない」という単純な事実認識をすることです。

以上のようなことを、来月、日本で行ういくつかの勉強会の主題にしようかと検討しているところです。

Date:09/9/23

ヨーロッパ文化をおさえるにあたり、生活シーンを重視し、しかし、そこの喜怒哀楽でエピソードを終えるのではなく、それをビジネスー最終消費財の企画や販売ーにつなげていくことが重要で、そのためには大枠の地図を自分なりに作っていくことが大切であると書いてきました。自分なりの地図なのですから、自分の経験と見方の検証の積み重ねで作っていくわけです。ですから自分一人で見切ることが必要で、どこかにいる会ったこともない人がどんなにすばらしい専門家であろうと、その人の意見を参考にしながらも精神的に依存することは避けなければいけません。その人が自分と同じシチュエーションであることはほぼありえないのですから、自分を中心に考えるべきです。

ただ、三点観測は心がけるべき点で、言葉でいえば、日本語、英語、それともう一つの言葉で世界をみることを指します。それができなければ、少なくても地域の三点観測ーたとえば同じ情報を日本、アメリカ、ヨーロッパでどう報道しているかをみるーことが重要です。アメリカは多極化のなかでも外せない地域ですから、このアメリカをどう脇から眺めるか?いや、眺める事ができるか?が腕の発揮のしどころでしょう。これができてくると、日本で伝わっている海外情報の多くがいかにアンバランスなものであるかが分かってくるはずです。

デザインは視覚化された情報として使えると書きましたが、現在、特に電子デバイスのインターフェースなど認知科学的側面からの把握は有効性が高くなっています。思考の流れや癖が文化ごとに違うことが、こうしたインターフェースを通じて見えてきます。これは生活で見えてくる文化差と表裏一体となっていることもあり、要注目です。でもだからといって、従来の工業デザインでみえる領域を相対的に軽く見るわけではなく、両方を同時に観察することで自ずと把握できる地平に鍵が隠されていると想定してよいと思います。つまり、電子デバイスのインターフェースに文化差がでますが、ユーザー層や年齢層による要素が文化を隔てて共通にでることもあるので、逆に非電子デバイス系の商品に根強い文化差がでる傾向もあります。

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ヨーロッパ文化を日本人であれ誰であれニュートラルに見ることは難しく、ニュートラルではないところに意味があると思ってよいでしょう。あくまでも日本との比較で見ることに意味があり、そのうえで、自国文化ーこの場合は日本文化ーの再定義を検討することが発信の第一ステップになります。コンテンポラリーアートの村上隆が、日本美術の伝統を語り、自分がその後継者であるとする筋道を作るに伊藤若冲(上図)を使うのは、とても戦略的再定義です。いわゆる侘びさび的な世界とは乖離しているアウトローを自分の味方に引き入れることによって、日本美術の枠を編成したのです。イタリアにある陶器メーカーのCOVOは、いわゆるオリエンタルな商品を作るにあたり、日本人デザイナーを採用しています。ここでできたものも、日本では違和感があるデザインかもしれませんが、ヨーロッパ人が思い抱くオリエンタルにマッチすることでヒット作品(下図)になっています。

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この日本人デザイナーはロンドンのRCAを卒業していますが、ヨーロッパ文化をよくスタディしたうえで売れる作品を作ったと思います。日本で日本人が美味いと喜ぶ日本料理と全く同じ料理をヨーロッパで表現しないといけないと思い込むのは、ある意味、傲慢であるかもしれません。中国人が作る寿司を「ヨーロッパで喜ばれる寿司」とみなし評価することが、文化的素養のあり方でしょう。東京にある多くのイタリア料理が日本向けにローカライズされている現状を冷静に認識してこそ、ヨーロッパ市場にあう日本の料理や工業製品の開発がまともに考え始めることができるのだということです。

自分の立場と見方をじょじょに確立していく大切さを、ヨーロッパ文化を例にぼくは語った・・・・と思っていただければと願っています。

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