さまざまなデザイン の記事

Date:08/7/18

ぼくは文化の問題について以下のように書きました。

http://tokyo.metropolitan.co.jp/anzai-history-23/471

「とても大きな時代潮流においても、より小さな消費者が直接使用する製品においても、そのどちらでも文化の重要性が高まっています。だからこそ、そういうトレンドのなかで、家具やデザイン商品への見方がどう変わっていくかに気配りすることが大切です」

これはどういうことかと言うと、ハイテクのユーザーインターフェースのデザインで馴染んだ目は、次にプロダクトデザインを見るときに 違った精度の目になっているということです。異文化経験が自国文化への見方の再編成を促すと同じことが発生するのです。こうしたことに対して、プロダクトデザイン側の人たちは案外無関心です。ヴァーチャル空間の感覚がリアル空間へ与える影響について語る割りに、プロダクトデザイン自身が経験すべき変質は、一部で使用される液晶画面のグラフィックデザインどまりだったりするのです。

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しかし、一度ローカライゼーションの便利さや楽さを享受した人たちが、 あらゆるモノやコトに、より多くを求めるようになるのは自然でしょう。最近、モンスターペアレンツという言葉が日本で使われています。子供の通う学校に異常なまでの過剰要求をする親たちのことですが、この現象の要因のひとつに、「消費者主義」があるとも言われています。このモンスターペアレンツとローカライゼーションを同次元に捉えることはしませんが、あらゆる要求は上昇することはあっても、下降線に切り替えるのは難しい一例にはなります。

文化変容がどのエレメントからどう変化していき、その変化が連鎖作用でどう他のエレメントを変えていくか、そしてそれぞれのプロセスにどれだけの時間を要するか、これは文化全体をみていかなと分かりません。個々のエレメントだけに目を向けていては無理で、全体のなかにある数々のエレメントの方向性を注視していくことが大事です。

Date:08/7/16

「2008 ミラノサローネ」を二ヵ月半に渡って書き、その後に、「2008 ミラノサローネ」で書ききれなかったポイントを「僕自身の歴史を話します」で記してきました。

http://tokyo.metropolitan.co.jp/milano-salone-46/364

この数週間、つまり「僕自身の歴史を話します」を書きながら、上記「サローネの見方」の目次 を、もう少しブラッシュアップしないといけないと思いはじめました。改訂版を待たずにできるのがブログでしょうから、少々リズムを落とし、ゆっくり考えながら書いていこうと思います。それは今日、欧州人のデザイナーとミラノのインテリアショップのオーナーと別々に雑談を交わしていて、気になったことがあったからです。そして日経デザイン編集長のブログも、考える契機を与えてくれました。

欧州人のデザイナーは、より直感的なユーザーインターフェースの重要性を盛んに説いていました。それは当然です。誰も反対しないでしょう。そこで、ぼくが思ったのは、「日本人が語る直感と、欧州人が語る直感がまた違うんだよな」ということです。ロジックを前面に出さないながらも、裏のロジックが透けて見えるかどうか・・・。ミラノのインテリアショップのオーナーは、「説明しないと分からないアートやデザインは失格だ」と言います。刺激ある言葉です。しかし、それを言えば、世の中のほぼ全ての作品は失格かもしれません。日経デザインのブログは以下です。「日本の生活文化を欧州へ」というタイトルです。

http://blog.nikkeibp.co.jp/nd/chief-editor/2008/07/182255.shtml

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ぼくが、このブログで思ったのは、「伝統的な生活文化」と「社会の変化」を対比するのは、どうもおさまりが悪いということです。何度も書いてきたように、静的な文化というのはありえなく、すべからく動的なものです。静的な二つの文化がぶつかり融合することはなく、細胞の衝突のように、文化は変化していきます。そして、このブログにある以下の部分は、例で言えば、ハイテク製品は文化性が低くて市場投入しやすいだろうという見方と、とても近いところにあります。

「人々の問題を根本から解決してくれるデザインが求められる。これまでに使ってきた製品の延長線上ではなく、選択の幅は広くなるはずだ。伝統的な生活文化に無理に入っていこうと思うより、変化の隙間をこじ開ける方が案外楽かもしれない」

Date:08/7/14

ぼく自身の歴史を話すといいながら、品質のことまで言及してしまいました。でも陶器の皿の品質ひとつとって、その判断には色々な視点や目線が要求されます。日本での視点とイタリアの視点、価格が規定する目線、これらを取り囲む文化的トレンドを把握する視点などです。前述したように、これらのポイントを固定的あるいは静的に捉えてはいけません。いつも動的に考えないといけません。ぼくは、今まで話してきたように、複数の文化が関わる、さまざまな分野でさまざまなプロジェクトに関わってきました。あるものは上手くいき、あるものは失敗する。それらの経験からいえることは、陶器皿の品質の問題を表層的にみるべきではなく、そこにある多数の「象徴」をみないといけないということです。一台一億円のスーパーカーの品質をみるのが難しいのと同様、一皿数千円の陶器の品質を判断するのも簡単ではありません。

1990年の後半以降から、ぼく自身の歴史の説明に少々具体的情報が欠けています。本当は、もう少し詳しくお話もしたいのですが、やはり10年以上経過していないプロジェクトは「時効」になっていないと感じるので、 やや観念的な文章が多くなってしまいました。それでもぼくの活動が、歴史とトレンド最前線、ハイテクとローテク、欧州文化、これらがキーワードになっていることはお分かりいただけたのではないかと思います。全体性の把握という学生時代からの目標に沿っているのは確かです。しかし、これは「何ができたから完成」ということではありません。常にあくまでも行動目標です。「新しいコンセプトを作ることに貢献する」がぼくの実質的な目標です。そのために生きる土地として欧州を選択したのでした。

が、もし宮川氏が日本にいたらどうだったのだろうかとも思います。手紙を書いて、彼にところに押しかけていただろうか。 やはり、そうはならなかったと思います。たぶん、宮川氏によって(あるいは通して)表現されている、イタリアという土地とその人間関係も含めてすべてが、ぼくが惹かれた要因だったのだろうと考えるからです。つまり、宮川氏によって、イタリア文化のポジティブな面を最初に見せてもらったことが、ぼくが17年間、さほどバランスを崩さすにやってこられた理由ではないかと思います。また、日本で7年間サラリーマンをやっていたため、イタリアのネガティブな面を比較的客観的に見れたこともあります。

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ひとつ言える確かなことは、「どこの国や場所に住んだからといって、全ての人生の問題が解決するということはあり得ない」ということです。生きるというのは、全てを丸ごと飲み込むこむわけですから、その飲み込むこと自身に価値を見出さないといけません。そこで、この「僕自身の歴史を語ります」シリーズの最後は次のように締めくくります。英国の作家モームの『人間の絆』という長編小説のなかで、詩人のクロンショーがパリのカフェで語るこんな台詞があります。

「わしは自分の詩を過大評価などしていないのでね。人生とはそれを生きるのが大切で、それについて書くものではない。人生が提供するさまざまな経験を探し求め、その一瞬一瞬から得られる感情をつかみとるーそれがわしの目標だ。創作とは人生から喜びを吸収することではなく、人生に喜びを与えるための優雅がたしなみくらいに考えているのだ。自分の作品が後世に残るかどうかなど何の関心もないのだ」(岩波文庫 行方昭夫訳)