さまざまなデザイン の記事

Date:14/9/7

日本に何人の建築家がいるか正確に知りませんが、それなりの数の建築家がいると思います。あるソースでは一級建築士は30万台という数が参考に出ています。試験の合格者の総数がそのまま現在の数にならないから、正確な数字は把握しずらいのでしょう。そして街に出れば、あのビルもこのスタジアムも建築家が設計したと調べれば分かり、「さすがだね」とか「目立ちたいだけじゃないの」とか、それは褒められたりけなされたりするわけです。そして、そういう時に、「誰々の設計した家は住めたもんじゃないってさ。雨もりはするしさ、奥さんが言ってたらしいよ」という、どこで聞いたかも知らない噂ともつかぬ都市伝説が真実味を帯びて語られ、「やっぱりね」と同意したりするのです。

しかし、一級建築士という資格をもった建築家が、それなりに本気を出したオーダーメイドの家というのは、日本のふつうの人はあまり知らないはずです。レストランのような商業建築の内装あたりまでが自分自身も建築家の思想空間を味わえるケースでしょう。それほどに多くの住宅は大量生産メーカーの製品であったり、工務店の人が定番的な間取りで建てたものである、というところでしょう。いや、一級建築士じゃないと建築家じゃないとか言うつもりもないですが、およその目安として、建築事務所を構えて一本立ちしている(もちろん大学の先生やゼネコンの中にも建築家はいるわけですが)建築家が、その腕で、そのキャラで食っていっている。このレベルの個人邸のなかに入って、ある程度の時間を過ごすという経験をもっている人は少ないんじゃないか、と言いたいのです。

建築雑誌をみればそういう「作品」がたくさん紹介されていますが、まったく生活臭さのない空間の写真と日常語とはかけ離れている難解な表現で説明されていて、生活する場として想像をするのは極めて難しいです。だいたい、「作品」はまだ使用歴が乏しく、生活者の声が全然わかりません。だから中村好文さんの「建築家のすまいぶり」は大層面白く読めました。使用歴のある家を訪ね、しかもそこで場合によっては料理を一緒に食べ、泊まったりするのですから、えらくリアル感があります。深く入り込んだうえの感想を読むと、「作品」の説得性があがります。

さて、それでは設計者の本人ではなく、その奥さんや娘さんに旦那さんやお父さんの「作品」について語ってもらったらどうか?というのが、田中元子さんの本です。36邸が紹介されています。でも、これを読んで思いました。娘であったり、息子の嫁の愛を感じる言葉にしんみりするんだ、と。奥さんの言葉は、それはそれで夫婦愛として良いのですが、既に設計者本人の気持ちを汲んでいるので、もう少し違ったアングルの言葉を聞きたいなあ、という気持ちを読者におこさせます。それが娘だったり、もっといいのは息子の嫁の言葉なんです。また設計者本人が既に他界しながら愛着をもって住んでいたりすると、「作品」の重みがずっしりときます。設計思想が時と共に生き継がれていく幸せを存分に感じられるのですね。

この本を読んでいてもう一つ思ったのは、首都圏に住む建築家が自邸をたてる場合、親の庭に木々のある土地があり、それをどう生かしながら二世帯住宅を設計するか、というのが1つのテーマであり、2つ目はものすごく小さい敷地に如何に開放的なスペースをつくるか、ということなんですね。いずれにせよ、多いパターンは、家族が何処からでも視線をお互いに交わせる空間構成をすることです。ぼくの実際に知っている建築家の「作品」たちもやはりそのようになっているのですが、これはあるブームで一定の時期が経過すると廃れていく傾向なのかどうかっていうのは、かなり気になるところです。オープンというコンセプトの行く末は、こういうフィールドでもよく見ていきたいなあ、と思いました。大きな社会のオープンだけでなく、ということです。

ところで、「建築家が建てた夫と息子のしあわせな家」というタイトルの本はいつ出るんでしょう?

Category: さまざまなデザイン | Author 安西 洋之  | 
Date:12/10/2

「タイの人は和食は好きだし、日本の文化が好き」と満足げに語る日本の人が多いな。なんでそんな確信もてるんだよ。市場はタイにあり!という勢いで話すしさあ。まあ、それはそうかもしれないけど、悪いけどどうもぼくには全面的に信じきれないところがあって、先月5日間バンコクに滞在している間、このテーマについて考えてみたよ。短い間の限定された経験から感じたことをメモしておく。詳しい人は、どんどん内容の誤りを指摘してね。お願い。

街中のどこでも日本料理店は大きな日本語の看板と共にあり、そこにタイ人の客が多くいることは確かだし、スーパーの食品の棚にも日本の食品が並んでいる。でも、「タイ人は日本食好き。だから日本の文化は好まれている。したがって日本のビジネスに追い風」という論法を応援する人には申し訳ないんだけど、それはあまりその成立を信じきないのがいいんじゃないかな。

高級ショッピング街にある、イタリア料理専門店ではない、いわゆる洋食系でパスタを2回食べて、その麺の質がタイ料理の麺の質に近いことから、洋食のローカライズに気づいたんだよね。同様に、日本人客の少ない日本食屋はやはりタイ風の味で、日本人客の多いラーメン屋は日本の味。ああ、やっぱりね。だいたい、タイ人がタイ人を接待で使うのは中華料理というじゃない。日本食じゃないんだよ。要はすみ分けなんじゃない。

タイの人と話せば日本のことを聞かれるのは当然でしょう。ぼくが日本人なんだから。相手は日本に興味があるとも言うよね。でもそれ以上に、ぼくの住んでいるヨーロッパへの質問が多いんだよ。大規模な書店の棚をみると、どんな分野であれ、英語と中国語の書籍が多くタイ語のそれは少ない。こういう本をエリートが読んでいるなかで、日本文化への関心が突出することはあまり考えにくいなあと想像するのが普通でしょう。バンコクで日本食が普及して定着したのは、世界中にあるチャイナタウンをコアにした中華料理のケースと近いんじゃない?5万人も日本人がいれば、それで何でもいちおう成立しちゃうよね。世界にある中国人の「なんちゃって寿司」が大衆化を図ったのと路線が違うんだよ。

とにかく、日本人がこれだけの母数があって食のバリエーションがあれば、それだけ社会的インパクトが与えられる。イタリア人やフランス人はここまで多くないんだよ。だから小規模に商売するし、大量に食材を仕入れられるわけでもないから、やはり高コスト体質がついてまわる。そういう店はローカライズ度が低い店で母国人がわりといて、タイ人もいるけど、大多数とはいかないんだな。だからタイ人も興味しんしんなのに気楽に足を運びにくいんだよ、よくあるじゃない。三色旗を店の前に出しているところ。あれに行きたいんだけど、金はかかるし、敷居が高いんだ。昔、日本でイタリアントマトみたいのがイタリア料理を普及させた功績ってあると思うんだよ。そう、そう、イタリアントマトはタイにもあるんだよね、余計だけど。

また余計かもしれないけど、この手の外の店のワインリストはね、スカスカなんだよ。チリ、オーストラリア、南アのなかにフランスとイタリアも鎮座してんだけど、なんかやる気が伝わってこない感じなんだよ。まあ、スーパーに並んでいるワインも種類が少ないねえ。それ反してオリーブオイルは賑やかなほど鎮座しているんだ。

人数って大きな要素なんだよ、ある食が広まるにね。そしてその食が定着すると、それは文化を意識しないものになる。日本の家庭でカレーをインドと結びつけて食べる人なんていないでしょう。そういうもんなんだよ。ローカライズされた食はオリジナルのコンテクストと絶縁しちゃうわけだ。たまにふっと思い出されるぐらいにね。まあ、そういうことを沢山、思ったね。

タイの後、1週間日本にいて、日曜日にミラノに戻ってきた。さあ、明日からイタリアデザイン三昧の生活だ!

Date:12/5/27

どこのフィールドの人間が一番世の中の先端的動向を見れるか?と質問すると、科学、哲学、アートなどさまざまな答えが返ってくると思います。ぼく自身の勘でいえば、自然科学に携わる人が見ている現実が「一番新しい現実」であることが多いように思えますが、それが「世の中の先端的動向」か?と言えば、必ずしもそうではない。なぜなら、ここでいっている「動向を見れる」とは、世の中の水や風の動きの変化を嗅ぎ付けるセンスを語っているからです。そういう点で、どのフィールドの人が突出しているとは言い難い。センスのある人はどこにでも僅かなパーセンテージで存在するでしょう。「時代の匂いを感じ取る」ファッション業界にかたまっているとは言えないのです。

あえていえば、感じ取ったことを表現するに経済的に無理がなく社会的インパクトを与えやすい分野から、水の流れは変わり風向きは転換しやすい。それが音楽、アート、ファッションであり、研究費と仮説検証に時間と金がかかる自然科学ではない理由です。ファッションの人たちがどのような考え方をするのか、過去、その例を二つ紹介しました。「セント・マーティンズ大学について語ろう」と「ファッションデザイナー・村田晴信さんに聞く」です。ファッションデザイナーもファッションだけをみてコンセプトを考えるのではなく、音楽、映画、文学、写真、プロダクトデザイン・・・多様なインプットから作っていきます。どこかに頂上があり、そこから「あそこ!」と指摘するわけではありません。

最近、セント・マーティンズを出たファッションイラストレーターと話していて感じたのは、ファッションはダイナミックな動きを伴うため、イメージする時に映像や音楽を思い浮かべやすいのではないか?ということです。プロダクトデザイナーも映像や音楽に影響を受けるでしょうが、コンセプトイメージはやや静止画に近いケースが多いかもしれないとの仮説を話し合いました。そこで、今度、プロダクトデザイナーにファッションをデザインしてもらうワークショップをしてみると良いかもしれない、との話になりました。「イメージにおける動作」に関するリサーチから何かヒントが得られるのではないかと思います。

ファッションデザイナーの村田晴信さんは吉岡徳仁の結晶の椅子をみて、高校の化学の先生に材料を確かめ、ミョウバンで試作品を作りコレクションへの応用と歩を進めました。ご本人に確かめたわけではありませんが、ミョウバンが育つプロセスがファッションの「動き」とフィットしたのかもしれません。その文脈でいうと、テキスタイルも「動き」のイメージのなかにあるのではないかと想像するに至ります。そこでミラノのNABAでファッションデザインの学生にテキスタイルデザインを教えている今井幹雄さんに、彼自身のNABA卒業制作を紹介してもらいました。

ここにアップした画像は全て今井さんのものです。一番上は霧のかかったぼんやりした風景。二番目は草が風に揺れるさま。スペースの存在を感じさせ、ここでいうスペースとは物理的に囲まれた場所というより、人の身体を包む空気が漂う場所という意味合いが強いです。2番目の画像もそうですが、空気の動きを想起させます。テキスタイルは着る人を包みながら心地よく肌と外気が触れ合う媒体であるわけです。

この次のステップは次回に紹介します。

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