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	<title>さまざまなデザイン &#187; 『ヨーロッパの目 日本の目』</title>
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	<description>ヨーロッパの目</description>
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		<title>松嶋菜々子主演『家政婦のミタ』をみる</title>
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		<pubDate>Sun, 20 Nov 2011 13:18:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>

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			<content:encoded><![CDATA[<p>このドラマ、毎週、視聴率がぐんぐんと伸びているそうです。松嶋菜々子演じる家政婦ミタがまったく笑みや感情を出さず、ロボット的に仕事をこなしていく。ミタは崩壊した家庭に派遣されているのですが、その家の各メンバーがそれぞれ勝手に自分の気持ちを「正直」に表現し、ダイレクトにミタにいろいろな依頼をすると、ミタは「承知しました」と受けていくのです。それで、<strong>「小さな（？）正直」は「大きな破綻」をどんどんと製造していきます</strong>。</p>
<p>透明性ーものごとは隠すことなくガラス張りにするほうが良い。暗示的であるより明示的であるべきだ。説明責任が常に問われる。その時々の感情は抑えるべきではないーという言葉が世の中を闊歩するなかで、それが一方通行的に進むことが適切なのか？というテーマが、ここで問われているのではないかとぼくはみます。今や、情報提供のプレッシャーが非常に強いです。数々の企業不祥事などからの反省も当然の成り行きながら、「ガラス張り」があるゆる局面においてベストチョイスなのか？といえば、そうとも言えないことが多々あります。一生隠し通したほうが全体の幸せを作ることもあります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/dca75efa8ce143a931dd30d4755940df.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4645" title="ｔ" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/dca75efa8ce143a931dd30d4755940df-169x300.jpg" alt="" width="169" height="300" /></a></p>
<p>この月曜日、日本に来ました。その翌日、赤坂のインターコンチネンタルホテルでアリババのサプライヤーＤＡＹがあり、およそ４５０人を前にローカリゼーションマップについて講演する機会がありました。そして他の方のパネルディスカッションを聞き、お会いした方たちと話していて、ネット上だけで異文化市場を読む難しさを考えました。難しいが、経済的リターンが即見えないところでネット上の情報に頼るしかないパターンが非常に多い。よって、「だからリアルな経験が必要なんだ！」とは言わない道を探さないといけません。ネット上には有象無象の情報－このブログも！－が徘徊していますから、どのように実態に近い情報に出会うかー出会えるかーは成功への分岐点になります。</p>
<p>この問題は昨日の勉強会「<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/4569">インフォグラフィックにみる文化差</a>」でも提示され、面白い表現が目につきやすいということと、第一次情報から含めて信頼に足るレベルであるかどうかは別問題であり、現状、ここに多くの「穴」があることが浮き彫りにされました。情報の受け手が「分かりやすさ」「伝えやすさ」「共感のされやすさ」を重視すればするほど、本来かえりみられるはずの情報そのものの質の検証作業が遠のくというパラドックスに陥っています。定量情報ならよく、定性情報により不安だと述べる前のレベルで、そもそも情報がどのアングルから把握されたものであるかの確認が習慣化されていないのです。<strong>眼前に提示されている情報の「裏読み」の仕方を学ぶ必要</strong>があります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/6.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4646" title="6" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/6-300x261.jpg" alt="" width="300" height="261" /></a></p>
<p>ヨーロ危機およびイタリアの現況について多くの人から質問を受けますが、今回の問題の一つに、やはり透明性が挙げられています。たとえば、イタリア社会全体の「暗示的表現」を批判することを、英国の雑誌「エコノミスト」は大きな役割として任じている感がありーそれは対日本もそうですー、今回のイタリアの市場の「売り」は、まんまとその批判のツボにはまっています。イタリアの社会が変わらなければいけない点もたくさんあるのは当然ながら、批判の尻馬に乗るのも愚かではないかと考えています。それは、ユーロの優等生であるドイツを一方的に絶賛するわけにもいかない躊躇がアングロサクソン系雑誌ゆえに見られるからです。ここに「裏読み」が不可欠だと思います。</p>
<p>第一次情報が自分で経験したことであったとしても自分の視座には自覚的でないといけませんが、だれがポストしたかまったくわからないネット上の情報をどう選択していくは、前述したように、今を生きるに大きなテーマです。だからこそ、<strong>信頼を獲得したいとの思いが強い発信者は情報提供過多に陥ります。そして、多くの矛盾が指摘されて墓穴を掘る可能性が高くなります。が、その矛盾こそが信用できるとみる受信者もいますから一概に否定はできません</strong>。しかしながら、少なくてもこの構図を常に意識しないといけません。たまに軌道をはずしながらもなんとか全体的な信頼を得ていかないといけないーちょっとTwitterでクリティカルな反応を受けても気にしないで全体像をより確実なものにしていくー根拠をどう自分で強いものにしていくかが「鍛錬」の目標になります。</p>
<p>ミタが派遣されている家庭のメンバーは、ミタにそのような「鍛錬」を目的としたトレーニングを受けているのではないか・・・とみると、ドラマとしてはつまらないか（笑）。</p>
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		<title>藤井敏彦『ヨーロッパのCSRと日本のCSR』を読む</title>
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		<pubDate>Sat, 22 Oct 2011 22:36:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[ヨーロッパの財政危機を巡る日本国内でのコメントや意見を耳するたびに、相変わらずＥＵ認識にずれがあるなあと思います。まるで経済的な動機でＥＵが成立したかのような前提で論議されていることが非常に多いのです。ＥＵはエリートの産 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ヨーロッパの財政危機を巡る日本国内でのコメントや意見を耳するたびに、相変わらずＥＵ認識にずれがあるなあと思います。まるで経済的な動機でＥＵが成立したかのような前提で論議されていることが非常に多いのです。ＥＵはエリートの産物であるがゆえに経済的ロジックに嵌るはずがなく、統合の考え方は地に落ちていくのが当然であろうとでも言いかねない勢いです。言うまでもなく統合の出発点にあるのは、何世紀にも渡っていったいどれだけの人たちが終わりのない復讐に命を落としたのか？　戦いで流してきた血を止めるしか生きる道はないとの覚悟がすべての根底にあります。ヨーロッパ統合のコンセプトが破綻しないための経済的な括りが共通通貨に表現されていると考えるのが妥当でしょう。</p>
<p>何か前向きなことが生じると一斉にヨーロッパの将来を語りはじめ、少しでも暗部が露呈するとすべてが終わりのようなシナリオに夢中になりすぎる。短い期間をとっても、２００７年のリスボン条約締結以降の日本の書店のヨーロッパ関係の本棚を観察すれば、そのあたりの節操のなさがよく分かります。ヨーロッパが市場として規模が大きいかどうかではなくー北米より大きいが言語が細分化されて面倒との見方をする企業が多いー、「こういう考え方をしたらどうだろう」との提案をするヨーロッパの動向を定点観測しておく意味がよく理解されていない。すなわちは<strong>世界の思潮を見極める大きな要因をフォローせず、世界各地で起こる一現象に振り回される確率が増えるという悪循環に陥っています。世界を動かすメカニズムのキーの一つがヨーロッパにあるのに見過ごしているといえます。新興国の台頭で米国も含む西洋社会は凋落の傾向にあってでも</strong>、です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/10/Europe_mosaic.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4595" title="Eur" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/10/Europe_mosaic-300x210.jpg" alt="" width="300" height="210" /></a></p>
<p>一例がここにあります。「２１世紀はモラルの時代になる」と一部の人たちの間で前世紀から語られてきました。明示的なルールではないレイヤーでの勝負とは言わない「紳士的な振る舞いでの「勝負」」が重要視されるだろう、と。実は、それが目に見えない机上の理想論ではなく、現実の世界に浸透しはじめているのがCSR (Corporate Social Responsibility ＝企業の社会的責任）ということになります。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">CSR とは、社会面及び環境面の考慮を<span style="color: #ff0000;">自主的に業務に統合する</span>ことである。それは、<span style="color: #ff0000;">法的要請や契約上の業務を上回るもの</span>である。<span style="color: #ff0000;">CSRは法律上、契約上の要請以上のことを行うこと</span>である。CSRは法律や契約に置き換わるものでも、また、法律や契約を避けるためのものでもない。</span></p></blockquote>
<p>これがヨーロッパの発想です。企業幹部が不祥事で頭を下げるたびに話題になる法律の遵守がCSRではなく、明示できない問題への対処がCSRのテーマになるのです。グローバルに展開するサプライチェーンによって、自国では維持する価値を他国では踏みにじるー本社のある国での人権は途上国にあるサプライヤーでも同じく尊重されないといけないーということが生じないようにするにはどうすればよいかを考えるのです。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">ヨーロッパは持続可能な発展を環境保護と経済発展の両立とは考えない。環境保護と社会的一体性の維持とそして経済発展の３つが同時に成り立つことがヨーロッパの言う持続可能な発展である。</span></p></blockquote>
<p>環境と経済だけが表に出やすい米国や日本との違いは、この社会問題を同等に扱うとの定義にヨーロッパの意思が表れています。EUのRoHS指令（電気電子機器に含まれる特定有害物質の使用制限に関する指令）はヨーロッパを含む世界中の産業界に喧噪を引き起こしましたがCSRの狙いを的確に読み取れば、議論のレベルをどこにもっていかないといけないかが明らかになります。本書には、「CSRマネジメント規格の議論の位置づけの日欧のちがい」という説明があります。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">ヨーロッパ</span></p>
<p><span style="color: #000080;">社会問題への危機感→企業の責任についての議論→CSRという概念構築→経営に取り込む方策の模索→規格の必要性の有無についての議論</span></p>
<p><span style="color: #000080;">日本</span></p>
<p><span style="color: #000080;">ISOでの検討開始→CSRへの関心→過去のISOマネジメント規格に関する苦い経験→ISO規格とCSRへの警戒感</span></p></blockquote>
<p>日本でのISOに関する苦い経験は環境管理システムを定めた１４００１や品質規格の９０００を指していますが、上の経緯を見ただけでも、考え方の道筋のありかを見定めて態度を決めないと大気圏外に飛ばされてしまう可能性があることに気づくでしょう。財政問題しかりです。</p>
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		<title>クリスマスへの準備の月がやってきた</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/4470</link>
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		<pubDate>Thu, 01 Sep 2011 21:48:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>

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		<description><![CDATA[９月に入りました。そこで、『ヨーロッパの目　日本の目』に書いたエピソードを思い出します。アイルランドの友人が長い海外生活を終え、ダブリンに久しぶりに戻ったとき、両親が「９月に入ったから、そろそろクリスマスの準備を考えない [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>９月に入りました。そこで、『ヨーロッパの目　日本の目』に書いたエピソードを思い出します。アイルランドの友人が長い海外生活を終え、ダブリンに久しぶりに戻ったとき、両親が「９月に入ったから、そろそろクリスマスの準備を考えないとね」とつぶやきました。それを聞いた友人が、「もうクリスマス？」と季節や時間の感覚に対して大きなギャップを感じたのですが、実は小さなことでありながら、とても大きな差異の象徴的なことであったと後になって気付きます。</p>
<p>いわゆる年中行事や伝統行事に対するアプローチは、その土地やその習慣にどの程度「はまりこむか」が表現されています。友人の両親の世代では夏が終わり、９月に入ればクリスマスを考えることが当然だった。それだけイベントが少なかったとも言えますが、それだけクリスマスが重要なポジションを占めていたのでしょう。そして、それは家族や親せきの結束をも暗示しており、この「固さ」が友人家族にその後、窮屈な思いをさせることになります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/09/13205046_1-Foto-di-Taormina-mare-Letojanni-affittasi-settembre-delizioso-trivani.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-4477" title="m9" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/09/13205046_1-Foto-di-Taormina-mare-Letojanni-affittasi-settembre-delizioso-trivani.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a></p>
<p>ある年中行事そのものが嫌いではないのに、それにまつわる「面倒」を回避するために、行事自身に消極的になるという事例です。日本でもおせち料理が嫌いではないけれど、その準備や親せきとのつきあいを考えると、正月はどこか旅先で過ごしたいという人たちがいます。欧州でも、クリスマスは相変わらず重要な家族のイベントで一緒に過ごすことが「義務」のようになっていますが、この数年感じる変化は、クリスマスの食事が終わったら、そそくさとリゾートに出かける率が高まり、なおかつ、その日が早まりつつあることです。２５日に皆で集まったら、翌日は即スキー場に向かうといった具合です。</p>
<p>重要なイベントは維持しながら、その時間が準備も含めて短縮化されるわけです。それがイベントの濃度を上げるか？といえば、そうではないでしょう。希薄化の傾向のほうが強いはずです。年中行事はその時だけでなく、その前後の長い時間をもって成立しているのですから、その特別な日だけにエネルギーを費やし自己満足度が高くとも、本来の文脈でいうならば、「テーマパーク的」であると評されても仕方がありません。ですから、年中行事が商業的なイベントとして、さまざまに地域を越えて拡散するという現象もあります。いつの間にか、日本でもイタリアでもハロウィンが普及した様子をみると、「もっと正月とか、クリスマスの方にエネルギーを費やすのが妥当では？」とも思うことがあります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/09/mare-settembre.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4478" title="m91" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/09/mare-settembre-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>そう、そう、何から何まで付き合っていられません。となると、<strong>年中行事も世界のいろいろなものを自分で選択して「自分流」にしている以上、必要なのは「自分にとって重要な行事に如何に長期的に向き合うか」ということかもしれません</strong>。これが「<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110620/221021/">文化選択の時代</a>」の一つのカタチなのかなとも思います。すなわち、世界にある、さまざまな習慣や考え方が、それぞれの土地にある文脈から切り離され新たな構成を図るーアラカルト的にーことを志向する人が増加したのが、２０世紀後半以降の特徴であり、それを現実に可能としはじめたのが、この２０年くらいなのではないか、という印象があります。</p>
<p>しかしながら、その自分流の「甘さ」に飽きもきて、より土地への愛着を増す方向が強くなるとの流れもあります。伝統的社会にどっぷりつかてきた人ではない人が、伝統的な社会の良さを再発見するパターンもあるし、宙ぶらりんのポジションに疲れて「地に足をつける」ことを希求することもあるでしょう。「テーマパーク」で人生を終えることはできないのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>グランパレのモネ回顧展＋ベルサイユ宮の村上隆展</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3738</link>
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		<pubDate>Tue, 07 Dec 2010 13:54:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[のっけから本音で書きますが、パリのグランパレで開催中のモネ回顧展は抜群に面白いです。一人のアーティストの人生の作品をこうやって展示すると、最高の知的刺激を提供できると証明するモデルといえるでしょう。かなり大袈裟な表現です [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>のっけから本音で書きますが、パリのグランパレで開催中のモネ回顧展は抜群に面白いです。一人のアーティストの人生の作品をこうやって展示すると、最高の知的刺激を提供できると証明するモデルといえるでしょう。かなり大袈裟な表現ですが、それだけの興奮を与えてくれる展覧会でした。「既にどこかの美術館や本でみた作品だから・・・」と思うと間違えます。既にみたことのある作品に近い、しかし微妙に異なる作品が複数ならんだ時、「あっ！モネが狙っていたのは、これだったのか！」と動的に把握できます。<strong>ある作品を凝視して自分の想像力で、その作品がより大きい存在になる・・・しかし、それは他の有名な作品とは面で繋がらない。そこにちょうどはまる面を構成するさほど有名ではない作品が挟まると、とてもダイナミックな世界が展開する</strong>。こういう経験の連続を、この回顧展で得ることができました。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/gpdp.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3739" title="gpdp" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/gpdp-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>ある世界（観）を理解するには一定以上の圧倒的なインプットが必要であると思いますが、量もさることながら、面を形成する重要なポイントの選び方がエッセンスとしてあるのだと痛感しました。人の構想とは連続的なインプットによって作られ、それらは本人にとって必ずしも明確である必要はないのです。明確とは記憶に鮮明に残っているという意味で使っており、即ち、鮮明な記憶で構想が成立するのではないということです。しかしながら、どこかの分岐のしるしはきちっとおさえておかないといけない。それが「面を形成する重要なポイントの選び方」だと思います。モネは日本の浮世絵などを２５０点以上コレクションしていたそうですが、それが、二次元表現や同一素材を多角的にみる決定的な契機となったかどうか。影響を受けたでしょうが、モネがそう考えた方向性は他の種類の経験との複合と統合によって意識したのだと想像します。それが自ずと見えてくるようになっているのが、この展覧会の凄さです。<strong>「あなたにとっての一冊の本は？」という馬鹿馬鹿しい質問には、モネは絶対無視したであろう</strong>と思います。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/pdv.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3740" title="pdv" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/pdv-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>モネや同時代の画家たちがかように日本美術にヒントを得ていたとすると、<strong>村上隆はモネがそのようにヒントにする元ネタを揺り動かすことによって、西洋美術史に自分の居場所を「作り出した」アーティスト</strong>であるといえます。新奇なサブカルネタでハイアートに持ち込むという説明のしかたもあるでしょうが、ベルサイユ宮の展覧会を見ながら、これはベルサイユ宮の文脈の評価をあげるために開催されたイベントだと考えました。宗教の時代であり、国家権力の時代であれ、美術はその時代のコンテクストに嵌るように作品を作ることを要請され続けてきた。その時々、特に２０世紀後半以降の西洋においてアーティストが決定権をもつスペースは広がったかもしれません。しかし、それは社会のストラクチャー自身の変化であり、アートだけが特権をもったとも言いがたいでしょう。この村上隆の展覧会は、この「アートだけが特権をもったとも言いがたい」ということがよく表現されています。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/pdvm.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3741" title="pdvm" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/pdvm-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>だから、村上隆の作品が１７世紀のバロック様式に合うかどうかを議論すること自身が、ある意味、おかしいのです。あうべく企画された展覧会が合わなかったという意見はありますが、この展覧会を合わないというにはかなり難しいと僕には思えます。合ったと言った上で批判するところは批判するのが、この展覧会のフィードバックとしてポジティンブな考え方ではないではないかと感じました。グラスファイバーやプラスチックという材質が、あの空間で同じような質感をもてることとか、村上作品で使われているカラーが宮殿で使用されているカラーと相似であるとか、コンセプトが両者において近い方向を示しているとか、そのような指摘ができます。が、どうもそう言っていることがチマチマしているように思われ、この展覧会の底流にある部分をロジカルに理解していないと全てがちぐはぐな姿にしか見えない・・・・という観点において、「裸の王様」であるかどうかーそれは村上作品のみならずベルサイユ宮殿そのものも含めーのきわどいポイントを衝いていることを挑戦的に見せている展覧会である・・・と思います。</p>
<p>これは、あの場所で実物に接しないと思えない感想であったと実感している最中です。</p>
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		<title>「ローカリゼーションマップ」のメモ</title>
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		<pubDate>Wed, 01 Dec 2010 17:15:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>

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		<description><![CDATA[１０月から日経ビジネスオンラインに連載している「ローカリゼーションマップ」ですが、どういう基準で取り上げる材料を選び、どういう心積もりで書いているかメモしておきましょう。取材で記事にできそうな内容であることは現実的な問題 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20101115/217100/">１０月から日経ビジネスオンラインに連載している「ローカリゼーションマップ」</a>ですが、どういう基準で取り上げる材料を選び、どういう心積もりで書いているかメモしておきましょう。取材で記事にできそうな内容であることは現実的な問題としてありますが、まず、<strong>なるべく日常生活に近いモノやコトであることが第一</strong>です。食品、歯ブラシ、言葉、白物家電をテーマとしてきたのは、そういう理由によります。異文化を理解するにあたり、自分とあまり縁のないモノやコトを扱っても親近感がもてないだけでなく、やはりその差異に気づきずらいのです。異文化で生活をしたことのない人は特にそうでしょう。なんとなく思うだけでなく、「そうか！」とわかってもらうに日常性に近いことが有用です。</p>
<p><strong>その業界ではかなり一般的である知識でありながら、その他の業界の人には新しく汎用性がある情報となる可能性があることが第二</strong>にあげられます。したがって当該業界の人には耳新しいことではない内容かもしれません。およそ当該業界で新しいことを書く理由が「ローカリゼーションマップ」にはあまりなく、それがある程度「動いてきて」意味をもつことを観察することが重要だと言っておきましょう。何度もこのブログで書いているように、<strong>視点の持ち方こそが肝</strong>です。どんなにも平凡なネタからも有効な見方を獲得するか、これを心がけています。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/278626157_ffb7f5f7f6.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3730" title="pdv" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/278626157_ffb7f5f7f6-300x284.jpg" alt="" width="300" height="284" /></a></p>
<p>これは材料の選択基準ではないのですが<strong>、第三の点として、記事にするにあたりネタについて勉強し過ぎないようにしています</strong>。「ローカリゼーションマップ」の趣旨は、一人で多くの業界をざっと見渡して概観を掴むコツを得ることを目的としている以上、いちいち各業界の勉強をしていては意図に反することになります。少しは情報を眺めますが、あまり深入りしないようにしています。<strong>好奇心から生まれる質問だけでカバーできるよう</strong>に努めています。</p>
<p><strong>第四のポイントは、第三点とも絡みますが、差異の背景などについて原因を過去に遡り過ぎない</strong>ことです。「それは狩猟民族の末裔だからだ」「我々農耕民族はそういう習慣がない」というような説明は一切排除するようにしています。それは血液型での性格判断や星占いと似たところがあり、必ずある部分の説明はでき、何となしに楽になった気になります。しかし、結果において何も説明していないと考えます。いまや５年先でさえ長期的とみられる時代です。２－３年でどんどんと変化することの時代だから、その底に流れる変化をしない部分を見つけるのが重要です。しかし、それが２０００年以上では過度です。<strong>歴史を知る重要性を否定するのではなく、適切な歴史の使い方に習熟すべきだ</strong>と思います。</p>
<p>これが、いわば心がけです。これに外れることもあることはお許しを。</p>
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		<title>フランス大使館に謝罪した日本人</title>
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		<pubDate>Tue, 30 Nov 2010 18:51:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>

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		<description><![CDATA[この記事は面白いと思いました。ベルサイユ宮で開催されている村上隆の展覧会を取材した文章ですが、ぼくが特に興味をもったのは下記の引用部分。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4589 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>この記事は面白いと思いました。ベルサイユ宮で開催されている村上隆の展覧会を取材した文章ですが、ぼくが特に興味をもったのは下記の引用部分。</p>
<p><a href="http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4589">http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4589</a></p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">実は、ブリュネさんと面会したこの日。出向いて早々、迎えてくれた広報担当の女性が私に言った。 </span></p>
<p><span style="color: #000080;">「きょうの『フィガロ』の記事はご覧になりましたか？」</span></p>
<p><span style="color: #000080;">まだ見ていなかったので、記事の内容を尋ねると、意外な答えが返ってきた。東京のフランス大使館に、日本人からの謝罪のコメントが寄せられているというのだ。村上氏の展覧会がもたらした騒動を心苦しく思っているという・・・。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">「フランス人なら、けっして謝ったりはしませんね。なぜなら私たちはarrogant（アロガン＝横柄、尊大）ですから。むしろ弁護するところでしょうね」と、またもブリュネさんは爽快に言い切ってくれる。</span></p></blockquote>
<p>時代がかったといえば時代がかった話です。誰かに申し訳なく思いながら生きることが美徳とされやすい日本文化の心性が表現されていると思いました。フランス大使館に謝るのは、良い悪いではなく、とても日本的です。フィレンツェの大聖堂でいたずら書きをした日本人学生のことがマスコミで報道され、日本から大学の人間が学生を連れて謝りに行ったことがありますが、それとも根本的に違うテーマです。アート表現に同国人の第三者が謝罪したいと思う気持ち自身が、自責的です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/The-Palace-of-Versailles.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3723" title="pv" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/The-Palace-of-Versailles-300x185.jpg" alt="" width="300" height="185" /></a></p>
<p>それにたいして、フランス人は尊大だから謝罪などしないとベルサイユ宮のディレクターは言っています。当然ながら、「尊大」とは自嘲をこめた外交的表現であり、「尊大と人には言われるかもしれないが、尊大くらいでないと世の中に説得的主張などできるはずがない」という意味が裏にあるのだろうと想像します。どうしても避けられない「出る杭」を最初から基準内に入れている発想が根底にあります。アートだからではなく、もっと一般的なレベルも含めた態度と言って良いでしょう。</p>
<p>最近、イノベーターたれという台詞をよく聞きます。イノベーションをどう起こすか？が課題になります。ぼくはいつも、「イノベーションはリーダーの性格の問題です。皆、アップル文化を理想のように言いますが、それはジョブスの性格に負う部分がとても大きいのではありませんか？ジョブスのように皆がなって欲しい思うのですか？」と言います。それを目指すなというのではなく、一か八かの勝負に出る覚悟でイノベーションを語っているのか？と問うているのです。</p>
<p>つまり、<strong>往々にして個人の性格を規定するところに文化の規範があるまいか？</strong>というポイントをこの記事は衝いている・・・と思ったのです。</p>
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		<title>異文化市場をデザインから理解するーローカリゼーションマップへの試み</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3705</link>
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		<pubDate>Sun, 31 Oct 2010 15:46:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[セミナー・講演など]]></category>
		<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>

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		<description><![CDATA[数日前から日本に来ています。ローカリゼーションマップ研究会の食の勉強会を皮切りに、動き回っています。２９日は六本木でiidaの発表を覗いたり、「リアル中西」で喉をガラガラさせたり・・・と。日経ビジネスオンラインの「異文化 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>数日前から日本に来ています。<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3672">ローカリゼーションマップ研究会の食の勉強会</a>を皮切りに、動き回っています。２９日は六本木でiidaの発表を覗いたり、「リアル中西」で喉をガラガラさせたり・・・と。<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20101013/216622/">日経ビジネスオンラインの「異文化市場で売るためのモノづくりガイド」も2回目がアップされ、メキシコでの「マルちゃん」の受容のされ方</a>に多くの方が興味をもっていただいたようです。というわけで、１１月１８日（木曜日）新宿リビングデザインセンターOZONEでセミナーを行います。タイトルは、「異文化市場をデザインから理解するーローカリゼーションマップへの試み」です。日経の連載を一緒にやっている<a href="http://twitter.com/designer_tetsu">デザイナーの中林鉄太郎さん</a>とのトークです。</p>
<p>＜以下、セミナー案内より＞</p>
<p>日常生活をとりまくプロダクトは、それぞれの国にあったデザインで成立するのが理想です。しかし、昨今のグローバルに展開するモノづくりの時代では、国境を越えて文化を想 像することが必要になってきます。しかし想像だけでは、消費者に違和感を強いる無理が生じます。これが刺激となって楽しい場合もありますが、ビジネスの世界ではよりシビアになってきます。</p>
<p>このユーザーの文化にマッチすること（＝ローカリゼーション）への期待度をジャンルごとにマッピングしてみようというのが、ローカリゼーションマップの趣 旨です。このローカリゼーションマップは商品企画やデザインあるいは市場戦略策定の一助になるのではないかと考えています。目的は異文化市場を狙うときに 何をおさえればいいのかというキーを手にすることです。</p>
<p>異文化市場というと言葉、歴史、地理…、様々なことをインプットしなくてはいけないというプレッシャーを感じ、これを理解しないと全体が分からないのでは ないかと不 安に襲われます。その解消の鍵の一つが、実はデザインを通じた文化の読み解きです。道案内の地図の書き方一つとっても、そこに文化の差異がみえてきます。   目に見えるあらゆるモノやコトのデザインを通じて、日常生活を理解していく。例えば、ヨーロッパの街と日本のそれを比較して気づくことが、台所にも同じよ うにあるのです。日用品、家具、自動車、食などいくつかの事例から異文化市場の理解を試みます。  ローカリゼーションの視点は、海外市場だけでなく、国内「異文化市場」にも応用できます。デザイナーや建築家あるいは企画関係の方などにとって、新たな発 想やヒントを獲得するにきっかけになるでしょう。</p>
<p>日時：２０１０年１１月１８日（木曜日）　１８：３０－２０：３０</p>
<p>場所：リビングデザインセンターOZONE　８階セミナールーム<br />
〒163-1062 東京都新宿区西新宿3-7-1　新宿パークタワー</p>
<p>申し込みは<a href="http://ht.ly/324fF">こちらから</a></p>
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		<title>地図を描いたイタリア人</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3696</link>
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		<pubDate>Sun, 24 Oct 2010 17:11:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>

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		<description><![CDATA[日本人と欧州人の思考パターンの違いの一例として、拙著『ヨーロッパの目　日本の目』や日経ビジネスオンラインでイタリア人の書いた地図を紹介しました。 ミラノに住むイタリア人の描いた地図だ。スイス国境近くの別荘までの道を教えて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>日本人と欧州人の思考パターンの違いの一例として、拙著『ヨーロッパの目　日本の目』や<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20101013/216615/">日経ビジネスオンライン</a>でイタリア人の書いた地図を紹介しました。</p>
<blockquote><p><span style="color: #333399;">ミラノに住むイタリア人の描いた地図だ。スイス国境近くの別荘までの道を教えてくれた。目的地までまっすぐの1本の道。NOと書かれているのは、「高速道 路のここで出るな！」という指示だ。彼は、出口があるたびに「ここは違う」と、クルマを運転しながら独り言を言っているのだろう。</span></p>
<p><span style="color: #333399;">描いた本人はコンピューターエンジニアではない。80代の経営者だ。この種の地図を描く人を日本ではあまり見ない。およそ日本で教育を受けた人は、紙の上を北にし、鳥瞰的な地図を収まりよく描く。 </span></p>
<p><span style="color: #333399;">ところが、ヨーロッパでは、1枚の紙で出発点から目的地まで描き切れない人が珍しくない。住所が、町名ではなく、通り名で成立しているのはご存じだろう。</span></p></blockquote>
<p>今まで、この８０代の男性ってどんな感じの人なのかと何人かに尋ねられたので、ご本人の許可をもらって、ここで公開することにしました。ミラノ工科大学を卒業し、戦争中はアフリカで捕虜になった将校。その後、いくつかの会社の幹部として渡り歩き、現在は大きな病院の会長職にある人です。８９歳になった今も週二日は職場に向かいます。歴史にはめっぽう強いし、レシピ集を作るくらいに自分で料理もします。絵画を描くのも好きで、別荘のある村の古い教会に自作を寄贈し、壁にかけられています。「あと３００年もすれば、あの絵画の人間は誰だ？と言われないかなと思ってね」とウィンクします。ある聖人の肖像画なのですが、描いた本人にかなり似ているのです。この３０年くらいは版画に取り組み、イタリア美術史に残る作品を版画化し、最近、それらをミラノに近い生誕の地の博物館に寄贈しました。下は、それらの作品を眺めているところです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/LP1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3697" title="LP1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/LP1-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/LP2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3698" title="LP2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/LP2-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>さすがにこの１－２年は市内の決まった場所にしか行きませんが、いまだFIAT500のハンドルを握ります。其の前までは、つまり８６－７歳までは、上に引用したスイス国境近くの別荘までの２時間の道を奥さんと二人で出かけました。首がよく動かないので、高速道路の進入路から本線に入る時は、奥さんが助手席で後ろを振り返り「さあ、今よ！」と合図をしていました。相当に危険なドライブですが、二人三脚でいけば何とかなってしまうのです。かくいう７０代の奥さんも実にエネルギッシュで、今年、子供のための本を出版しました。凄いのは、自家出版でもないのに、出版社との直接取引きで自分で販売を手がけることにしたことです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/LP3.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3699" title="LP3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/LP3-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>政界の大物や大手スーパー会長に直筆の手紙を添えて本を贈りチャンスを狙い、青空市場に小さな台を出して終日立ちっぱなしで販促に努めたりと驚きの連続です。一日外に出ればどこか道や店で知り合った人に一冊売ってくる。郵便局に何かの振込みにいけば、そこで窓口の人と雑談をしながら一冊売るのですーイタリアの郵便局の窓口が混むのも当然だ！－。「どうせ、売れないだろう」と先走りして考えない。前に進めば必ず何かが変わるという信念のもとは何なのだろう・・・といつも思います。</p>
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		<title>時間の感覚差異はどこまで合意されている？</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3690</link>
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		<pubDate>Fri, 22 Oct 2010 15:54:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>

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		<description><![CDATA[最近の中国との衝突でも色々な歴史観がでてきていますが、ドイツとユダヤの記憶のあり方など、このテーマについて大いなる議論が繰り返しなされています。もちろん、より悲劇を背負った側がある一時期を切り取って長く記憶におき、そこま [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>最近の中国との衝突でも色々な歴史観がでてきていますが、ドイツとユダヤの記憶のあり方など、このテーマについて大いなる議論が繰り返しなされています。もちろん、より悲劇を背負った側がある一時期を切り取って長く記憶におき、そこまでの悲劇を伴わなかった側は比較的忘却症に陥りやすいということがあります。よくエピソードにでる朝鮮半島における秀吉に対する思い方、あるいは南太平洋における日本軍の争いに関する思い出。これは歴史教育だけでなく、ある一定の時間への感覚の異なりによるのではないかと考えることがあります。</p>
<p>太平洋のある地域においての５０年は日本での１年であったりする。これは全く不思議なことではなく、子供にとっての１年は大人にとっての２－３年にも相当したりすることを思い起こせば、なるほどと思うはずです。子供には「このあいだ・・・」は２－３日前であり、大人にとって数ヶ月前ということもあります。また以前、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/97">イタリア人はなぜ遅刻するかでも書いたように</a>、５分や１０分の捉え方も違います。ある人にとって「ちょっと待ってね」は２－３分であり、ある人にとっては３０分であるわけです。ある会社では「近いうちに実施に移しましょう」は２－３ヶ月を指し、ある会社にとっては１－２年であったりもします。これだけ時間への感覚が違うということが明らかなわりに、この差異が政治や経済活動でどれだけ事前確認がとれているのだろう・・・というのがぼくの疑問です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/coppia-litigare-stress-rabbia_o_ah.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3691" title="l1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/coppia-litigare-stress-rabbia_o_ah-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p><a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20101013/216615/?P=1">物理的距離の違いについては、エドガー・T・ホールを引用して日経ビジネスオンラインの今週のコラムにも以下書きました</a>が、ホールは時間についても言及しています。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">そのホール氏は、「違った言語には違った感覚の世界がある」とも書いている。違った感覚とは、人と人が面と向かって話す時に不快に思わない距離感も指す。30cmを親密性の象徴として喜ぶ人と、同じ距離を煩く思う人がいる。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">個人差もあるが、およそ国や民族によって、その感じ方の傾向がある。アングロサクソン系よりラテン系のほうが距離を縮めたがる、とか。そうすると、身を寄せてきたラテン系に、アングロサクソン系はじりじりと後ずさりする。</span></p></blockquote>
<p>これと同じようなことが時間にある。当然、６－７０年前の事実への感覚が違う。したがって「まだ、そんなこと言ってるのかよ。うんざりだ！」と悪態をつくか、「なんで、あいつらはまだ十分に過去になっていないのに、知らんぷりをするんだ！」と怒鳴るかの間に、時間意識の差という要因があってもちっともおかしくないのです。だから話し合っても無駄というのではなく、このギャップを認識したうえで話し合わないといけません。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/Funny-Couple-512X384-1835.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3692" title="l2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/Funny-Couple-512X384-1835-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>男女間にもあることで、男性の方は女性と喧嘩した時に、絵巻物のように過去の非が昨日のごとく目の前に繰り広げられて唖然としたことがあるはずです。それを「女性はああいう考え方をするものだから、そのまま受けるしかない」とか「男は忘れっぽいけど、まあ、それがいいのよ」と解釈して片付けるのが普通です。こういう身の施し方が、例えば異文化のビジネスでどれほどに使われているかというと、案外、井戸端会議の話題枠を出ていないことが多いのではないか・・・ということがとても気になるのです。</p>
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		<title>日本製と韓国製の違いって何なの？</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3663</link>
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		<pubDate>Tue, 05 Oct 2010 09:37:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>

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		<description><![CDATA[「日本のイメージねぇ、下がったとか何とか言うより、単に話題にしなくなったということじゃないかな」とイタリア人の友人。ぼくが「最近、日本や日本製品の存在感の低下が盛んに言われるんだけど、本当のところどう思う？ソニーやパナソ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「日本のイメージねぇ、下がったとか何とか言うより、単に話題にしなくなったということじゃないかな」とイタリア人の友人。ぼくが「最近、日本や日本製品の存在感の低下が盛んに言われるんだけど、本当のところどう思う？ソニーやパナソニックという名前で日本が語られた時代もあったんだけ・・・」と聞いたところ、すぐ返ってきたのが冒頭の台詞です。「でも、アニメや寿司などもあるよね」というと、「寿司はかなり当たり前の食べ物になってきて、寿司を日本とリンクして考えなくなっているよね。アメリカでピッツァが必ずしもイタリアを連想させないのと同じでね」との答え。「アニメも確かに日本発のものが多いけど、だからといって日本のことをじゃあ語ろうよとはならなくなっているんじゃないの」と続きます。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/Sarpi_la-Cina-a-Milano.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3668" title="c1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/Sarpi_la-Cina-a-Milano-300x230.jpg" alt="" width="300" height="230" /></a></p>
<p>最初、日本製は安価なイメージ。それが１９８０年代あたりに品質でブランドができ、１９９０年代になると高機能で高品質かつ高価格という路線が更に強化されます。韓国のヒュンダイのポニーが１９８０年代に北米で話題になりましたが、今の時代、サムスンやＬＧが喧伝されるような存在ではありませんでした。友人は「そう、今は家電で韓国製品の評価は高い。けど、日本製品と区別がついているかといえばそうはいえない。イメージのなかでは、二つの国の製品がゴチャゴチャになっている」と。「中国製は？」と聞くと、「この二つの製品のレベルに至っているという感じは全然ないね。安かろう、悪かろうというとこだ。そう、そう、最近、家を移ってエアコンを買ったんだけど、修理屋には、韓国製のエアコンはまだやめたほうがいいと言われた。日本製のほうが信頼できるって。そうなの？」と話が飛ぶ。</p>
<p>「韓国人と会ったことある？中国人は沢山いるけど・・・」と話をずらすと、「いや、一度も話したことがない。それは道で見かけたことはあるかもしれないけど、どこの国の人とは分からないものね」と。ぼくが、「韓国人は駐在の人がメインってこともあるし、人数が少ないから、そんなに会う機会はないかもね」とコメントすると、「そうなのか・・・・」。「まあ、要するに、どこの国というリンクがそう強くなくなるというのは、そこの国のモノなんかが定着してきたしるしということなんだよね。でも、日本は文化を伝えるとか、そういうコミュニケーションがあまり上手いという印象がないよね。この２０年間だっけ、バブルが崩壊して日本経済が低迷しているって言われるのは。そういう状況なら逆に、コミュニケーション戦略がもっと重要になるとも思うんだけどね」と日本の政策への意外感を語ります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/milano-imprese-cinesi.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-3669" title="c2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/milano-imprese-cinesi.jpg" alt="" width="300" height="212" /></a></p>
<p>そういえば、日本製品が海外市場で幅をきかせた時代、「日本人の顔がみえない」とよく言われました。どんな人がその製品を作っているのまったく分からないと。どうなんでしょう。あの頃と比べて、少しは顔が出ているでしょうか。少なくても、中国人の顔のほうが出ているかもしれないなとは思います。よくも悪くも。とにかく、話題になるとは、あるテーマが相対的に低くなるから、あるほかのテーマが相対的に高くなるところから生じる現象でしょう。世界各国のテーマが均一にいつも語られる限りにおいて、それは話題とは呼ばない。だから、日本が話題にならないこと自身を嘆くことにあまり意味はないかもしれません。いや、話題になるように仕掛けていて、話題にならないのは悲嘆すべきですが。それより問題は、知って欲しいことが伝わっていないことで、不利を蒙って損をしていないかどうかかもしれません。</p>
<p>ぼくは、「日本の存在感がない」という議論には飽き飽きしていて、どうすれば損をしない仕組みをもったビジネスができるのだろうということに関心があります。特に、最近、ミラノの街を歩きながらもそういった目であらゆるモノやコトを眺めています。</p>
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