さまざまなデザイン の記事

Date:10/1/15

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2008年12月に「リチャード・サッパーの事務所」というエントリーで、千葉工大の山崎和彦さんが書いたリチャード・サッパーの紙模型について触れたブログを引用したことがあります。以下です。

山崎さんはIBMデザイン部在籍中、やはりIBMのデザインの仕事を長くやっているサッパーは協業のパートナーだったわけです。

「僕がサッパーとミラノの自宅で打合せをする時は、二人で話をしながら、その場で紙を切ったり、ホチキスで止めたりして立体を作る。こういったモデルを作る 場合は、原寸というのが重要なので、もし部品の図面があれば、それを拡大コピーを使って原寸の大きさにして、その部品がうまく収まるか確認する。1時間も あれば、だいたいできあがるので、自分たちが考えたデザインがよさそうかどうかは、すぐに確認できる。」

イタリアの事務所では日本ほどに模型を作らないのですが、ドイツ人サッパーは、自分でカタチを確認したいという話です。昨日、古いファイルを整理していたら、サッパーのインタビュー記事コピーが出てきました。2003年6月号のAXISです。この回は彼の顔が表紙を飾っています。カバーインタビューを久々に読んでみました。

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彼は最初ミュンヘン大学で哲学の勉強をはじめるのですが、父親が絵描きであったこともあり、インダストリアルデザイナーという職業の存在を知ったとき、教授に相談に行きます。

「インダストリアルデザイナーになることに意味があるのだろうか」と。そのときの彼の言葉は今でもはっきりと覚えていますし、私の人生の宝になっています。彼はそばにあったイタリア製の花瓶を手にとって、こう言いました。

私はこの花瓶を見るたびに喜びを感じる。こんな美しいものをデザインするということは意味のあることに違いない。そういったことに人生を捧げたいと思うのであれば、やるべきである」と。

そして、父には「デザインでも何でも好きなことをやればいいが、それで食べていけないようなら、生計を立てる術を身につけておいたほうがいい」と言われて、経済も学ぶようになったのです

彼が大学を出た頃、マックス・ビルがはじめたウルム造形大学が開校してまもなくだったようですが、メルセデスのチーフ・デザイナーが誘ってくれ、エンジニアリングを半年勉強してメルセデスにいきます。サッパーは卒論に「経済の視点からみたインダストリアルデザイン」をテーマに選び、このデザイナーに取材していたのです。しかし、その後、彼の考えるクルマはメルセデスの伝統にあわないと上司に言われ、その頃、デザインで輝いていたミラノに移動することになります。インタビューにはマルコ・ザヌーゾの名前は出てこないのですが、最初の頃は、ザヌーゾのスタジオで働き、後に独立することになります。

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彼がデザインの考え方に近いとしてフォローしている人間の名前を二人挙げており、一人はメキシコのルイス・バカランー「デザイナー自身の感覚や感情・美意識を伴ってユーザーにきちんと伝わっているのであれば、それが良いデザインである」ーであり、もう一人はIBMの彼の前任者でもあるポール・ランドー「デザインとは散文を詩に変えるものである」-です。

私はポストモダニズムやミニマリズムなどのスタイルにはまったく興味がありません。それらはデザインの本質ではありません。本を書くことにたとえると、どんなストーリーかが重要であって、どんなフォントを使って印刷するかなどというのはスタイルに過ぎず、本の本質的な部分とは何ら関係ない。デザインもそれと同じです。

サッパーは、こういうことを言う人です。それも目の前ではっきりと言います。ちょっと浮ついた質問をすると、バシッと切り返されます。今、沢山の人が「差別化」といいますが、差別化を図るために他人をリサーチするのはほどほどがよく、それを徹底してもキリがありません。だいたい、人の考えることに、そう大差があるわけではなく、文脈の読み方とその表現の仕方に差がでます。考え方に大差があると思うなら、それは考えが足りないからです。そのフィールドでの経験不足ということです。そこで、サッパーの言葉、このインタビュー記事の見出しにも使われている「他人と違うものではなく、自分にしかできないものをつくる」という台詞の意味が分かってきます。

Date:09/9/22

今日は「ヨーロッパ文化の伝え方(4)」を書くつもりでしたが、その前にこの記事を。ミラノのデパート、ラ・リナシェンテは1950年代からデザイン振興に貢献してきて、コンパッソ・ドーロも当初はラ・リナシェンテがスタートさせたことは、以前書きました。しかし、1990年代は比較的普通のデパートで、高級品でも低級品でもないあまり当たり障りのない品揃えをしていました。それでいて、品質は必ずしもよくはありませんでした。それがこの数年、大幅な路線変更で、ブランドショップが連なるようになりました。日本のデパートと同じです。空港のブランド免税店のような風景になってきました。いっぺんにではなく、階ごとにじょじょに改装を重ねてきました。そして、今まで食器や台所商品がメインだった地下一階が、この春、セレクトデザインコーナーになりました。Designsupermarket というフロアーです

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コンランショップやソニーはブース的な空間を作り、多くのブランドは見通しの良い棚が全てです。デザイン書籍があり、カフェ的空間もある。このデパートがミラノデザインをリードした一時代を思い起こすなら、こういうイニシアチブは評価するべきなのだと思います。ミラノはデザインの街だといわれながら、デザインを一覧できる場所がありませんでした。トリエンナーレに昨年初めにオープンしてデザイン博物館は、ミラノやイタリアのデザインを見渡す場所として、遅まきながらできました。ただ、モノを売る場所ではなく、そういう場所は、コルソ・コモ10などの断片を自分で組みあわせていくしかありませんでした。

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そういう状況のなかで、このラ・リナシェンテの「デザインスーパーマーケット」は、ちょうどあってはならない穴を埋めるべくして埋めたという位置づけになるのかと思います。しかし、コンランショップがありソニーがあるように、またイッタラがあるように、イタリアデザインで全てを埋め尽くしているわけではありません。カリム・ラシッドはビトッシの商品ですから、イタリアに範疇されてよいですが、そうではない商品も多いわけです。

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ぼくはイタリアの商品で全てを飾るべきだとは全然思わないのですが、商品をそろえるのに結構苦労したのではないかと思わせるところが気になります。実際、そんなことはなく、売込みが激しかったかもしれず、今もそうかもしれません。でも、そういう厳しさを感じさせないムードがあるような印象をもってしまうのです。それぞれには良いデザイン商品であっても、それを隅々まで浸透させる場所としてのブランド力に、どうも力がイマイチ達していないのではないかという思いを抱いてしまう。この不足感は何なのでしょう。

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結局、他人のふんどしで相撲を取ろうとする今のラ・リナシェンテのあり方が「場所力」自身を低下させているー一連の改装は売り上げの上昇傾向に貢献していることが一定期間あってもーだろうことが、どうもイタリア全体の商品力を物語っているように見えるのでしょう。ただ、世の中の最高級品と低価格品ばかりの二極化は、ブランドではない普通の品質の平均的な価格の商品を駆逐していることを表していますが、ラ・リナシェンテの「デザインスーパーマーケット」は方向としては、その中間層の再生に目が向いているようにも見えなくもなく、判断するためにはもう少し時間が必要かなとも思っています。

Date:09/7/15

ちょっとソワソワしてきます。別に誰を応援するわけでもないのですが、衆議院選挙が近いとなると、なんとなく祝祭的な時間が展開されるように思えるから不思議なものです。どこの国も政治はめちゃくちゃと言えばそうで、何がきちっとしているのか分かりませんが、日本の国政がきちっというイメージとかけ離れていることは確かでしょう。

イタリアも頻繁に政局危機が訪れるし、あっけなく政権が変わる姿をみると、「もっと欲があっても良いのでは」と思うこともあります。最近、ベルルスコーニ首相が18歳の女性と付き合ったとか、ローマの自邸で娼婦に金を払ったとか色々と報道されていますが、真相はよく分かりません。当の18歳の女性が「彼こそは本当の恋人」と若い男性とのキスシーンを見せたかと思えば、「いや、あれは全てでっち上げだった」と彼氏が告白する始末です。九州の某知事の「少女」との関係以上に破廉恥と見られるコンテクストがありながら(ヨーロッパのほうが日本より、こういう問題に関してセンシティブであるという意味)、一方で、「政治家は自分の仕事をちゃんとやっていれば良い」と寛容なとりなしをするのもイタリア国民です。アングロサクソン系の「私生活も含めて全てはクリーンであるべき」という見方と若干差があります。

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何が両国で違うかというと、イタリアでは知識階層ともいうべき人達も、広場で何時間も雑談を繰り広げている人達も、政治的な見識を放棄していないことでしょう。そのレベルを言っているのではなく、見識をもつべきとの志向性です。最近、イタリア思想史の本を読んでいたら、「イタリアの思想をリードしている哲学者は、美学からはじまる人たちが多く、彼らが、自分の領域を超え、政治、経済、社会に積極的に発言していくのが特徴」という文章がありました。彼らは都市論や建築まであらゆるフィールドを相手にしていきますが、これは逆に、ガエ・アウレンティのところで述べた、建築家の政治への関心という問題とクロスしてきます。

そして、もう一つ言えば、これはイタリアに限ったことではないのですが、「世の中を良くする」と言ったときの世の中の広さの違いです。日本である時期から「国益」という言葉がよく使われるようになりましたが、明らかに世の中とは日本列島だけを指していることが多く、その隣にある国でさえイメージのなかに入っていない。何も常に地球全体のことを頭の中に入れろといっても無理な話しですが、「向こうと隣」くらいはいつも自然な形で世の中に入る考え方をして欲しいものだと思います。あることで主導権をとる、とれない、というのは、ある広さの地域を頭のなかで想定したうえで、どう枠組みを作っていくか?です。その広さが頭のなかにない。これは大きな問題です。少なくても、頭の中は広くなくてはいけない。「〇〇市では地震の被害がすごかったようだが、XX市では無傷でよかった」というのが、XX市の市議会議員ならいざしらず、国会議員であっては困るということです。

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
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