さまざまなデザイン の記事

Date:09/2/17

昨日の日曜日、ぼくの奥さんの従兄弟夫婦が我が家に来ました。彼らは二人ともクラシックの歌手で、テノールとソプラノです。従兄弟は水船桂太郎といいます。普段は日本で活動しているのですが、スロヴァキアの劇場のオーディションに昨年受かり、今月上旬、舞台に立ってきた帰りでした。水船桂太郎は、音大を卒業してから中学の教師をやっていたのですが、歌い手になることを諦めきれず、10年ほど前に教師を辞め、イタリアのボローニャに留学。確か2年くらい滞在して、日本に戻りました。今はプロです。写真は、水船夫妻です。撮影の時に、水とワインのボトルをどけるのを忘れました。失礼!

実はぼくの奥さんも音大ピアノ科卒なので、こういう食事では、音楽の話で盛り上がります。ホールの残響、イタリア人の音痴ぶり・・・など色々とテーマはあるのですが、水船桂太郎が話していた「何度もイタリア人の先生に注意されるのは、レチタティーヴォでもっとメッセージを伝えるように、ということ。アリアはメロディにのってしまうので、それほどでもないんだけど、レチタティーヴォはイタリア語が母国語じゃないということもあるけど、本当に何度も直されるんだよね」というのは、とてもよく分かる内容です。

レチタティーヴォというのは、オペラのなかのいわば朗読的な部分ですが、ここでの言っていることが観客に伝わらないとどうしようもない。そのパートで苦労するというわけです。それは言葉のハンディがあるにせよ、伝えるコアを力をこめて熱く語りきれない、そういう面をイタリア人の先生が指摘するのです。これはぼくの奥さんもよく言っていることで、ピアニストが舞台の上でピアノの前に座ったときから、そのピアニストのもっている何かを訴えたい気持ちが伝わってくるのは、ヨーロッパの演奏家に多いというのです。音程の取り方は日本人のほうが上手いことが多いけど、そのメッセージ力は、圧倒的にヨーロッパ人が上と評します。

デザインでも同じことが言われます。熱く語れるかどうか・・・なのでしょうか。熱くなるために勉強は不要。熱く伝えたいものがあるかどうか、それに自分が身体中から100%信じれるかどうか、自分の宇宙や世界を構築できるかどうか・・・こういうところなのでしょう。とすると、「ミラノサローネ2009(7)」で紹介した、『日本語が亡びるとき』の以下の一文がひっかかってきます

日本の小説は、西洋の小説とちがい、小説内 で自己完結した小宇宙を構築するのには長けておらず、いわゆる西洋の小説の長さをした作品で傑作と呼ばれるものの数は多くはない。だが、短編はもとより、 この小説のあの部分、あの小説のこの部分、あの随筆、さらにはあの自伝と、当時の日本の<現実>が匂い立つと同時に日本語を通してのみ見える<真実>がち りばめられた文章が、きら星のごとく溢れている。それらの文章は、時を隔てても、私たち日本語を読めるものの心を打つ。

しかも、そういうところに限って、まさに翻訳不可能なのである。

Date:09/2/16

先週の月曜日に書いた「ミラノサローネ 2009(4)-時間感覚の綱引き」は、アーサー・D・リトルの川口盛之助さんが日経BPオンラインに書いた、光岡自動車を「クルマを愛せないのは誰のせい?」を時間感覚への問いかけかもしれないと記しました。今日、その続き「市場に任せる「ケーレツ2.0」を作れ  愛情喪失とは無縁の光岡自動車(2)」がアップされたので、この記事のポイントを紹介しておきます。

http://cmad.nikkeibp.co.jp/?4_34925_361747_147

ポイントは「市場と協力して完成させる自動車」です。完全無欠な完成度の高い車両を少しの車種だけ出すのではなく、寸止めした冗長なクルマを市場というまな板の上に素材として差し出すという謙虚な姿勢です。

この例として、オタクの「痛車」を挙げています。外装にキャラクターを描いたクルマが、今、カスタムカーとして市場を作りつつあることを以前、紹介しています。

どこまでいじらせるのかというのはもちろん重要な話です。安全性抜きに自動車の話はできませんから、ここを供給側が担保する仕組みは不可欠です。エ ンジンだけもらってきて自己責任で型式認定まで行う光岡のような臓器移植の執刀医レベルから、痛車のように表皮だけいじるネイルショップのような美容サロ ンまでの間に、様々な階層の「いじる専門医たち」がひしめき合っている状態が理想的です。

今はそこがバサッと抜けています。がゆえに、この手のカスタム化の論陣を展開すると、「そんな小規模経営の理論を大メーカーに持ち込むのはナンセ ンス」という読者のお叱りを必ず頂きます。しかし高付加価値化でしか豊かさを維持できない我が国のモノづくりの未来に、他に選択肢はあまり潤沢には残され ていません。大きな発想転換が求められているのです。

ぼくの別のブログ「ヨーロッパ文化部ノート」でも、高価格・高品質に「逃げ込む」形は決してMADE IN JAPANが長期戦に勝つ方向ではないと書きました。

いろいろ食い散らかすように話をしてきましたが、要は既存の大自動車メーカーを頂上に頂くヒエラルキー構造に自己否定の視線を持つ度量が求められて います。痛みを伴う構造改革。自己否定なきところに前進はありません。大局に立って新時代の「ケーレツ2.0」の構造を先に打ち立てた者が、変極点を超え た次の時代の勝者となるのです。日本のトラフィックの風景を変えるくらいの処方が必要な転機かもしれません。

自動車メーカーは儲からなくなるよという声が聞こえてきそうですが、ヒントは中身のブランド化とエレベーターのようなメンテビジネスです。中身の部品であっても、「インテル入ってる」から、カール・ツァイスレンズ、ゴアテックスやドルビーのように差別化は可能です。要は「プリウス入ってる」になればいいのでしょう。

日本にはイタリアのカロッツェリアや英国のバックヤードコーチビルダーのような文化がないので、クルマは大企業領域という固定観念がメーカーとユーザーの両方に強く、中間領域の存在を認めたがらない傾向にあると思います。川口さんは、まさしくその文化の欠如が、大メーカーの首を絞めていく大きな原因となっているので、その文化を創る方向を指し示しているのだとぼくは考えました。また、それぞれの分野の敷居を低くしておくというのは、ヨーロッパ文化一般のありようでもあります。

<↓コメント欄を下記に開設しましたので、気楽に書いてください>

Date:09/2/14

Design it! w/LOVE というブログを書いている棚橋さんという方が、「知る力より観る力」というエントリーで、柳宋悦の『手仕事の日本』を引用しながら、次のようなことを書いていらっしゃいます。

すこし前に「自分の好みを知るということが結局自分を知ることなんだと思う」というエントリーも書きましたが、物の好みを知ることが自分自身を知ることであるように、物を見ることそのものが日本の文化の有り様を理解することになるのでしょう。

けれど、実際はこれほど多くの物が生活のなかにあふれているにも関わらず、ほとんどの人が自分の生活を取り囲む物にちゃんと目を向けていないのではないかと感じます。
物をじかに見る目を持たず、他人の評価やマーケティング情報を介してしか物を知ることができなくなっている。自分の眼で見て、自分で使って評価するということができなくなっている。知識ばかりに頼って、自分自身の生活そのものを織り成す物にきちんと目を向け、そこから何かを感じとろうとしていません。

真摯な良い指摘だと思います。ブランドというのは、「知識」「愛情」「信頼」などの複合要素によって成立するものですが、それを構造体として裸にしすぎたブランドビジネスは弱体化の道を歩みます。直接「観て、触って、使う」というプロセスを待たないで、即ち時間をかけて熟成しきっていない段階で急いでブランドを形成しようとすると、いわば化けの皮が剥がれるわけです。

ぼくの別のブログ「ヨーロッパ文化部ノート」において、「ヨーロッパにおけるカトリックとは何か」というエントリーで、西洋紋章デザイナーの山下一根さんの文章を紹介したことがあります。ヨーロッパでカトリックが、(大きな凋落傾向が見えようが)長い年月を経て生き残っているのは、カトリックは知恵の結晶であるからだと彼は語っています。それに対して、日本のカトリックは知識として受け止められている傾向があるといいます。彼が欧州で学んだカトリックによれば、以下のような表現が出てきます。

人が壁にぶつかったときに、どのように耐えるか、、例えばローマの父親代わりの多くの枢機卿は、僕の日本への出発前に口を大にしてこのように「あえて」いいました。

『ぶち当たったら希望を持つな、現実をみてカトリシズムに基づいて歩め!』。これは、一見聖書の言葉とあい矛盾するように見えます。しかし、人間は現実と向き合って、どんな困難にあってもそれを一度受け入れ『なにくそ~』という力を育てたいということからなのです。

優れて現実主義であることが、最高の解決策であり知恵であるわけです。ミラノサローネにおいて文化リアリティをつかむとはどういうことかを考えるのあたり、一つのヒントになります、

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