3月20日、六本木アクシスビル内のJIDA事務局にて20名あまりの参加者でローカリゼーションマップ研究会をキックオフしてそろそろ3ヶ月。このあいだ、Twitterの#lmap でローカリゼーションの事例や思いついたアイデアなどを集めてきました。当初3ヶ月間でアイデアをじっくり考え、その後に次のステップに移行すると計画していたので、第一ステップ終了ゴング直前というわけです。

一つよく分かったことがあります。ローカリゼーションという言葉が翻訳やソフトの現地化以外のビジネス分野ではあまり使われておらず、ローカリゼーション産業はまさしくこれらの分野だけを指し示すことが多いということが再確認できました。文化人類学において文化適合などの概念が、日本のビジネス世界で人事面で言及されても、ビジネス全般では一般的な体験談以上には認知されていません。最近、「デザイン思考」という表現が流布しており、ローカリゼーションを考えるときの有効なプロセスとして一部重なるような気もしますが、概念のレベルが違います。
したがって、ローカリゼーションを総括的に幅広く語った本は、少なくても日本語ではなさそうです。マーケティングやWEBサイトのテクニカルな本にそうした記述があったとしても、それが食やハードのデザインを語るには至りません。しかし、ぼくが何度も書いているように、それらは個々に独立した経験をユーザーに提供していますが、ユーザーは一人の人間としてそれぞれを連続性をもって経験し、ある経験は次の瞬間の経験のベースとなっていきます。ケータイの経験はカーナビにいっても引きずり、それをもってクルマのコックピットデザインへの期待度が変わってきます。

手元のiPhoneで瞬時にメールをチェックしていると、ノートPCの蓋を開け起動させ、ブラウザを開くなど二世代前の世界に思え、そのうちに全ての人はそうしたスマートフォンを持っているような錯覚に陥り、もっていない人を「不便な奴!」と罵ったりするのです。WEBや情報機器において期待されるローカリゼーションは認知的側面が強く、仮に高次元の満足度を与えた場合、このレベルのサービスに馴れ鋭くなったユーザーの感覚は、ハードを中心とした製品デザインにも適用されます。秀逸なスタイリングのノートPCのデザイン自体が古臭くみえたり、ケータイカメラに馴れると、ネット世界からは孤立している通信機能をもたないデジカメは「孤独感を漂わす」とそのユーザーの目には映るのです。
β版でスタートすることに馴れるには、もしかしたら洋服を変えないといけないのかもしれません。スーツにネクタイで企画9割完成させて肩肘はって一歩踏み出すより、カジュアルなファッションではじめるβ版的ゲリラ戦が歓迎される今ー歓迎というより、それでないとスピードについていけないー、この感覚の横断性はより強くなっています。だからこそ、統合的あるいは総合的イメージが重要視され、個人が前面に出るパ-ソナルブランドが構築しやすいーいわば生き方のレシピが世の中に溢れかえっているのは故なきことではないというわけです。

これがライフスタイル産業ーファッション、または食や日用雑貨ーへの注目度とリンクしてきます。日常をディテールに分割することは発想として、あるいは現実としてありえず、日常は全体としてしか掴みきれない。デザイン性に優れたインテリアと創造性溢れる食卓は当然リンクするしかないのです。リンクしないほうがおかしい。そして、それは言葉の表現の繊細さにも結びつく。やや遠回りしましたが、従来のローカリゼーション産業がライフスタイル産業により接近する必然性がここにあり、村上隆が英語翻訳に高い料金を払ってカタログを作成したことがNYTの美術評論での絶賛に結びついた一つの要因であると本人が書くように(『芸術起業論』)、思考と言葉への注意深い配慮をはずしてデザイン戦略は成立しないのです。こうした前提のうえで、抜群なスタイリング表現と併走できる世界ができます。全ての要素は必要不可欠であり、現在は、それらの間隙にあるエッセンスが見落とされるが故に全体系を作りえないことが多いと思います。
「世界を変えるデザイン展」のエントリーで書いたように、モノを介して文化を理解する大事さを知った人は多かったと思います。コンテクストの理解がまずありきであることが、あの展覧会で強調され、「そうなんだな。それって楽しい」と思った人は少なくなかったでしょう。これがローカリゼーションマップへの興味です。対象地域のユーザーのマインドマップを描き、それをベースにこちらの戦略を作る方法のヒントやノウハウを提供する。ローカリゼーションマップ研究会は、こういう道を作っていくことではないかとの思いをぼく個人、強く持ちつつあります。

日本のトイレの特徴は例を挙げていくと沢山あります。便座の前に立つと自動で蓋が開き、用を終えると自動で蓋が閉まる。約70%というシャワートイレの普及率の高さ。温かい便座。音消し機能・・・と思い浮かべるだけで「ああ、日本だなぁ」と思います。だから逆に、外国人が日本に行くと大いに戸惑うことが多く、例えば「シャワートイレのアイコンがさっぱり分からなくて何なの?」とか(お尻のカタチが数字の3に見えてしまう。シャワートイレの存在さえ想像していないユーザーに、3以外を想像させるほうに無理があるかもしれない)。「シャワートイレは気に入った。でも便座の電気は切りたい・・・」とか。

尻があたたかいといえば、電車のシートが温かくなるのを嫌う外国人は結構いて、疲れて座りたいけど立っているという人もいるぐらいです。ある知らない機能に接したとき、最初は違和感が先走り、しかし使っているうちに馴れ、最後にはそれなしには生活できない・・・というプロセスがあります。日本式トイレの外国文化との一般的接触について言えば、第一ステップのどこかというところでしょう。ぼくがいつも日本で思うのは、公共トイレでドライヤーやペーパータオルが用意している場所が思いのほか少なく、どうして衛生観念が全てのフローに至っていないのか?という点です。パーフェクトであるようでどこか抜けている・・・それが日本文化の愛すべき点なのかもしれません・・・。

今月、お台場でTEDxTokyoというイベントが行われました。「TEDは、テクノロジー、エンターテイメント、デザインの頭文字を表し、この3つの領域が一体となって未来を形作るという考えに由来します。そのイベント が網羅する分野は広く、50回を超えるプレゼンテーションや朝夕のイベントを通して、あらゆる方面からの素晴らしいアイディアを紹介します」とHPに掲載されています。ぼくはこのイベントをTwitter上で知り、ustream でのライブを見ることはなく、視聴者のコメントや感想だけ拾い読みしていました。アーサー・D・リトルの川口盛之助さんのトイレのプレゼンが受けているのも読みました。「日常の身近にある例で技術と文化を語る視点が馴染みやすかったのかな」と想像していました。そうしたら先日、ご本人からメールがあり、YouTubeにアップされたと連絡をいただきました。さっそく3度ほど繰り返して見ました。

トイレの環境を衛生、健康、快適性、デリカシー、ホスピタリティ、エコロジー、楽しみ、便宜性といった項目にブレイクダウンし、それぞれに該当する技術を紹介しています。蓋の自動開閉は衛生、ホスピタリティ、便宜性。音消しはデリカシー、ホスピタリティ、エコロジー。トイレに入り便座まで6秒。だから6秒で便座が温まるよう赤外線がセットされているー川口さんによれば「緊急時以外は6秒で問題ないのでしょう」。これは衛生、快適性、ホスピタリティ。このプレゼンをみながら、技術特性とその応用が分かりやすく整理されているーそれもロボットに喩え擬人化して笑いを誘っているーことに感心しました。個々の技術が集まって作る世界観を一般の聴衆に分かるようにまとめているのです。川口さんは学生時代、短距離の選手だったと伺ったことがありますが、リズム感溢れる軽快な展開はスポーツ的な爽快さがあります。こういう日本文化の紹介方法もアリです。いや、「紹介方法も」ではなく「紹介方法こそ」アリです。

さて、これをローカリゼーションマップ研究会の立場から見てみるとどうなるでしょう。色々な項目と技術の対応が文化圏ごとによって微妙にずれてくるのではないかと想像しました。冒頭に述べたように、手をなるべく汚さないようなフローを実現しながら、最後のステップでオチがある。海外では自動開閉や音消しはないが、最後に手をドライヤーで乾かすことが押さえてある。「日本ではハンカチを常備するものだ」と言うかもしれませんが、ハンカチを何度も使うのと、ドライヤーやペーパータオルとどちらが衛生的なのか?恋人が涙を流したとき、トイレで使ったハンカチを差し出すのか?これは衛生面だけでなくデリカシーの面ではどうでしょうか。
つまりデリカシーや快適性といったカテゴリーだけでなく、衛生というかなり合理性の高い項目も、コンテクストによってかなり揺れやすい概念ではないかと思われてきます。喩えれば「誰が洗ったかわからないフォークより、石鹸でちゃんと洗った手で食べたほうが清潔」という物言いにどう対抗するかです。カール・ケイ「『日本人が知らない「儲かる国」ニッポン』を読む」で引用したように、米国と比較して日本で院内感染が多いのは病室における洗面台の設置の少なさという指摘があります。サービスの本質とは何かの肝心な点で、どこまで文化を差異を超えて共通理解を獲得できるかがテーマになります、

こういう文脈でみると、川口さんのプレゼンは多角的な文化解釈を考えていく上でも有意義だったのではないかと思います。ここに論議するにふさわしいネタが出揃っています。このプレゼンをベースに各地域にどうローカリゼーションをするのが適当かが考えられます。シャワートイレや温かい便座という単機能でみるのではなく、「トイレの世界観」を全体フローで検討するとものすごく充実した成果が得られるのです。ここに「ものづくり」「コンテンツ」「水平展開」「プラットフォーム」といった議論を昇華する「秘儀」があります。

日本で桜は春到来の代名詞です。パッと咲きパッと散ることが日本の精神的土壌を象徴しているようにも言われます。ぼくも桜を見れば美しいと思いますが、桜について語るタイプではないと自認してきました。およそ花見となると寒いことが定番で「花見で風邪をひいた」というエピソードはよく聞きます。ぼくはそれを聞いて「そう、そう、わざわざ寒い外で酒なんか飲めばそうなる」と冷ややかで、花見はぼくの語彙として登場することは稀でした。それが今週、桜に縁のある一日となりました。
世田谷にある長谷川町子美術館に日本画の岡信孝さんの桜の絵画が展示されているのを鑑賞し、近くの桜並木を散策。その近所の知人宅にて、作家ご本人を囲んでの食事会という趣向です。京都のお寺からもお客さんがみえ、特に桜そのものがテーブルの話題のメインでないにせよ、「桜が咲いている時期にこうして皆が集まっている」ことに共通の高揚感ともいうべきものが漂っているのではないかという気がしました。そうか、桜の効用とはこういうところにもあるんだなと、その時、ぼんやりとぼくは思いました。実のところ、ぼくが日本で桜を愛でるのは20年ぶりに近いわけで、桜を巡るメンタリティを相当に忘れていました。日も暮れる頃、今度は六本木に向かいます。

国際文化会館の庭園は別世界に誘うムードが普段から十分にありますが、ここで夜に開催される観桜会で宴会場から外に出ると一種幻想的に桜が存在感を主張せずして「そこあります」。それが何かを映し出していることは確かだなと感じます。その瞬間にはそう思わなかったのですが、そのあり方は松本洋さんの『半地球』の写真集で見て思ったことに近いのではと考え始めました。国際文化会館をベースに長年に渡って国際交流に尽くしてきた松本さんのことは著書『地球建築士』のレビューでご紹介しましたが、『半地球』と『地球建築士』で一つのワールドが見えるようになっています。
『半地球』は世界の隅々でと言う表現が不当であるー隅々には中心がありますが、世界は全てが中心で成立しているーことを証明するように、あらゆる地域で生活する人の顔があります。一方、『地球建築士』はそれぞれの顔が輝くためのアプローチとその経験を綴ったものです。ぼくはこの日、桜はそれ自身が主人公でありながら、それは常に何かのために貢献するためにもあると思いついたのです。そこで国際交流あるいは異文化交流における人の強さと哀しさの比喩に想念が動いたともいえます。その晩、松本さんとホテルのバーで酒を飲みながら、人を圧する文化と人に圧せられる文化について伺い、ここにしか現実はないし、この現実を少しでもマシにする態度が重要なのだろうと心の底で思いました。

観桜会のテーブルでたまたま席が隣で話題が弾んだお相手が、田北さんと佐藤さんでした(写真の左から)。田北さんはホテルニューオータニ内で歯科医をやっていて佐藤さんは秘書です。このお二人が非常にストレートに色々なことがらに意見する姿を見ていて好感がもてました。イタリアやクルマあるいはビジネス観など次々と話のネタになっていくのですが、こういう話題のなかでも何かは他の何かに貢献するためにある、という考え方が向こう側に見えてきます。自己完結型の思考に嵌っていない、必ず何か別のことに連携するために準備する気持ちが見え隠れするのです。このあたりの距離感に感心しました。ですから、その翌日、ホテルニューオータニの近くで所用を終えてiPhoneでメール受領をチェックしたとき、そのままホテル内のサロンー待合室というよりサロンという表現があいますーに足が向かったのでした。
桜は幻想的な風景を作りながら現実を直視せざるを得ないのですが、義務的な「せざるを得ない」ではなく、現実にしか宝がない究極の選択肢であるとの強調としての「せざるを得ない」です。ニューオータニで田北さん、田北さんの父上、佐藤さんと雑談を交わした後、今回の日本滞在で何度か通った麹町のバーに寄りました。その時、棚にあったある酒のボトルに初めて気がつきました。どっかで見たようなラベルだなと思い確かめてみると、日英通商修好条約150周年記念として販売されたウィスキーです。「ああ、そうか、このラベルは山下さんがデザインした紋章だ!」と分かり嬉しくなりました。下記、このボトルと紋章について書いたOpenersの記事です。
http://openers.jp/fashion/news/011.html
彼のことはぼくも紹介したことがありますが、たまたまその二日前に彼が遠い地で人生を送っていることを彼のメールで知ったばかりでした。そして偶然にしてバーで彼の紋章(下の写真の真ん中の棚の左から3番目)を見つけたものですから、現実の奇怪さに驚きながら、ロックでこの酒を飲みました。酒を舌で転がせながら、桜は現実を忘れるために見るのではなく、現実をよりよく認識する動機を得るためなのか・・・・と無粋にも思ったのですが、現実から逃避するほうが無粋かもしれないとも考えました。最後に結論がヒョイと飛んですみませんが、ぼくは「文化理解をビジネスに貢献するものとする」とのテーマの現実性に賭けてみることを新たに決意するに至ったわけで、それが桜にまつわる経験から生じていることは、ぼくもまんざら桜と無縁に生きているわけでもあるまいということでしょう。
