さまざまなデザイン の記事

Date:09/2/14

昨日に引き続き、水村美苗氏『日本語が滅びるときー英語の世紀の中で』(筑摩書房)からの引用を続けましょう。明治期に生まれた新しい文体に関する記述です。

もちろん、言語一致体がめざしたリアリズムに刺激され、和歌も俳句もルネッサンスというべき黄金期を迎える。新体詩も現れる。カタカナという表音文字も西洋語の音を表す文字として生まれ変わり、日本語の表記もさらに複雑にする。同時に、西洋語からの翻訳文という新しい文体も加わる。

「親愛なるあしながおじさん」などという日本語ではありえない文章も、西洋語の翻訳文として何の違和感もなく日本語の一部となって流通するようになる。日本人は、あたかも車のギアをシフトするごとく、西洋語の翻訳文を読むときは、読みのモードをシフトして読むようになったのである。これほど多様な文字と文学の伝統をまぜこぜにし、しかもそれぞれの歴史の跡をくっきりと残した文学ーそのような文学は私が知っている西洋文学には見当たらない。

「日本人は、あたかも車のギアをシフトするごとく、西洋語の翻訳文を読むときは、読みのモードをシフトして読むようになったのである」とあります。日本人はなんと器用なのでしょう。まさしく、この翻訳能力が、日本の近代の力であり、その能力こそが日本の強みであり続けてきたのです。だからこそ、西洋文化と日本文化の二本立ての教養は、日本が欧州に何かを売り込むとき、何かをコラボレーションするとき、優位性をもつ鍵になりうるのです。つまり、デザインについて言えば、欧州のデザイン文脈の読み込みをして戦略を立てるに際し、最初の土台がそれなりにあるので、より迅速かつ柔軟にできるというアドバンテージがあるのです。

日本の小説は、西洋の小説とちがい、小説内で自己完結した小宇宙を構築するのには長けておらず、いわゆる西洋の小説の長さをした作品で傑作と呼ばれるものの数は多くはない。だが、短編はもとより、この小説のあの部分、あの小説のこの部分、あの随筆、さらにはあの自伝と、当時の日本の<現実>が匂い立つと同時に日本語を通してのみ見える<真実>がちりばめられた文章が、きら星のごとく溢れている。それらの文章は、時を隔てても、私たち日本語を読めるものの心を打つ。

しかも、そういうところに限って、まさに翻訳不可能なのである。

ディテールから積み上げていく日本文化、大きな枠組みでコンセプトを構築してからブレイクダウンしていく西洋文化、この文化の違いが、小説において語っていることが、そのまま他の分野にも適応できます。そして、その「心を打つ」部分が翻訳不可能であるというのも、日本文化を知らない人達にジャパンデザインをアピールするとき、考慮にいれないといけないことです。

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Date:09/2/13

小説家の水村美苗氏『日本語が滅びるときー英語の世紀の中で』(筑摩書房)は、ネットの世界でも大いに話題になりました。シリコンバレーにいる梅田望夫氏の2008年11月7日のブログが口火を切ったようで、小飼弾氏も梅田氏のブログの紹介で、この本を読んだと11月9日に書いています。ぼくも遅まきながら、今週、読了しました。本書はデザインにおける文化距離感を考えるにも参考になるので、複数回にわたって、これを取り上げます。

実際、すでに<叡智を求める人>は、今の日本文学について真剣に語ろうと思わなくなってきている。今の日本文学について真剣に考察しようと思わなくなってきている。だからこそ、今の日本では、ある種の日本文学が「西洋で評価を受けている」などということの無意味を指摘する人さえいない。

ここで書いている「西洋で評価を受けている」本が何を指すか、具体的な名前を挙げずとも、分かるでしょう。そして、これは文学に限らず、アートやスポーツの世界にもあることだと思い浮かべられると思います。

言葉について真剣に考察しなくなるうちに、日本語が西洋語に翻訳されることの困難さえ忘れられてしまったのである。近代に入り、日本語は西洋語からの翻訳が可能な言葉に変化していく必然性があった。日本語で読んでも西洋語の善し悪しがある程度分かるのはそのせいである。

日本は雑種文化とも定義づけられてきましたが、この雑種であるがために、日本文化は輸入文化をローカライズする術に長けてきたといえます。したがって、ヨーロッパのデザインについても、「ある程度」分かるわけです。しかし、それが西洋においては違うというのが以下の部分です。

ところが、西洋語は、そのような変化を遂げる必然性がなかった。西洋語に訳された日本文学を読んでいて、その文学の真の善し悪しがわかることなど、ほとんどありえないのである。わかるのは主にあらすじの妙であり、あらすじの妙は、文学を文学たらしめる要素の一つでしかない。

それは漱石の文章がうまく西洋語に訳されない事実一つでもって、あまさず示されている。実際、西洋語に訳された漱石はたとえ優れた訳でも漱石ではない。日本語を読める外国人のあいだでの漱石の評価は高い。よく日本語を読める人のあいだではほど高い。だが、日本語を読めない外国人のあいだで漱石は全く評価されていない。

以前『ニューヨーカー』の書評で、ジョン・アップダイクが、英語で読んでいる限り、漱石がなぜ日本で偉大な作家だとされているのかさっぱりわからないと書いているのを読んだときの怒りと悲しみ。そして諦念。常に思い出すことの一つである。

拙著『ヨーロッパの目 日本の目』で、東洋文化に関心の高い欧州人は、その文化体系に評価のポイントをおいているので、日本の雑貨や家具デザインを前にして、「とりあえず褒めておこう」という傾向が強い旨を指摘しました。この漱石に対する評価が真っ二つに分かれる現象は、欧州人の日本デザイン評価と非常に近いものがあります。日本人の欧州デザイン評価、欧州人の日本デザイン評価、この二つを比較したとき、前者のほうが「ある程度分かる」率が高いのです。ただ、話はあくまでも「ある程度」です。

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Date:09/2/12

この数日、頭から離れない言葉があります。

「ああいうのは要らない」

社会思想史の仲正昌樹氏『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)の著者あとがきにあるフレーズです。

自分で書いてみて分かったのだが、日本の戦後思想史について「常識」として知られていることを、他の国と比較しながら相対化するというのは、なかなか難しい。「知っているつもり」のことでも、歴史的文脈を再構成しながら説明するのは容易ではない。

その意味でやりがいのある仕事ではあったが、先行するモデルがないので、結構試行錯誤した。すぐに書けそうな気がしても、いざ文章化しようとするとなかなかまとまらない箇所がいくつもあった。

自分でもこういうまとめ方で良かったのか、と疑問が残っているところがあるが、それらのポイントには読者の”具体的で建設的な批判”を待ちたいー一冊の本にまとめて書くときには単純化や細部の切捨て、ある程度強引な文脈の再構成が必要であることを基本的に理解しないまま、「話しが雑でいい加減だ」とだだっ子のような”批判”をするのが、日本のドイツ思想史研究者もどきには多いが、ああいうのは要らない。

「ああいうのは要らない」で文章が終わっています。こういう言い方をするか!とかなり驚きました。およそ一冊の本も書かない読者が多いなかで、本を書く苦労を分かって読むのが基本だと主張しているわけです。本だけではなく、何か一つの仕事を成し遂げるというのは、ある程度目をつぶることがあるのは、誰でもわかっていることでしょう。それをあえてこう書きたい、と思った裏には、今まで多くの不毛な批判にうんざりしてきた著者の気持ちがうかがえます。職人的スピリットといえば、そうです。

ある目標がはっきりとしているとき、その目標の達成効率を最優先に考えるとき、こういう表現がでてきます。そういえば、デザイナーも、自分のマーケットが鮮明に見えていれば「ああいうのは要らない」と他者の批評に対して言いそうだなと思いました。ミラノサローネに作品を発表し、「ああいうのは要らない」という態度をとれるかどうか・・・それは態度として見て心地よいかどうかではなく、どこまで自身のビジョンを描ききっているかという問題になると思います。

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