さまざまなデザイン の記事

Date:11/1/1

古い雑誌を整理していると、随分と読み残している記事が多いのに気がつきます。そうすると、捨てる前にちょっとは読んでしまおうと思ってしまう。そして読んだ、少し前の週刊文春です。林真理子が既に自分のことを知らない若い人が多いことに気づいたとのエッセーがありました。「かつての有名人」はそこで複雑な思いに駆られるわけですが、今や「かつての有名人」のように全ての人が知っていることが少なくなっています。佐藤栄作の時代は皆が5-6代前の総理大臣も言えて外務大臣や大蔵大臣の名前がすぐ出てこないことは、社会人として失格だったでしょう。しかし、菅首相と小泉首相の間の何人かの首相の名前と在任期間を言えなくても、あるいは、その時々の外務大臣や財務大臣の名前が言えなくても全然恥ずかしくないでしょう。

これは政治の世界がコロコロと変わっているからだけではありません。どんなにイチローが有名であろうと、長嶋茂雄が国民的スターであったほどには多くの人の脳裏に焼きついた名前となっていないのです。スターが小粒になったとは言われます。しかし、それは小粒のタレントもあるかもしれないけど、小粒であるしかないようなシステムで社会が成立するようになったからだと思います。昔は一部のジャーナリストしか知らなかった俳優の私生活の一部を、FACEBOOKでは多くの人が当然のように知ってしまっています。情報がガラス張りになればなるほど、大粒である成立条件をどんどんと壊していきます。なにせ未知が小を大にする重要な要素であったのですから。

逆にちょっとした有名人は出来やすい。Twitterで何十万人というフォローワーを抱えている人の名前をみて、一般のTwitter以外の世界の多くの人がどれだけ知っているでしょうか。つまり、「有名人の局地化」が加速しています。Twitterの有名人は必ずしも他のSNSで有名ではないかもしれないし、いわんやマスメディアのなかでは「市井の人」か「ポッと出」としか形容されません。ちょっとした有名人になるシステムは、マスメディア全盛の時代よりは明らかに揃っているのです。

そこで課題は、かつてのような有名人であることに今もメリットがあるか?「局地的有名人」であることが充分であるか?という問いにどう答えるかです。衆議院の小選挙区制で立候補するより、所属党の意向次第の比例代表制の方が「局地的有名人」であることは有効に作用するかもしれません。もちろんTwitterのセミナー講師で稼ぎまくるならTwitter有名人で充分でしょう。しかし、それでは比例代表区の推薦は得にくいでしょう。それには、マスメディアでの「局地有名人」であるほうが有利です。そして、マスメディアの「局地的有名人」はTwitterの有名人にはなりやすいけれど、その逆が同様にはなりにくいのが現実でしょう。

しかし、いずれにせよ、現代における有名人は長続きしません。ホリエモンが有名になったのは彼の日ごろの活動ではなく、TV局の買収劇や逮捕という事件での瞬間風速的な側面が強く、荒川静香という名前はトリノ冬季オリンピックで金メダルをとった数ヶ月が旬だったわけです。なにも不祥事も事件もなにもなく、またイベントで名前を挙げるということもなくーW杯でゴールを入れるー、恒常的に有名であることがあまりないのが現代であり、それがより強まっていると言えると思います。吉永小百合のような名前が再び出ることは至難です。

即ち、ブランドを考えるとき、局地的ブランドこそが優位性をもつのかどうか、をより真剣に考えるべきシーンに直面している。このことを更に意識しないといけない時代に突入しています。突き詰めれば、どのような「局地ブランド」を組み合わせるかに傾注すべきということでしょう。

Date:10/12/30

TIMEが「今年の人」にFACEBOOKのMark Zuckerberg を選んでいます。その記事を読みながら、クローズドな世界でありながら色々と覗き穴がセッティングしてあるところにヒットの要因があったのかなと想像したりしています。ぼくの周囲にいるヨーロッパ人の間では随分とFACEBOOKが生活の中に入っており、オフィスでひょいと後ろからPCを覗くとFACEBOOKの画面がでています。「なんだ、仕事してるのかよ」とも思いますが・・・。一方、日本の知人たちは「FACEBOOKの面白さはよく分からない」という人が多いです。170万人のアカウントの20%以下しかアクティブではないという背景がよく分かります。

今年は日本でTwitterが一般に認知された年です。鳩山首相が年初にTwitterをはじめたのが、その大きな契機でしょう。ユーザーは1500万人を超え、他のSNSと比較しても圧倒的な普及を遂げました。ただ、これも皆が皆、使いこなしているわけではなく、「アカウントはもったけどどう使えばいいの?」という人は多いようです。一つ感じるのは、1年前よりも「140文字で何が言えるんだ?そんな短い文章でコミュニケーションが図れるはずがない」という批判がじょじょに減ってきた感はもちます。この批判のもとにあるのは、ポータルデバイスのSMSは別の世界ですが、ネット特有の「癖」とも関連のあることで、基本的にネットは文字数制限のない世界であり、ブログも書きたいだけ書くのが当たり前という「馴れ」のうえに成立してきました。

文字数制限は紙媒体ゆえにあるものだという考え方の反対側に位置するのがネットの文字数に対する「感度」であったと思います。が、Twitterの140文字に強い拒否感が出る人は、紙媒体信仰派をも多く含んでいたような気がします。しかし、この拒否感はネット全般に対する不信感があるので、この人たちをここでは除外しましょう。問題とするのは、ネットの世界に馴染んでいて文字数制限に違和感をもつ人たちです。ぼくが思うに、こういう人たちは、もともとメッセージを伝えることにさほど敏感ではなかったのではないかということです。

メッセージとは何文字だったら伝えられるというものではありません紙媒体で一番重要だった文字数制限とは、紙媒体がゆえに制限するだけでなく、メッセージとは常に制約条件のなかで成立することを確認させるものでした。人は君(ぼくのことだ!)のだらだらと書かれた文章に付き合うほど暇ではないし、コンパクトなメッセージほど理解への働きが強いという傾向もあります。そういうことをTwitterを通じて分かってきた人が多くなったのだろうか、とぼくは想像しています。しかも、TLに流れる他の人のメッセージとの共時性や、その人がどういう経緯でこういうことを語るのかが分かることで、コンテクストの重要性にも気づくことが促進されたとも言えそうです。Twitterの140文字は、それだけで独立された世界はあり得ないことを知らしめる契機になったかもしれないと思うのです。

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
Date:10/12/28

F1の開催国が中東へアジアに移行してきたことが、驚きとはならず当たり前の風景として展開されてきています。サッカーの世界のニュースも同様です。ヨーロッパと極東の日本の間にあった空白が、色とりどりのイベントで埋められいく・・・かつて学生時代、パンナムの世界一周便の飛行機で東京→香港→タイ→インド→バーレーン→英国と南回りで飛んできたことを思い出す・・・アジア・中東ベルト地帯が表舞台になってきています、表面上は。くどいようですが、あくまでも表面上です。

ヨーロッパの相対的地位の低下が2010年、特に強まったわけではありませんが、「もう自分たちの場所に潜在力のある大きなマーケットはあまりないよな」ということを、これまた街の隅々の人が口に出していうようになってきたとは言えるでしょう。今まではヨーロッパのなかでしか活動してこなかった人たちが、インドやアフリカに出かけるようになりました。しかし、F1やサッカーの例にあるように利権は自分の懐に入れたままです。表面上、中東やアジアが表舞台に出ることをやや顔を引きつらせながらも、虎視眈々とネタを探ってきた結果であり、ヨーロッパのもつ見えない資産の威力を中東やアジアも求めている結果です。日本が焦っているのは、ここに大きな要因があります。新興国が力を持つにあたって「利幅の大きい役得」をヨーロッパや米国に求めながら、さほど日本には求められていない、その差です。

2000年に入り数年間、ミラノで生まれた息子をみて通りを歩くイタリア人たちが「日本語とイタリア語を喋れていいね」とありきたりの言葉を残していきました。こちらが「いや、中国語のほうがいいかも」と答えると、「いや、いや、中国人はちゃんとディシプリンされていない連中だから、日本語のほうがいいんだよ」と外交辞令を含めて言い返してくるものでした。しかし、2005年頃からは「そうね、中国語のほうが有利かもね」とはっきりと言われるようになりました。要するに、日本の地位低下が、同じように地位の低下を続けているヨーロッパの街角の隅々にいたるまで認識されてきたということです。それは、今までよりはお洒落な中国人の経営する日本食レストランの増加と並行しています。食という「利幅の大きい役得」の源泉をみすみす取られてしまったのです。

日本人の板前さんたちは、「中国人は日本のオーセンティックな味を守らずに安上がりでやっていてずるい」と文句を言ってきましたが、中国人は「あんたたち、ナニ言ってるの?ローカルなお客さんが喜ぶ料理を提供してナニが悪い?」と答えます。2010年の日本の対世界の大きな変化の一つは、ここにあります。中国人の提供する日本料理のビジネスセンスは批判の対象とはならず、学ぶべきことではないかという認識がじょじょに広まりつつあることではないかと思います。そして、遅まきながら、「利幅の大きい役得」とは何かを具体的に探りはじめたのが経済産業省が主導する横断的プロジェクトのクールジャパン事業でしょう。弱体化している民主党の成長戦略の一環であることが危うさを感じさせますが、「利幅の大きい役得」という軌道に入りこむことは必須であることは否定しがたいです。

Page 5 of 89« First...34567102030...Last »