『ヨーロッパの目 日本の目』 の記事

Date:09/11/27

今週、ミラノの工科大学で数人でミーティングをしているとき、「学術誌に載せるテクニカルパーペーで重要なのは、ディスカッションポイントだ。テストの目的や方法の記述ももちろん大事だが、このペーパーでどんな方向で議論できるかを色々と示すことがさらに重要視される。それが日本とヨーロッパの大きな違いだ。日本でディスカッションポイントは、そのような扱いを受けていないことが多い」という発言がありました。ヨーロッパ各国での研究経験が豊富な日本人エンジニアの言葉です。「だから、今までのテスト結果を使って、これがどう世に問えるかを早く示すことを優先すべき」と言葉が続きます。

これは二つの点で示唆的です。「ある事柄に対して120%十分なテストデータが出し切れる人は世界に誰もいない。したがって、このエリアは自分がイニシアチブをとると早く宣言をするのが勝ちである。これまでのデータで何がカバーでき、何がカバーできておらず、しかし、こういう方向とああいう方向の発展的議論が可能であるとヴィジョンを示すことができれば、有利な立場にたてる。それを第一優先にすべきだ」ということは、あるエリアで主導権をとるには、価値体系のありかを提案することが重要であるということになります。しかも、そこでいう価値体系とは、徹底した緻密さよりも、多くの人の考えを包括できる幅の広い。が、方向性だけは複数あっても明確なものということになります。

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今日、朝日新聞グローブでの一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授の石倉洋子さんの「ダボス会議は見に行くところではない」を読んでいて、上述との重なる部分を考えました。ぼくがここでよく書いている「全体性を掴む」ということが如何に大切かを、石倉さんは、以下のように書いています。

いま、世界級の人材に求められている能力とは何か。特定の分野について最新の情報を集めることは、グーグルなど検索エンジンを使えば、高校生でもできる。 必要なのは、いくつもの分野を横断的に俯瞰して判断すること、細部にとらわれず広い視点から考えること、断片的な情報から大きな構想をまとめること、全く 別の分野からアナロジー(似た事例)を探して新しい解決案づくりのきっかけにすることである。

これは全体を鳥瞰的にみれないと、価値体系の勝負どころが分からないということでもあります。勝負で有利に立つ、それも長期戦で有利に立つのは、ディテールの繋ぎ合わせでの評価ではなく、コンセプトの統合性で立ち向かわないといけないということです。よく日本のメーカーはモデルが多いと言われます。クルマも同じ会社のものとは思えないくらいに多い。そこで「何故、メルセデスやBMWのように、ブランドの統一感を図ってサイズで変化をつけていくことをしないか?」と日本メーカーに問うと、「彼らは、モデルが少ないからできるのだ。我々のように沢山のモデルを扱っていると、そうした統一性は出せない。いや、そうしたバラバラさことに、我々のアイデンティティがあると言って良い」と答えが返ってきます。

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要注意! この回答には、「我々はブランドをきちんと構築する思想に欠けていたので、結果的にこれだけモデルが増えたのだ」という反省点がありません。バラバラさの正当性の主張は言い訳であり、たまさかアジア的迷路が想起するカオスの魅力を味方につけて、事なきを得ようという気配を感じます。で、実際、ヨーロッパの人達に本音を聞いたとき、アジア的カオスが日本ブランドの良さであると積極的評価をすることはほぼありません。「ブランドとは思想であり考え方である。視覚化されるものはごく一部の結果であり、考え方を人々の頭に痕跡として残していくものである」と認識している人達に評価してもらうには、価値体系の構成が肝であることを知らなければならず、そこで、全体性です。

ダボス会議は、世の中に世界の課題を指し示す役割は果たす。だが、一つの解決策で意見がまとまることはほとんどない。

したがって、上記のようになるのです。それが世界のありようです。具体的な方法論ではなく、お互いがどこを見ようねと確認することに優先順位が高く、よって、そのなかでよりヴィジョン性の高い視点や価値体系を提示できた人が、次の具体的なレベルにおいてもリードすることができるのです。「そういう大局的で抽象性の高い話はごめんだ。具体的な段階になったら参加するよ」というのは、試合を初めから放棄していることと同義です。

Date:09/11/10

何事も議論は白熱しないと意味がありません。さまざまな無知がコトを混乱させようが、その無知を生む土壌を発見することにも意味があり、どの意見に意味があり、どの意見に意味がないとは言いがたいものがあります。だから、どんどんと発言すればいい・・・・と思ったのは、日経ビジネスオンラインの記事をまとめて読んだ感想です。バシバシと事実を暴いていかないことには、話しが進まないからです。

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11月4日の「実は“下り坂”のジャパン・アニメ~騒いでいたのは関係ない人たちだけ関係ない人の自己満足コールド・ジャパン症例〈自己満足〉型」と11月10日の「世界が驚くほどの巨大な「殿堂」を作れば良かった?そろそろ、「送り手のエゴ」から「受け手のエゴ」へ」の二つを読みました。前者はコメントが74もついていています。話題は海外市場における「クールジャパン」「アニメ」「漫画」の位置と受け方です。この類の話で衝突する原因の一つは、視点の高さと低さ(広さと狭さ)の設定です。要するに「オタク」は正統的ユーザーと見なすかどうかがまず問題になり、その経済的規模が他産業(あるいは他国の競合)と比べて適正な数字をもつかどうかです。そして、サブカルチャーの規模と位置判断もキーになります。

一方で、こういうのは文化商品であるため、クルマや家電とは違う難しさがあるという指摘も多々あり、クルマや家電の文化性の問題を無視しているというか、多分、単に知らないのだと思います。そこに状況の全体を見切れない要因があります。文化問題としてみる範囲が非常に限定的ゆえ、議論がどうしてもギクシャクします。経済と文化をまったく分離したごとくにみる見方にも無理があります。しかし、ぼくがこれらの記事と多くのコメントを読んでいて思ったのは、「何のためのアニメや漫画なの?」という疑問です。

Cycl

日本のアニメや漫画は質が良いという表現が散見しますが、何の質がいいのか?がよく分からない。職人的な技術を指していることもあるようですが、これらの商品の質の良さとは何を指すのかが理解しがたいのです。映画や音楽が職人的技術だけで世界市場をとることは困難だと想像しますが、アニメや漫画は違うといいだけなところが気になります。コンテンツ産業はストーリーやアイデアあるいはコンセプトで勝負するはずだと思いますが、どうもそういう視点が「薄い」ように見えてしかたがありません。

議論を表現形式のレベルにとどめるなら、その市場性や経済規模を云々すること自身が滑稽だし、肝心の中身で勝負することを指すなら、二勝一敗などは望むべくもなく、一勝十敗以上の世界ではないかと思います。日本の文学作品の市場性と比較すればゼロの数が断然に違うでしょうが、アニメや漫画に、そもそもその中身に圧倒的な強さがあるのかどうかをもっと問うべきだろうと考えます。そのうえで、戦略が語られてしかるべきです。

「長期戦は思想の確立で勝つ」でモノのビジネスでも哲学性が重要で、考え方を人に伝播するというミッションが一番長期的市場性をもつことを書きました。西洋クラシック音楽がいまだ大きなビジネスをしている(できている)のは何故なのか。以前、ヨーロッパ文化部ノート「ドイツが仕掛ける(?)バイオリン市場」で、ドイツにおける古いバイオリンへの拘りが、クラシック音楽ビジネスと何処かで繋がっているのではないかとの自問を呈しましたが、クラシック音楽をバックから支える思想性に思いを馳せるとき、日本のアニメや漫画などが長期戦で勝つために何をしなければいけないか、それはかなりはっきりと見えてくるものがあるはずです。

<11月11日追記>

日経ビジネスオンラインに「アニメは次の成長モデルを作れるか?」という記事が掲載されたので、この記事をリファーしたエントリーを「ヨーロッパ文化部ノート」に「日本の文化産業を考える」として書きました。

Date:09/11/3

約1ヶ月の日本滞在を終え、今週末にミラノに戻ります。この1ヶ月ヨーロッパ文化やビジネスのことを話してきましたが、その「媒体」としてデザインを多く使ってきました。かつてハイカルチャーの美術を介してヨーロッパを語ることはあっても、サブカルチャーとしてのデザインを通じてデザイン関係者以外にヨーロッパ文化を語りかけるという試みが少なかったように思います。デザインという視覚化され日常生活に密着しているフィールドを基にすることが、文化理解の及ぼす範囲を大きく広げてくれるのではないかと考えたのです。

それは、今もそう思っていますが、それだけでは足りないということも考えています。デザインはデザイン関係者にはもちろん通じるツールですが、デザイン関係者以外には、クラシック音楽やファインアートと同じく、「ピンとこない」世界です。橋本潤さんの椅子を「これはオリエンタルな軽さである」と表現しても、一度もデザインを真正面から考えたことのない人にはやや距離感があります。「日本では最初に全体のカタチを考えず、ディテールからはじまるが、西洋では最初にコンセプトと全体のカタチを考え、そこから分割したディテールを追っていく」という話も、パリの街の写真と、近所の商店街の写真を見比べて「あっ!」と思うものです。

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日々の生活に近接している話題であるとぼくが思っても、それは勝手な思い込みであることもままあります。それに対して、料理や味の話をすると首を大きく縦に振ってくれます。ぼくが「ユニバーサルとは言葉で納得できることを指し、(ある程度のビジネスの世界では)心でそのまま通じ合えるとは思わないことだ」と話すと、首を傾げる方ができてますが、「子供が小さいときから、刺身を美味しいといってパクパク食べますか?うになんか、かなり難題でしょう。外国人で寿司を食べた瞬間に美味いと思う人はどれだけいると思いますか?」というと、「そうか・・」と思ってくれます。すべからく学習の成果によって「美しい」「美味しい」という評価ができていることを忘れている方が思いのほか多いのです。

ここでいう学習とは一人一人の生き様の結果であり、どこかに「学習指導要綱」があるわけではありません。何度も書いているように、現状とはどこかにある秩序だった世界にあるのではなく、あなた自身を含む世界であり、あなた自身の解釈と定義によって成立するものです。寿司を美味しいと思い、そう語る。寿司はやはりまずいといって、そう語る。これが現状のシンボリックなあり方なのです。「寿司は美味しいといわなくてはならない。さもないと無粋とレッテルが貼られる。それは日本人として恥ずかしい」と思わないメンタリティが大事なのです。ちなみに、ぼくは寿司が大好きですが・・・。

アゴラにピンとくるコラムがありました。以下、引用しておきます。自分の舌を徹底して信じることです。

経典主義者たち(「受験エリート」といいかえてもいいかもしれません)による、不毛な「模範解答探し」を聞き及ぶにつけて、私は量子物理学者、リチャード・ファインマン博士の次の言葉を思い起こし、時には安易な道に進みかねない自分を戒めています。

「私は迷うこと、不確かなこと、そして無知を恐れない。知らないことに囲まれて人生をおくる方が、間違っているかもしれないことを信じて生きるよりも、よっぽど楽しい。」

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