さまざまなデザイン の記事

Date:10/12/30

TIMEが「今年の人」にFACEBOOKのMark Zuckerberg を選んでいます。その記事を読みながら、クローズドな世界でありながら色々と覗き穴がセッティングしてあるところにヒットの要因があったのかなと想像したりしています。ぼくの周囲にいるヨーロッパ人の間では随分とFACEBOOKが生活の中に入っており、オフィスでひょいと後ろからPCを覗くとFACEBOOKの画面がでています。「なんだ、仕事してるのかよ」とも思いますが・・・。一方、日本の知人たちは「FACEBOOKの面白さはよく分からない」という人が多いです。170万人のアカウントの20%以下しかアクティブではないという背景がよく分かります。

今年は日本でTwitterが一般に認知された年です。鳩山首相が年初にTwitterをはじめたのが、その大きな契機でしょう。ユーザーは1500万人を超え、他のSNSと比較しても圧倒的な普及を遂げました。ただ、これも皆が皆、使いこなしているわけではなく、「アカウントはもったけどどう使えばいいの?」という人は多いようです。一つ感じるのは、1年前よりも「140文字で何が言えるんだ?そんな短い文章でコミュニケーションが図れるはずがない」という批判がじょじょに減ってきた感はもちます。この批判のもとにあるのは、ポータルデバイスのSMSは別の世界ですが、ネット特有の「癖」とも関連のあることで、基本的にネットは文字数制限のない世界であり、ブログも書きたいだけ書くのが当たり前という「馴れ」のうえに成立してきました。

文字数制限は紙媒体ゆえにあるものだという考え方の反対側に位置するのがネットの文字数に対する「感度」であったと思います。が、Twitterの140文字に強い拒否感が出る人は、紙媒体信仰派をも多く含んでいたような気がします。しかし、この拒否感はネット全般に対する不信感があるので、この人たちをここでは除外しましょう。問題とするのは、ネットの世界に馴染んでいて文字数制限に違和感をもつ人たちです。ぼくが思うに、こういう人たちは、もともとメッセージを伝えることにさほど敏感ではなかったのではないかということです。

メッセージとは何文字だったら伝えられるというものではありません紙媒体で一番重要だった文字数制限とは、紙媒体がゆえに制限するだけでなく、メッセージとは常に制約条件のなかで成立することを確認させるものでした。人は君(ぼくのことだ!)のだらだらと書かれた文章に付き合うほど暇ではないし、コンパクトなメッセージほど理解への働きが強いという傾向もあります。そういうことをTwitterを通じて分かってきた人が多くなったのだろうか、とぼくは想像しています。しかも、TLに流れる他の人のメッセージとの共時性や、その人がどういう経緯でこういうことを語るのかが分かることで、コンテクストの重要性にも気づくことが促進されたとも言えそうです。Twitterの140文字は、それだけで独立された世界はあり得ないことを知らしめる契機になったかもしれないと思うのです。

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
Date:10/12/28

F1の開催国が中東へアジアに移行してきたことが、驚きとはならず当たり前の風景として展開されてきています。サッカーの世界のニュースも同様です。ヨーロッパと極東の日本の間にあった空白が、色とりどりのイベントで埋められいく・・・かつて学生時代、パンナムの世界一周便の飛行機で東京→香港→タイ→インド→バーレーン→英国と南回りで飛んできたことを思い出す・・・アジア・中東ベルト地帯が表舞台になってきています、表面上は。くどいようですが、あくまでも表面上です。

ヨーロッパの相対的地位の低下が2010年、特に強まったわけではありませんが、「もう自分たちの場所に潜在力のある大きなマーケットはあまりないよな」ということを、これまた街の隅々の人が口に出していうようになってきたとは言えるでしょう。今まではヨーロッパのなかでしか活動してこなかった人たちが、インドやアフリカに出かけるようになりました。しかし、F1やサッカーの例にあるように利権は自分の懐に入れたままです。表面上、中東やアジアが表舞台に出ることをやや顔を引きつらせながらも、虎視眈々とネタを探ってきた結果であり、ヨーロッパのもつ見えない資産の威力を中東やアジアも求めている結果です。日本が焦っているのは、ここに大きな要因があります。新興国が力を持つにあたって「利幅の大きい役得」をヨーロッパや米国に求めながら、さほど日本には求められていない、その差です。

2000年に入り数年間、ミラノで生まれた息子をみて通りを歩くイタリア人たちが「日本語とイタリア語を喋れていいね」とありきたりの言葉を残していきました。こちらが「いや、中国語のほうがいいかも」と答えると、「いや、いや、中国人はちゃんとディシプリンされていない連中だから、日本語のほうがいいんだよ」と外交辞令を含めて言い返してくるものでした。しかし、2005年頃からは「そうね、中国語のほうが有利かもね」とはっきりと言われるようになりました。要するに、日本の地位低下が、同じように地位の低下を続けているヨーロッパの街角の隅々にいたるまで認識されてきたということです。それは、今までよりはお洒落な中国人の経営する日本食レストランの増加と並行しています。食という「利幅の大きい役得」の源泉をみすみす取られてしまったのです。

日本人の板前さんたちは、「中国人は日本のオーセンティックな味を守らずに安上がりでやっていてずるい」と文句を言ってきましたが、中国人は「あんたたち、ナニ言ってるの?ローカルなお客さんが喜ぶ料理を提供してナニが悪い?」と答えます。2010年の日本の対世界の大きな変化の一つは、ここにあります。中国人の提供する日本料理のビジネスセンスは批判の対象とはならず、学ぶべきことではないかという認識がじょじょに広まりつつあることではないかと思います。そして、遅まきながら、「利幅の大きい役得」とは何かを具体的に探りはじめたのが経済産業省が主導する横断的プロジェクトのクールジャパン事業でしょう。弱体化している民主党の成長戦略の一環であることが危うさを感じさせますが、「利幅の大きい役得」という軌道に入りこむことは必須であることは否定しがたいです。

Date:10/12/27

年は強制的に変わるものです。しかし、今年のことは来年に上手く繋げたいし、来年になれば今年のことが滑らかに押し進んできたことを実感したいと思うものでしょう。ここに何か適当な言葉はないかなと思っていたら、ふと「渡し舟」という表現が思い浮びました。かつての渡し船は橋に変わり、多くは陸続きになっているのが現代社会ですが、年をまたぐには橋ではなく渡し舟の感覚が似合うのではと思ったのです。だいたい橋は往復イメージが強すぎる!

そう、どんなにあがいても往った年は繰り返さない。でもなんせ365日も共に過ごした年をおろそかにするなんて馬鹿なことは考えないほうがいい・・・というわけで、今年を振り返ってみようと思うわけです。まずは、世界全体の動きから。

特に何かのサイトや雑誌で振り返るのではなく、ぼく自身の記憶に残っている「感触」から言います。2008年に突入した世界不況は、2010年において、2008年末のマスメディアを騒がしたような状況には至りませんでしたが、その影響が世界の街角の隅々までいきわたったといえるでしょう。産業間の時差ー例えば自動車や電機と建設業の時差ーは2009年に既になくなっています。2010年は、その時差のないなかでストラクチャーがもろに浮き彫りにされた年です。別の表現にすれば、換えるべきストラクチャーが明確になってきたということです。街の隅々とはこういうことです。アジアの新興国のことがこれだけ語られるのも、このストラクチャー変化の一表現とみるべきでしょう。

ギリシャの破綻あるいはスペインやアイルランドの苦境の話し、あるいはドイツの回復基調は、それぞれ一緒のレベルで語ることができないかもしれませんが、言ってみれば輝かしい未来がある地域だけに自律的にあるのではなく、新しいストラクチャーとの組み合わせにしかありえないことを認識させる現象の数々といえるでしょう。新興国の輸出先としての先進国という捉え方は既に古い地図であり、およそ先進国という表現自身、相当に色あせたものになっています。G8からG20が象徴的です。もちろん現実としては大きなギャップが地域ごとにあるのですが、経済先進国は結局のところ「先行きが行き詰った国」です。しかし、開発途上国や新興国も「今後に将来があるように見えるが、その先に行けば行き詰るだろう国」でしかない、今のところ。

即ち、考え方や見方の見直しが非常に重要になっています。あれだけの厳しい労働に日々の糧を見出していた中国人移民の子供が、「もう、お金じゃないですよね」と語るのを聞き、世の中の価値観の変貌のスピードに驚きました。伝統は生きるが、伝統に生じる綻びを見逃せない・・・とことさら実感する年でした。

Page 5 of 88« First...34567102030...Last »