この2週間、ミラノ工科大学でPh.Dデザインコースというレクチャーが10本以上あり、世界の第一線の研究者たちが登壇しました。いくつかのレクチャーを聞いていて気づいたのは、「コンテクスト」という言葉がキーワードになっていることです。どうコンテクストを読み込むか?が頭痛のタネになっているわけです。コンテクストにマッチしないことをああだこうだと試みても、およそ敗退する経験をさんざんし尽している証拠でしょう。それほどに単発の見せ場の無力さを物語る事例が死屍累々とあるのです。
違った表現をとれば、あるシチュエーションでの言葉が隣の状況には全く通じないーウジトモコ『デザインセンスを身に着ける』に、以下のような文章がありました。
デザイナーの多くは、デッサンや色を学んでいても、経営については関心を持っていません。マーケティングについての知識はほぼ、本人のやる気と環境に依存します。ロゴが使われていく意味は、ほとんどがマーケティングベースなのに、つくられているデザインの現場の関心のほとんどは「色やカタチ」を超えることはありません。
一方、経営者や製品担当者の多くはデザインを「差別化」や「経営戦略」とリンクさせることができません。デザインのトーン・アンド・マナーについて、単に先行他社の資料を集めて参考にしてしまったり、今すでに売れているもののデータを集めて、それを評価や価値の基準値にしてしまいます。

事業企画とクリエイティブ系のギャップを埋めることはローカリゼーションマップの大きな目標ですが、この点を問題としてみているのは、もちろん僕たちだけではありません。このウジさんに限らず、多くの人たちがどうしたものかと考えあぐねています。自分の見ている世界が他の人にとっても大切なんだーその逆もしかりーという認識をどう共有していくか、これは思ったほどに容易ではないのです。ローカリゼーションマップではワークショップをやりながら共通言語ービジュアルも含めーを確立していくことを、これから行っていきますが、細分化されたエキスパートの必要と増加、統合や全体性の把握の必要性、これらの2つの潮流が共通言語を要望することになっています。横山雅彦『大学受験に強くなる教養講座』でも、次の文章があります。
僕は、予備校の衛星授業で、長年英語の長文読解を担当してきましたが、とくに最近、文法や構文以上に、背景知識のウェートが大きくなっていると痛感します。実際、「和訳することができても、議論の内容がさっぱいイメージできない」という受験生も少なくありません。
(中略)
英語の講師も、文法構文専門では、到底太刀打ちできるものではありません。ますます英語と小論文、現代文の垣根がなくなりつつあること、そして教材を超えた「教養」が必要になっていることを、強く印象づけた問題でした。
総合的な把握が重要であるとの流れをとれえているからこそ、背景知識を要する英語の問題が多くなっている。にもかかわらず、ビジネスの現場でプライヤーが全体を知っているように振る舞っているわけではない・・・というのが、なんとも皮肉です。1冊目の『ヨーロッパの目 日本の目』では、「総合」の視点をもつためにエピソードの数々を紹介しました。2冊目の『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか』は、日本企業のローカリゼーションを強調しました。今日からサンケイBIZでスタートした連載は、この1冊目と2冊目のリンクをもう少し使いやすいようにするコラムを書いていこうと思います。毎週日曜日の掲載です。
トリノに住んでいたころ、すなわち20年くらい前、我が家に日本人の少年を夕食に招いたことがあります。親と一緒ではなく一人の小学生です。ということは10歳以下だったことになります。彼はインテルのジュニアチームに入りたいと思い、イタリア人の家庭にホームステイしていました。彼がイタリアへ来た経緯が興味を惹きました。彼の母親が年末宝くじを買い、「どうせ当たらないんだから」とつぶやいたら、そのセリフを耳にした男の子が「じゃあ、それぼくにくれる?」と頼んだのです。ごみ箱行きの紙切れになるんだからと思った母親が何気なしに渡した紙がなんと100万円に化けました。そこからです、彼の人生が動いたのは。
「ねえ、お母さん、これぼくの好きなようにしていいんだよね」と確認を求めたー外国語は何も勉強したことがないー彼は、和伊と伊和の辞書を買いイタリア語の手紙を自分でしたためイタリアのサッカー協会に送ったのでした。「ぼくは日本のサッカーの好きな少年でぜひイタリアでサッカーを学びたい」と書いたのです。結果をいえば情熱にほだされた母親の手助けも得て、ジュニアに入るには早いしイタリア語も覚えなくてはならないということで、トリノのふつうの小学校に留学することになったわけです。

「へえ、ミランでもユベントスでもなくインテルなんだ」と夕食をとりながら聞くと、「だってインテルかっこいいじゃん。ユーベなんかださいよ」。「ねえ、もしインテルの選手になれなかったらどうするの?」との問いには、「これからイタリアとサッカーに詳しくなるんだから、イタリアのサッカーのことを本に書けば売れるでしょう?」と逆に質問される始末。親をはさまずに大人の食事の招待をうけながら、こうもはきはきと自分の意見を言う小学生に会ったこちらは感心することしきりでした。かなり小柄だった彼がイタリアでサッカーのプロとして通用するかどうかはまるっきり予想がつきませんでしたが、こういうエピソードを携えて生きていく子なんだろうと思いました。ぼく自身、自分が弟子入りしたいと思う人に手紙を送ってイタリアに来た身ですから、とても共感を覚えたわけですーこの子は、ぼくより20年早く生きている!と。

今日、久しぶりにサンシーロでインテルのゲームを観戦し長友がピッチを走る姿を眺めながら、そういえば、あのトリノで出会ったサッカー少年はどうしたかなと思い出しました。長友は1986年生まれ。あの少年はもう30歳周辺のはずですから長友より少し年上です。特にサッカー記事を追っているわけでもないので、もしかしたら彼は既にライターになっているかもしれません。あるいはサッカーを諦めイタリア料理のシェフになっているかもしれませんーだって我が家で食事をしながら、なかなかの批評をしたのですから。「何者か」にはなりつつあるのだろうと思う一方、自分のエピソードに負けることもあるよなとも考えます。
エピソードを積みあげる人生が決して本人の望む道ではないことがある。いや、その方が多いかもしれないとも思います。小学生の時に神童と呼ばれ、まったくのふつうのオジサンになっている人の多いことを思い返すと、若い時のエピソードは役に立たないと思ったほうがいいのでしょうか。というかエピソードに寄り掛かるマインドがすでに負けなのでしょう。過去は捨て去りながら生きる・・・と分かっているものの、それを率直に受け入れるのはしんどいもので、そういう他人の自然な気持ちをどこまで寛容をもって接することができるのか?が、人が生きるテーマなんだろうと日曜日の夕方にしみじみと思いました。
このドラマ、毎週、視聴率がぐんぐんと伸びているそうです。松嶋菜々子演じる家政婦ミタがまったく笑みや感情を出さず、ロボット的に仕事をこなしていく。ミタは崩壊した家庭に派遣されているのですが、その家の各メンバーがそれぞれ勝手に自分の気持ちを「正直」に表現し、ダイレクトにミタにいろいろな依頼をすると、ミタは「承知しました」と受けていくのです。それで、「小さな(?)正直」は「大きな破綻」をどんどんと製造していきます。
透明性ーものごとは隠すことなくガラス張りにするほうが良い。暗示的であるより明示的であるべきだ。説明責任が常に問われる。その時々の感情は抑えるべきではないーという言葉が世の中を闊歩するなかで、それが一方通行的に進むことが適切なのか?というテーマが、ここで問われているのではないかとぼくはみます。今や、情報提供のプレッシャーが非常に強いです。数々の企業不祥事などからの反省も当然の成り行きながら、「ガラス張り」があるゆる局面においてベストチョイスなのか?といえば、そうとも言えないことが多々あります。一生隠し通したほうが全体の幸せを作ることもあります。

この月曜日、日本に来ました。その翌日、赤坂のインターコンチネンタルホテルでアリババのサプライヤーDAYがあり、およそ450人を前にローカリゼーションマップについて講演する機会がありました。そして他の方のパネルディスカッションを聞き、お会いした方たちと話していて、ネット上だけで異文化市場を読む難しさを考えました。難しいが、経済的リターンが即見えないところでネット上の情報に頼るしかないパターンが非常に多い。よって、「だからリアルな経験が必要なんだ!」とは言わない道を探さないといけません。ネット上には有象無象の情報-このブログも!-が徘徊していますから、どのように実態に近い情報に出会うかー出会えるかーは成功への分岐点になります。
この問題は昨日の勉強会「インフォグラフィックにみる文化差」でも提示され、面白い表現が目につきやすいということと、第一次情報から含めて信頼に足るレベルであるかどうかは別問題であり、現状、ここに多くの「穴」があることが浮き彫りにされました。情報の受け手が「分かりやすさ」「伝えやすさ」「共感のされやすさ」を重視すればするほど、本来かえりみられるはずの情報そのものの質の検証作業が遠のくというパラドックスに陥っています。定量情報ならよく、定性情報により不安だと述べる前のレベルで、そもそも情報がどのアングルから把握されたものであるかの確認が習慣化されていないのです。眼前に提示されている情報の「裏読み」の仕方を学ぶ必要があります。

ヨーロ危機およびイタリアの現況について多くの人から質問を受けますが、今回の問題の一つに、やはり透明性が挙げられています。たとえば、イタリア社会全体の「暗示的表現」を批判することを、英国の雑誌「エコノミスト」は大きな役割として任じている感がありーそれは対日本もそうですー、今回のイタリアの市場の「売り」は、まんまとその批判のツボにはまっています。イタリアの社会が変わらなければいけない点もたくさんあるのは当然ながら、批判の尻馬に乗るのも愚かではないかと考えています。それは、ユーロの優等生であるドイツを一方的に絶賛するわけにもいかない躊躇がアングロサクソン系雑誌ゆえに見られるからです。ここに「裏読み」が不可欠だと思います。
第一次情報が自分で経験したことであったとしても自分の視座には自覚的でないといけませんが、だれがポストしたかまったくわからないネット上の情報をどう選択していくは、前述したように、今を生きるに大きなテーマです。だからこそ、信頼を獲得したいとの思いが強い発信者は情報提供過多に陥ります。そして、多くの矛盾が指摘されて墓穴を掘る可能性が高くなります。が、その矛盾こそが信用できるとみる受信者もいますから一概に否定はできません。しかしながら、少なくてもこの構図を常に意識しないといけません。たまに軌道をはずしながらもなんとか全体的な信頼を得ていかないといけないーちょっとTwitterでクリティカルな反応を受けても気にしないで全体像をより確実なものにしていくー根拠をどう自分で強いものにしていくかが「鍛錬」の目標になります。
ミタが派遣されている家庭のメンバーは、ミタにそのような「鍛錬」を目的としたトレーニングを受けているのではないか・・・とみると、ドラマとしてはつまらないか(笑)。