さまざまなデザイン の記事

Date:11/1/2

あけましておめでとうございます。

昨年は夏から秋にかけてエントリー数ががくんと減ってしまいましたが、先月よりまた以前のペースに戻しつつあります。ブログは「これ、ブログに書くほどではないか」と思いはじめると急に書けなくなります。「これ、どうかなと思うけど、メモだと思って書いておこう」程度に気楽に構えるのがコンスタントに書くコツのようです。まあ、そういうわけで若干のスランプ(?)を脱しつつあります。あまりテーマも絞らず、より自由に書いていきましょう。テーマを・・・なんて考えると、どうも自分の周りに囲いができたような気になるから。

昨日知ったのですが、今年のミラノのアートフェアは4月8日から11日です。これって、サローネとぶつける気?と思ってサローネの日程を確認すると12日からなんですね。ミラノのアートフェアはボローニャやトリノと比べて存在感がないと言われてきましたが、この日程、かなり意味深です。サローネと同じ時期にぶつけずに直前でやるというのは、サローネのためにミラノに早めに入る人たちを呼び込もうというのでしょうか。アート業界はデザイン業界とは別のサイクルと次元で動いてきましたが、サローネ動員の恩恵を蒙ろうかと思うのも自然でしょう。さて、それがどれほどにインパクトを与えるのかは、4月のお楽しみとしておきましょう。

元旦の昨日からイタリア人が1900年初めに書いた子供向けの小説を読んでいます。”Le maraviglie del Duemila” という題名なのですが、100年後の世界、つまりは2003年に主人公二人が出会う世界を描いています。未来小説です。体を機能停止にする薬を発見したドクターが、それを自ら使って100年間「休憩」し甦るわけです。財産は全て金に変え100年後に備えるなど、これは1000年後のタイムマシンが今できても使う知恵だろうなと思います。金は既に「最終的価値」ではないですが、不況になってその価格が上昇するように、それこそ「黄金の法則」として金の価値は維持されてきています。「金は1000年後にも価値を失わない」と予言してあたっても誰も感心しないでしょう・・・・。

この小説で2003年に「60年前にヨーロッパとアメリカの大戦争があって数百万人の犠牲者が出て以来、戦争はこの世になくなった」というくだりがあります。あるいは農業や食事の崩壊ー宇宙食的な状況ーが説明されています。2011年現在、ここまではダメージを受けていないけど、警告を込めた予測としてはあたっているなあと思います。しかし、100年後の予想が方向としてあたっているのは、それほどに驚くべきことなのか?という思いにも駆られます。我々は願望も含めてですが、100年後に関して「こうだろうなあ」と思うことは、その現実化の仕方に狂いがあっても、案外、見通せることが多いのではないかとも夢想するのです。

2050年に人類は危機に瀕するという予想に色々と賛否両論がありますが、(その予想の正しさを覆す事実や状況はたくさん出てきたとしても)人口の増加や自然環境の悪化がストップすることはあまりなさそうです。地球が温暖化しているのかどうかはよく分かりませんが、地球の自然がより良くなっているとは言えそうにないし、今後40年、現状維持(が、できたとして)に苦労するのは明らかでしょう。つまりは、「2050年に地球環境は悪化している」と大きな声で叫ぶことより、もっと小さな声で短期の予測と検証を積み重ねたほうが現実的であるというより意味があるのじゃないかと思います。

但し、ここで書いていることは、目標の設定を軽んじているわけではないので誤解なきよう。

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
Date:11/1/1

古い雑誌を整理していると、随分と読み残している記事が多いのに気がつきます。そうすると、捨てる前にちょっとは読んでしまおうと思ってしまう。そして読んだ、少し前の週刊文春です。林真理子が既に自分のことを知らない若い人が多いことに気づいたとのエッセーがありました。「かつての有名人」はそこで複雑な思いに駆られるわけですが、今や「かつての有名人」のように全ての人が知っていることが少なくなっています。佐藤栄作の時代は皆が5-6代前の総理大臣も言えて外務大臣や大蔵大臣の名前がすぐ出てこないことは、社会人として失格だったでしょう。しかし、菅首相と小泉首相の間の何人かの首相の名前と在任期間を言えなくても、あるいは、その時々の外務大臣や財務大臣の名前が言えなくても全然恥ずかしくないでしょう。

これは政治の世界がコロコロと変わっているからだけではありません。どんなにイチローが有名であろうと、長嶋茂雄が国民的スターであったほどには多くの人の脳裏に焼きついた名前となっていないのです。スターが小粒になったとは言われます。しかし、それは小粒のタレントもあるかもしれないけど、小粒であるしかないようなシステムで社会が成立するようになったからだと思います。昔は一部のジャーナリストしか知らなかった俳優の私生活の一部を、FACEBOOKでは多くの人が当然のように知ってしまっています。情報がガラス張りになればなるほど、大粒である成立条件をどんどんと壊していきます。なにせ未知が小を大にする重要な要素であったのですから。

逆にちょっとした有名人は出来やすい。Twitterで何十万人というフォローワーを抱えている人の名前をみて、一般のTwitter以外の世界の多くの人がどれだけ知っているでしょうか。つまり、「有名人の局地化」が加速しています。Twitterの有名人は必ずしも他のSNSで有名ではないかもしれないし、いわんやマスメディアのなかでは「市井の人」か「ポッと出」としか形容されません。ちょっとした有名人になるシステムは、マスメディア全盛の時代よりは明らかに揃っているのです。

そこで課題は、かつてのような有名人であることに今もメリットがあるか?「局地的有名人」であることが充分であるか?という問いにどう答えるかです。衆議院の小選挙区制で立候補するより、所属党の意向次第の比例代表制の方が「局地的有名人」であることは有効に作用するかもしれません。もちろんTwitterのセミナー講師で稼ぎまくるならTwitter有名人で充分でしょう。しかし、それでは比例代表区の推薦は得にくいでしょう。それには、マスメディアでの「局地有名人」であるほうが有利です。そして、マスメディアの「局地的有名人」はTwitterの有名人にはなりやすいけれど、その逆が同様にはなりにくいのが現実でしょう。

しかし、いずれにせよ、現代における有名人は長続きしません。ホリエモンが有名になったのは彼の日ごろの活動ではなく、TV局の買収劇や逮捕という事件での瞬間風速的な側面が強く、荒川静香という名前はトリノ冬季オリンピックで金メダルをとった数ヶ月が旬だったわけです。なにも不祥事も事件もなにもなく、またイベントで名前を挙げるということもなくーW杯でゴールを入れるー、恒常的に有名であることがあまりないのが現代であり、それがより強まっていると言えると思います。吉永小百合のような名前が再び出ることは至難です。

即ち、ブランドを考えるとき、局地的ブランドこそが優位性をもつのかどうか、をより真剣に考えるべきシーンに直面している。このことを更に意識しないといけない時代に突入しています。突き詰めれば、どのような「局地ブランド」を組み合わせるかに傾注すべきということでしょう。

Date:10/12/30

TIMEが「今年の人」にFACEBOOKのMark Zuckerberg を選んでいます。その記事を読みながら、クローズドな世界でありながら色々と覗き穴がセッティングしてあるところにヒットの要因があったのかなと想像したりしています。ぼくの周囲にいるヨーロッパ人の間では随分とFACEBOOKが生活の中に入っており、オフィスでひょいと後ろからPCを覗くとFACEBOOKの画面がでています。「なんだ、仕事してるのかよ」とも思いますが・・・。一方、日本の知人たちは「FACEBOOKの面白さはよく分からない」という人が多いです。170万人のアカウントの20%以下しかアクティブではないという背景がよく分かります。

今年は日本でTwitterが一般に認知された年です。鳩山首相が年初にTwitterをはじめたのが、その大きな契機でしょう。ユーザーは1500万人を超え、他のSNSと比較しても圧倒的な普及を遂げました。ただ、これも皆が皆、使いこなしているわけではなく、「アカウントはもったけどどう使えばいいの?」という人は多いようです。一つ感じるのは、1年前よりも「140文字で何が言えるんだ?そんな短い文章でコミュニケーションが図れるはずがない」という批判がじょじょに減ってきた感はもちます。この批判のもとにあるのは、ポータルデバイスのSMSは別の世界ですが、ネット特有の「癖」とも関連のあることで、基本的にネットは文字数制限のない世界であり、ブログも書きたいだけ書くのが当たり前という「馴れ」のうえに成立してきました。

文字数制限は紙媒体ゆえにあるものだという考え方の反対側に位置するのがネットの文字数に対する「感度」であったと思います。が、Twitterの140文字に強い拒否感が出る人は、紙媒体信仰派をも多く含んでいたような気がします。しかし、この拒否感はネット全般に対する不信感があるので、この人たちをここでは除外しましょう。問題とするのは、ネットの世界に馴染んでいて文字数制限に違和感をもつ人たちです。ぼくが思うに、こういう人たちは、もともとメッセージを伝えることにさほど敏感ではなかったのではないかということです。

メッセージとは何文字だったら伝えられるというものではありません紙媒体で一番重要だった文字数制限とは、紙媒体がゆえに制限するだけでなく、メッセージとは常に制約条件のなかで成立することを確認させるものでした。人は君(ぼくのことだ!)のだらだらと書かれた文章に付き合うほど暇ではないし、コンパクトなメッセージほど理解への働きが強いという傾向もあります。そういうことをTwitterを通じて分かってきた人が多くなったのだろうか、とぼくは想像しています。しかも、TLに流れる他の人のメッセージとの共時性や、その人がどういう経緯でこういうことを語るのかが分かることで、コンテクストの重要性にも気づくことが促進されたとも言えそうです。Twitterの140文字は、それだけで独立された世界はあり得ないことを知らしめる契機になったかもしれないと思うのです。

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
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