さまざまなデザイン の記事

Date:12/5/27

どこのフィールドの人間が一番世の中の先端的動向を見れるか?と質問すると、科学、哲学、アートなどさまざまな答えが返ってくると思います。ぼく自身の勘でいえば、自然科学に携わる人が見ている現実が「一番新しい現実」であることが多いように思えますが、それが「世の中の先端的動向」か?と言えば、必ずしもそうではない。なぜなら、ここでいっている「動向を見れる」とは、世の中の水や風の動きの変化を嗅ぎ付けるセンスを語っているからです。そういう点で、どのフィールドの人が突出しているとは言い難い。センスのある人はどこにでも僅かなパーセンテージで存在するでしょう。「時代の匂いを感じ取る」ファッション業界にかたまっているとは言えないのです。

あえていえば、感じ取ったことを表現するに経済的に無理がなく社会的インパクトを与えやすい分野から、水の流れは変わり風向きは転換しやすい。それが音楽、アート、ファッションであり、研究費と仮説検証に時間と金がかかる自然科学ではない理由です。ファッションの人たちがどのような考え方をするのか、過去、その例を二つ紹介しました。「セント・マーティンズ大学について語ろう」と「ファッションデザイナー・村田晴信さんに聞く」です。ファッションデザイナーもファッションだけをみてコンセプトを考えるのではなく、音楽、映画、文学、写真、プロダクトデザイン・・・多様なインプットから作っていきます。どこかに頂上があり、そこから「あそこ!」と指摘するわけではありません。

最近、セント・マーティンズを出たファッションイラストレーターと話していて感じたのは、ファッションはダイナミックな動きを伴うため、イメージする時に映像や音楽を思い浮かべやすいのではないか?ということです。プロダクトデザイナーも映像や音楽に影響を受けるでしょうが、コンセプトイメージはやや静止画に近いケースが多いかもしれないとの仮説を話し合いました。そこで、今度、プロダクトデザイナーにファッションをデザインしてもらうワークショップをしてみると良いかもしれない、との話になりました。「イメージにおける動作」に関するリサーチから何かヒントが得られるのではないかと思います。

ファッションデザイナーの村田晴信さんは吉岡徳仁の結晶の椅子をみて、高校の化学の先生に材料を確かめ、ミョウバンで試作品を作りコレクションへの応用と歩を進めました。ご本人に確かめたわけではありませんが、ミョウバンが育つプロセスがファッションの「動き」とフィットしたのかもしれません。その文脈でいうと、テキスタイルも「動き」のイメージのなかにあるのではないかと想像するに至ります。そこでミラノのNABAでファッションデザインの学生にテキスタイルデザインを教えている今井幹雄さんに、彼自身のNABA卒業制作を紹介してもらいました。

ここにアップした画像は全て今井さんのものです。一番上は霧のかかったぼんやりした風景。二番目は草が風に揺れるさま。スペースの存在を感じさせ、ここでいうスペースとは物理的に囲まれた場所というより、人の身体を包む空気が漂う場所という意味合いが強いです。2番目の画像もそうですが、空気の動きを想起させます。テキスタイルは着る人を包みながら心地よく肌と外気が触れ合う媒体であるわけです。

この次のステップは次回に紹介します。

Date:12/5/21

チェルノブイリの事故の影響は、ヨーロッパのまだ身近なところにあったんだと痛感する経験が最近ありました。ぼくは今、新素材のビジネスに関わっているのですが、ある箇所に使用される材料について話し合っていたときのことです。木材コストに話が及んだとき、某国の事例で「実はね、木材は太刀打ちできないんだよ。チェルノブイリ周辺の木材が価格破壊的なレベルで出回っていて、どんな材料でも戦うのが無理なんだ」と低い声で囁かれたのです。やはり、そういうことなのかと状況を察知したわけですが、こうなると日本のことに思いを馳せないわけにいかなくなります。

昨年、原発事故が起きてから一つのことを考えています。「今とここに生きる」のが日本の美学の伝統的な要素であり、それを肯定し続けるのが良いのだろうか?ということです。加藤周一の『日本文化における時間と空間』の一節を引用しましょう。

全体に対して部分を重視する傾向である。時間における「今」の強調は、時間の全体に対して の部分の自律性(自己完結性)の強調と考えることもできる。したがって空間における「ここ」の重視、さらにはここ=限られた空間を構造化するのに全体の型 よりも部分の質に関心を集中する態度と呼応するだろう。「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程の方向性は、「今=ここ」の文化の 基本的な特徴である。

こうした考え方が環境問題に対するバックキャスト的なアプローチー最悪の環境を想定して対策を講じるーを拒否しがちである説明に使われやすいのですが、一方で自然の流れに寄り添う大切さ、あるいは「起こったら仕方がない。水に流せばいい」という思い切りの良さを評価しやすいのも確かです。そして、自然と対峙する西洋合理主義がどうみても反省すべきまっただ中にいるなかで、自然と馴染むアプローチがエコロジーの面から注目されやすいーだが、包括的な接触でありながら部分に配慮しやすいー。しかし、いやおうなしに混沌とした世界に生きゆくぼくたちに、「今とここに生きる」限界を突きつけたのが原発事故ではなかったのかとの思いがどうしても消えません。田坂はこう語ります。

正確に言えば、「技術的」に、どれほど安全な対策を施していても、「人的、組織的、制度的、文化的」な要因から、技術者が「想定」していなかったことが起こるという落し穴です。(中略)

すなわち、言葉を正確に使うならば、安全設計において技術者が行っているのは、「起こり得る全ての事態を想定している」のではなく、「想定し得る全ての事態を想定している」に過ぎないのです。従って、その技術者、もしくは技術者集団の「想像力」を超えた事態は、「想像」もされなければ、「想定」もされないのです。

自然に対峙して全てを理解のもとにおこうとは思わない思考ー「全体」より「部分」へ注視ーが、全体の「想定」の範囲をどうしても狭くし、その境界線を曖昧なままにしやすい。それがゆえに、限界線での対策が甘くなりやすい。必ずしも田坂は、そう明言しているのではないのですが、彼の言葉にある「文化的要因」に当然含まれてしかるべき項目であろうと考えます。生活スタイルや美的基準でいかほどに自然に添う姿が良いと言え、バックキャスト的なアプローチが必要ーまたは優位ーな場合においては全体把握への立場をぐらつかせてはいけないと考えます。ただ、「文化的要因」であるため、そうしようと思ってできるものでもありません。

このテーマが抜き差しならぬもので、それこそこれらの状況すべてを含んだ「全体」をどう掴むかが、真正面から問われている。そのように考えます。すなわち、この事故の直接当事者だけではなく、日本人と自ら名乗るほとんど全ての人たちが自分の感性からロジック様式のあり方を問われているのです。他人事ではなく自分事であり、しかし自己責任という言い方での始末のつけ方ではない、新しい扉の選び方と押し方ー引き方ーを決めないといけないという認識が必要なのだと考えています。

いわば、日本人の文化アイデンティティがテーマになっているとの自覚をどれほどにもつか?です。

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
Date:12/4/7

先日、センピオーネ公園の小遊園地を息子と自転車で通りかかった時、ふと7-8年前のことを思い出しました。園内を走る大人はかがみこむようにしないといけない汽車やゴーカード。あの小さな汽車やゴーカードに乗り込むのが密かな喜びだったーそれは自身の幼少のころを追想する楽しみを兼ねていましたーこともあり、かなり頻繁に通ったものです。しかし、息子が6歳になったあたりでぱったりとその楽しみは「奪われ!」、公園のなかを自転車で競走することになりました。先日は何となく、息子に追想経験をさせたくて「ねえ、あのゴーカードに乗ってみない?」とややしつこく勧めてみました。

彼は「いいよ、ツマラナイ」と即座に断ります。ただ、横目でゴーカードを走るのを眺めていて、思いついたように「うん、1回だけ乗ってみる」と答えます。10歳の子供にも窮屈なゴーカードに数年ぶりに乗ってみようと思った理由。それはマクラーレンを模したグレー色のモデルがあったからです。F1の全GPを欠かさずTVで観戦している彼のお気に入りはハミルトンで、それでマクラーレンファンというわけです。よって小さくノロいゴーカードでも一回は試してみたいという気が起ったようです。数周を終えての一言「やっぱり、つまらなかった」。

昨年の夏、ぼくは40年ぶりに自分が卒業した小学校とその周辺を歩きました。あまりに校庭が小さく学校の周りの道がどこも狭く、自分の少年時代の風景はこんなにコンパクトだったのかと驚きました。こういう経験は初めてではないのに、その場にいくと、少年時代の目線の高さと空間把握の広さー狭さーにあらためて気づかされます。これは場所だけでなく、子供の時に全く手が届かないと思っていた人が、自分が大人になってみると案外そうでなかったりということもあります。

背ではなく、人間性の話です。寂しいことではありますが、高齢になると考え方が子供のようになる傾向があります。だから、変わったのは本人の目線や視野だけでなく、相手自身ということも考えないといけません。ただ、やはり未熟な時には見えなかった粗が成熟するにつれて見えてくる・・・という事実は避けがたくあります。しかし、誰でも余裕をもって考え話していることなど殆どなく、ギリギリのところで生きているんだと分かってくると、他人の粗にたいして寛容になります。「結局、本田宗一郎も奥さんに頭があがらなかったわけね」と言うのではなく、「奥さんに頭があがらなくても、あれだけの偉業が可能なんだね」と思う。そういう表現が理解できるようになるのです。

さて、ヨーロッパです。かつて日本にとってヨーロッパは大人に見えました。先進的で成熟した社会のモデルとしてのヨーロッパが大きく見えたのですが、この数十年、もうろくを始めた老人を見る目つきになってきています。そして、隣にいる若手の進撃を横目で眺め、かつ、そのマーケットにも羨望を感じながら色目を使い始めると、自分自身の足元が20代のころの俊足にはかなわないことを発見します。そして、日本はいったい身体年齢は何歳で精神年齢は何歳なのか・・・と自問自答を始めたのです。ポイントが精神年齢の自覚にあるのは明らかです。

 

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
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