さまざまなデザイン の記事

Date:09/2/12

この数日、頭から離れない言葉があります。

「ああいうのは要らない」

社会思想史の仲正昌樹氏『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)の著者あとがきにあるフレーズです。

自分で書いてみて分かったのだが、日本の戦後思想史について「常識」として知られていることを、他の国と比較しながら相対化するというのは、なかなか難しい。「知っているつもり」のことでも、歴史的文脈を再構成しながら説明するのは容易ではない。

その意味でやりがいのある仕事ではあったが、先行するモデルがないので、結構試行錯誤した。すぐに書けそうな気がしても、いざ文章化しようとするとなかなかまとまらない箇所がいくつもあった。

自分でもこういうまとめ方で良かったのか、と疑問が残っているところがあるが、それらのポイントには読者の”具体的で建設的な批判”を待ちたいー一冊の本にまとめて書くときには単純化や細部の切捨て、ある程度強引な文脈の再構成が必要であることを基本的に理解しないまま、「話しが雑でいい加減だ」とだだっ子のような”批判”をするのが、日本のドイツ思想史研究者もどきには多いが、ああいうのは要らない。

「ああいうのは要らない」で文章が終わっています。こういう言い方をするか!とかなり驚きました。およそ一冊の本も書かない読者が多いなかで、本を書く苦労を分かって読むのが基本だと主張しているわけです。本だけではなく、何か一つの仕事を成し遂げるというのは、ある程度目をつぶることがあるのは、誰でもわかっていることでしょう。それをあえてこう書きたい、と思った裏には、今まで多くの不毛な批判にうんざりしてきた著者の気持ちがうかがえます。職人的スピリットといえば、そうです。

ある目標がはっきりとしているとき、その目標の達成効率を最優先に考えるとき、こういう表現がでてきます。そういえば、デザイナーも、自分のマーケットが鮮明に見えていれば「ああいうのは要らない」と他者の批評に対して言いそうだなと思いました。ミラノサローネに作品を発表し、「ああいうのは要らない」という態度をとれるかどうか・・・それは態度として見て心地よいかどうかではなく、どこまで自身のビジョンを描ききっているかという問題になると思います。

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Date:09/2/10

子供の時の1週間はものすごく長かったという覚えが貴方にもあるでしょう。いわんや1年先なんて、とてもじゃないけど計算に入らないくらい遠い将来に思えたはずです。年齢が増すにしたがって、時の流れが早く感じられるといいます(第三者的表現ですが、ぼく自身も同意します)。1年なんてアッという間です。

一方で、ネット社会の到来と共に変化のスピードも猛烈に増しました。前回、イエス・キリストを例に、5年間で一つの全体像が見えてくると書きましたが、現代のイエス・キリストはもっと短い時間で十分かもしれません。そういうなかで、「明日が今日より良いか?」と問うた時、「いや、明日も今日と同じかもしれない」と答え、それこそが新しい現代のあり方かもしれないという考え方がじょじょに出つつあります。特に経済状況が悪化した昨秋から、そのような記事を目にします。中世的な「昨日と同じ今日、今日と同じ明日」の連続である世界を認めようという動きとも言えます。

ぼくは、アーサー・D・リトルの川口盛之助さんが、日経BPオンラインで年産500台の光岡自動車を「クルマを愛せないのは誰のせい?」というタイトルで紹介しているのをみて、これも時間感覚への問いかけかもしれないと思いました。読者コメントには「コピー版のクルマではないか」「ビジネス規模が大メーカーと違うから参考にならない」等の批判もありますが、ぼくは別の文脈で読んでみました。

記事は現在のクルマ市場を「嫁の実家から届いた見合い話」と比喩して語っています。

そんな恋愛破局劇を4年おきに繰り返すうちに、旦那が女性不審に陥るのは必然的な結末でしょう。「もう二度と車(女)なんか愛すまい!」となり、そんな身勝手な自分を慰める論理的な説明とは「車(女)なんて所詮は機能に過ぎない、楽に心地よく効率よく移動してくれる単なる手段として解釈しよう」となります。そうなると、価値判断の基準は「ニューモード」と「新技術」になるのは必然でしょう。

モードとはコスメティックなデザインの流行のことで、去年はルーズソックス、来年はネールアートというふうに理論では予測不能の「揺らぎ」のような現象です。一方の新技術は、知恵の積み上げでできてきますから、ファッション的なものとは一見対極にあるように映りますが、売り手側にとって両者に共通する点は、毎年目先を変えるための理由に過ぎないという点です。

<中略>

結局は、短い商品サイクル設定で売り上げを立てるというやり方とは、「この商品を愛さないでください」というメッセージを出し続けているということなのでしょう。売ろうとしているモノは長く愛すべきモノではなくて必要な機能を提供する手段に過ぎませんというメッセージです。

<中略>

どこかで狂ってしまったこのメカニズムを正し、ドライバーの愛を取り戻すためには、市場側に「いじってもらってなんぼ」という冗長な車づくりをする必要があると考えています。走行制御系の中身はさておき、ハンドリングから表層までの部分は完成車メーカー側がユーザーサイドに対して積極的にその体制を敷きつめる覚悟をしなくてはなりません。ソフト産業や衣料品、軽工業分野ですでに起きているプロシューマー化の潮流を先取りして反映する必要があるのです。

短いサイクルの時間感覚と長いサイクルの時間感覚の綱引きは、今に限ったことではなく、常にどの時代にもあったことです。しかし、この記事が語っているのは、この綱引きがビジネスの現場(それも同じ業界のなかで)で、より鮮明な形で出てきていると理解するのが良いのではないかとぼくは考えたのです。「少量特殊車両を得意としてきたイタリアのカロッツェリアと同じじゃない」、と言い切ってはいけないもう一つの潮流があるのではないか、と。

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Date:09/2/7

昨日、時代の動きと題して、今という時代のあり方について触れました。4-5年という時間は短いのか、長いのか、最近、それについて書いてある文章をみつけ、「なるほどね」と感心しました。

松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社)という本を先月東京で買いました。たまたま本屋で目に入ってきたのですが、実はぼくの本『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』をアマゾンで買った人が、この本を買っていたので、何となく気になっていたのです。ここでは文化を見るときに、如何に関係性に注目すべきかがテーマになっています。その中に、こういう内容があります。

イエスがイエス・キリストとして活動していた期間はたいへん短くて、31歳のときに「荒野のヨハネ」という預言者から神の世界を教えられて、35歳のときにゴルゴダの丘で十字架に磔になってますから、せいぜいその5年くらいの活動です。ジーザス・クライスト・スーパースターといったって、その活動期はほんの短い期間だったわけです。たったの5年間です。

<中略>

けれども、本当に何かをやりたければ、この5年間という期間は非常に大きいものです。

ファミコンが広まったのも、ケータイ電話が広まったのも、5年もかからなかったでしょう。逆にいえば、5年もあれば、何だってできる。そういうふうにも考えられる。イエス・キリストが生きた5年間がまさにそうでした。

さらにいえば、イエスの5年間のことをある程度くわしく知っていたのは、ペテロ以下の10数人の弟子だけでした。前回話したブッダの最初の弟子が10人。釈迦十大弟子といいますが、でも結局はこの10人が仏教の誕生に、あるいは12人がキリスト教の誕生に大きくかかわったのです。ですから、何かをおこしたければ、最初の10人をまず作るべきなんです。そしてそのコア・メンバーとともに5年を集中するべきです。それ以上はいらない。幕末の吉田松陰の松下村塾だって、せいぜい2年です。

ミラノサローネなどを見ていても、「これは!」と思ったところは、毎年何らかの進展がみられ、5年間もすれば、それこそスター的な位置に上りつめていたりします。あるいは、その逆に、まったく姿を消してしまったのではないかと思われるようなこともあります。すなわち、5年間を一つの単位として、ある動向をみていけば、かなり全体像に迫ることができるはずだ、ということになります。

米国の大統領の任期は4年ですが、あれだけ優秀なスタッフを数多く揃えている(あるいは、揃える力がある)わけですから、これはなかなか示唆的な時間です。

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