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	<title>さまざまなデザイン &#187; さまざまなデザイン</title>
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	<description>ヨーロッパの目</description>
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		<title>ミラノサローネ２０１２（４） 時代の先端はどこにあるか？</title>
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		<pubDate>Fri, 27 Jan 2012 20:22:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>

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		<description><![CDATA[ぼくがヨーロッパで生活をしようと思ったのは、歴史に残る社会的インパクトのある新しいコンセプトはヨーロッパで生まれる可能性が高いと判断したことによります。この経緯は４年前に書いたことがあります。新しいコンセプト誕生の現場に [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ぼくがヨーロッパで生活をしようと思ったのは、歴史に残る社会的インパクトのある新しいコンセプトはヨーロッパで生まれる可能性が高いと判断したことによります。この経緯は<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/224">４年前に書いた</a>ことがあります。新しいコンセプト誕生の現場に立ち会いたい自ら関与したいと願い、ヨーロッパで仕事をする道を探したのでした。２０代後半です。大量生産が醸し出す熱気より、時代の先端にある刺すような冷気と穴の向こうにある熱風のようなものに触れ続けたいと思ったのです。ここでいう「先端」とは技術の先端を言うのではなく、社会意識の先端を指しています。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/6a011168668cad970c0120a62ddeaa970c-400wi.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4844" title="lb" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/6a011168668cad970c0120a62ddeaa970c-400wi-300x199.jpg" alt="" width="300" height="199" /></a></p>
<p>ローマのFAOで広報官として働く<a href="http://www.sfc.keio.ac.jp/alumni_stories/20120116.html">山下亜仁香さんの以下の文章</a>を読んで、ぼく自身の２０代を思い出しました。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">それなりに充実していたものの３０歳を迎える頃「このままでいいのだろうか？」と不安になりました。同級生にはマザーハウスの山崎大祐やフローレンスの駒 崎弘樹など鴨池で語り合った理念を現実化している仲間がいるのに、自分はドバイなんかで何をしているのだろう？と思いました。圧倒的な貧富の差や持続可能 性を無視した経済発展のさなかで、それに自分も加担をしているのではないか。</span></p></blockquote>
<p>ドバイといえば世界中からその富が注目される場所です。各地からやってきた人々が働いています。ワールドビジネスの動きを左右するドバイにいた山下さんは「ドバイなんかで何をしているのだろう？と思いました」と書いているのです。経済的な価値ではない社会的な価値を重視していると、「ドバイなんか」となるのでしょう。経済成長をリアルに感じ、それを時代の先端と思うなら、中東やアジアは絶好のところであり、富の先にでてくる社会問題や知的関心の動向にリアリティを感じたいなら<a href="http://president.jp/articles/-/5260">ヨーロッパ</a>は良いでしょう。ある一か所ですべての要求をかなえることは難しいから旅をするわけですが、やはり生活する場所と旅先では獲得するレベルが違います。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/the-grass-is-always-greener-on-the-other-side-rianna-stackhouse.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4845" title="lgn" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/the-grass-is-always-greener-on-the-other-side-rianna-stackhouse-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a></p>
<p>隣の芝生は青い。が、青いことに嫉妬を抱いたり、その場にいないことで焦燥感を覚えて足元がぐらつかないためには、自分が今ここにいる理由が明確であり、「ここも人にとっては隣の芝生」であることを身をもって知っていることです。これは自分の能力や立場の認識に基づきますが、裏をかえせば、いかに全体を見通しているかにもよります。<strong>いずれの芝生も結局は一部でしかない</strong>のです。シリコンバレーには確かに多くの宝があるかもしれませんが、シリコンバレーには歴史に溶け込んで次の時代を見据えるという文化はないでしょう。しかし、ウィーンにシリコンバレーはなく米国の西側にあるわけです。</p>
<p>どこに行けば時代の先端を見れるということはありません。あるいは、どこにいても時代の先端は見れるものです。ピエモンテの小さな町で発信されたスローフードのコンセプトが世界に広まったことを思い起こせば、「先端」の意味はよりはっきりします。食だけではなくライフスタイルを視野に入れた時、がらりと「先端」をとりまく風景が変わるはずです。新しいコンセプトや価値にこそ人が目を開く根源があることを自覚したとき、たとえば、ヨーロッパで何を見落としアジアで何がまだみえないかーしかし、アジアが新しい道を作るかもしれないーに目はいきます。こう考えること自身がわくわくしてどきどきするものです。</p>
<p>たった数年前は中国に住むことがアジアの今を見ることだと思われ、現在はインドに住むことがアジアの先端であるとみられる・・・なんてことに振り回されている限り、どこに行っても何も見えないでしょう。<strong>場所ではなく、どんな価値観がリアリティをもつ世界に生きたいかが先にこないといけない</strong>。ぶっちゃけた話、場所なんてどこでもいいんです。場所にこだわっている限り、場所に囚われるだけです。でもぼくはミラノに住み、山下さんはローマにいる・・・・。それは場所以外の価値に重きをおいている結果である。</p>
<p>それがミラノサローネの意味です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>糸井重里さんの口が滑ったひとこと</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/4814</link>
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		<pubDate>Fri, 20 Jan 2012 22:29:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>

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		<description><![CDATA[人はふつうにものごとを眺めていると、ふつうに眺められない。そういうパラドックスがあります。意図的に大きい枠組みで眺めないと、多くの場合は気づかないうちに小さな範囲に視界が限られてしまう。皮肉なことですが、ほっぽっておくと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>人はふつうにものごとを眺めていると、ふつうに眺められない。そういうパラドックスがあります。意図的に大きい枠組みで眺めないと、多くの場合は気づかないうちに小さな範囲に視界が限られてしまう。皮肉なことですが、ほっぽっておくと視界は自然に縮小していきます。パターンに馴れるとパターンの便宜性に溺れるわけです。意識してパターンを切り崩す「習慣」をもたないといけない理由がここにあります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/images.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-4816" title="im" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/images.jpg" alt="" width="261" height="193" /></a></p>
<p>「<a href="http://www.1101.com/ataka_kazuto/2012-01-20.html">ほぼ日刊イトイ新聞</a>」で『イシューから始めよ』の<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/welcome/welcome.html?http%3A%2F%2Fbusiness.nikkeibp.co.jp%2Farticle%2Fmanage%2F20110725%2F221670%2F">安宅和人さん</a>と糸井重里さんの対談が７回連続でありました。かなり含蓄のある内容でしたが、最終回の糸井重里さんの言葉がそうとうに奇妙でした。羊羹の虎屋は５００年の歴史がありますが、１００年に１度の恐慌を５回も経験して生き残っているというエピソードで、以下のようなセリフが続きます。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">これが「500年」のすごみなんだなぁと。</span></p>
<p><span style="color: #000080;"> このあたりの時間の感覚って</span><br />
<span style="color: #000080;"> 「グローバル」と呼ばれる西洋中心の世界では</span><br />
<span style="color: #000080;"> 欠けてる部分だと思うんです。</span></p>
<p><span style="color: #000080;"> それは「アメリカの歴史の短さ」に要因が</span><br />
<span style="color: #000080;"> あるんじゃないかなと思うんですが。</span></p></blockquote>
<p>トレンドをよく読んできた糸井重里さんらしい発言の流れがピタリと凍りつきます。西洋の中心をアメリカだけで語っているアンバランスはなんだろうと思います。対談はこのまえに源氏物語の時代にも遡っているのですから、それなりの目配せがきいている空間です。<strong>西洋文化の歴史の長さは、それこそ「世界の常識」であるにも関わらず、その西洋をアメリカに代表させ、その歴史の短さで西洋文化を批評する。グローバリゼーションを仲介にたてているにせよ説得性に欠けるロジック</strong>です。</p>
<p>まさか「世界の常識」から外れた方ではないでしょうから、ここは<strong>口が滑った</strong>のだと思います。それをご丁寧にも対談の文章を作った人間がそのままなぞったのでしょう。そして彼は校正時にその点を見逃した。このように想像するのが妥当でしょう。では、なぜ糸井重里さんは見逃したのか？です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/o0800052411738727367.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4815" title="vv" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/o0800052411738727367-300x196.jpg" alt="" width="300" height="196" /></a></p>
<p>ヒントは上の文章にあります（<strong><span style="color: #ff0000;">クリックして拡大して読んでみてください</span></strong>）。何年か前からネットでずいぶんと紹介されている事例ですが、文字の配列がめちゃくちゃながら意味がとれてしまいます。すなわち思考のあるパターンで文章を読んでいるのであって、文字そのものを追って文章の理解をしているのではないのです。糸井重里さんは「世界の常識」がありながら、思考パターンのなかで外国としてのアメリカがあまりに肥大化しているのでしょう。だから口が滑るのです。冒頭で書いた表現を使えば、「パターンの便宜性に溺れた」のだと思います。これは彼を批判するために書いているのではなく、誰でも陥る穴であるとの自覚を促すために犠牲になってもらいました。かように<strong>視界を広くしておくのは努力が必要ですが、努力せずにいられないクローズであることへの生理的な嫌悪感や知性への信頼性が思いのほか機能するのかもしれません</strong>。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/e_0173_02.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-4817" title="i" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2012/01/e_0173_02.jpg" alt="" width="300" height="166" /></a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>パリの風景に馴染むか</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/4357</link>
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		<pubDate>Thu, 26 May 2011 15:09:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>

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		<description><![CDATA[先日、「朝日と夕日は違うのか？同じなのか？」というタイトルで、今見える風景は、多分に過去の経験に依存していることを書きました。「世界は同じになったね」という台詞自身は同じでも、それまでに歩んできた道によって意味が違う。「 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/05/LA-GRANDE-EPICERIE-004.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4364" title="LA GRANDE EPICERIE 004" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/05/LA-GRANDE-EPICERIE-004-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>先日、「<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/4343">朝日と夕日は違うのか？同じなのか？</a>」というタイトルで、今見える風景は、多分に過去の経験に依存していることを書きました。「世界は同じになったね」という台詞自身は同じでも、それまでに歩んできた道によって意味が違う。「軽いデザインが求められる」という傾向は、重厚なデザインが尊重されたヨーロッパで軽くなることと、もともと軽さが基調であった日本において軽いことが尊重されることと意味が違うし、実際、求める軽さの絶対値に差異があります。上の写真はパリのデパート、La Grande Epicerie ですが、日本的感覚からすれば重いでしょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/05/LA-GRANDE-EPICERIE-007.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4365" title="LA GRANDE EPICERIE 007" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/05/LA-GRANDE-EPICERIE-007-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>「<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3522">日本とイタリアの食文化の融合実験</a>」で、トスカーナのエキストラヴァージンオイルと七味唐辛子ー長野善光寺の八幡屋礒五郎ーとのコラボ商品が、日本国内の店舗でどう陳列されているかを紹介しました。七味唐辛子からスタートするか、エキストラヴァージンオイルから見るか。２番目の写真は、La Grande Epicerie の店内です。ヨーロッパでは軽めの空間ではありますが、柱や梁の太さとの対比が、軽さのポジションをよく物語っています。ミニマリズムでもないし、オリエンタルの軽さでもない。空間の余裕と棚の曲線が軽さの要因になっています。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/05/LA-GRANDE-EPICERIE-004s.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4367" title="LA GRANDE EPICERIE 004(s)" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/05/LA-GRANDE-EPICERIE-004s-225x300.jpg" alt="" width="225" height="300" /></a></p>
<p>ここに、エキストラヴァージンオイル（下から４番目のケース入り）と七味オイル（下から３番目の赤いケース入り）があります。イタリアやフランスのオイルに囲まれ、日本の味が入っているオイル。日本大好きの純日本を探してやまぬフランス人は、もしかしたら、正統派を語りはじめることでしょう。「こういう組み合わせは日本にない！」とーいや、日本でも、この商品が唯一で売っているんですが（笑）－、日本人が中国人の寿司を批評するような口ぶりになるかもしれません。そこまで日本に入れ込んでいるわけではないフランス人は、「なるほど、こういうアイデアがあったのか。面白い！」と買ってくれるのではないかと思います。<strong>入り口の違いが、態度を決めます</strong>。<strong>しかも、それは結構、あとをひく</strong>。</p>
<p>日経ビジネスオンラインの連載で<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110520/220063/">キッコーマンの醤油</a>についての記事を書きました。今、欧州は毎年１０％以上の伸びを示していますが、アジア市場は３％程度。それはキッコーマンの醤油は所得があがらないと購買層が出来てこないからなのですが、アジアには醤油ーあるいは似たものーが沢山あります。どうして値段が高い日本の醤油を買うのか？という消費者の動機付けが必要です。似たものが多いから売れるのか？似たものがないから売れるのか？皆が同じなかでちょっと違うから売れるのか？とにかく、<strong>コンテクストの生成は、それまでの経験の量と質により異なる</strong>ことだけは間違えがありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>２０１０年から２０１１年への渡し舟（５）　謹賀新年</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3825</link>
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		<pubDate>Sun, 02 Jan 2011 12:01:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>

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		<description><![CDATA[あけましておめでとうございます。 昨年は夏から秋にかけてエントリー数ががくんと減ってしまいましたが、先月よりまた以前のペースに戻しつつあります。ブログは「これ、ブログに書くほどではないか」と思いはじめると急に書けなくなり [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>あけましておめでとうございます。</p>
<p>昨年は夏から秋にかけてエントリー数ががくんと減ってしまいましたが、先月よりまた以前のペースに戻しつつあります。ブログは「これ、ブログに書くほどではないか」と思いはじめると急に書けなくなります。「これ、どうかなと思うけど、メモだと思って書いておこう」程度に気楽に構えるのがコンスタントに書くコツのようです。まあ、そういうわけで若干のスランプ（？）を脱しつつあります。あまりテーマも絞らず、より自由に書いていきましょう。テーマを・・・なんて考えると、どうも自分の周りに囲いができたような気になるから。</p>
<p>昨日知ったのですが、今年のミラノのアートフェアは４月８日から１１日です。これって、サローネとぶつける気？と思ってサローネの日程を確認すると１２日からなんですね。ミラノのアートフェアはボローニャやトリノと比べて存在感がないと言われてきましたが、この日程、かなり意味深です。サローネと同じ時期にぶつけずに直前でやるというのは、サローネのためにミラノに早めに入る人たちを呼び込もうというのでしょうか。アート業界はデザイン業界とは別のサイクルと次元で動いてきましたが、サローネ動員の恩恵を蒙ろうかと思うのも自然でしょう。さて、それがどれほどにインパクトを与えるのかは、４月のお楽しみとしておきましょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/meraviglie_duemila.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-3826" title="me" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/meraviglie_duemila.jpg" alt="" width="195" height="275" /></a></p>
<p>元旦の昨日からイタリア人が１９００年初めに書いた子供向けの小説を読んでいます。&#8221;Le maraviglie del Duemila&#8221; という題名なのですが、１００年後の世界、つまりは２００３年に主人公二人が出会う世界を描いています。未来小説です。体を機能停止にする薬を発見したドクターが、それを自ら使って１００年間「休憩」し甦るわけです。財産は全て金に変え１００年後に備えるなど、これは１０００年後のタイムマシンが今できても使う知恵だろうなと思います。金は既に「最終的価値」ではないですが、不況になってその価格が上昇するように、それこそ「黄金の法則」として金の価値は維持されてきています。<strong>「金は１０００年後にも価値を失わない」と予言してあたっても誰も感心しないでしょう</strong>・・・・。</p>
<p>この小説で２００３年に「６０年前にヨーロッパとアメリカの大戦争があって数百万人の犠牲者が出て以来、戦争はこの世になくなった」というくだりがあります。あるいは農業や食事の崩壊ー宇宙食的な状況ーが説明されています。２０１１年現在、ここまではダメージを受けていないけど、警告を込めた予測としてはあたっているなあと思います。しかし、１００年後の予想が方向としてあたっているのは、それほどに驚くべきことなのか？という思いにも駆られます。<strong>我々は願望も含めてですが、１００年後に関して「こうだろうなあ」と思うことは、その現実化の仕方に狂いがあっても、案外、見通せることが多いのではないかとも夢想する</strong>のです。</p>
<p>２０５０年に人類は危機に瀕するという予想に色々と賛否両論がありますが、（その予想の正しさを覆す事実や状況はたくさん出てきたとしても）人口の増加や自然環境の悪化がストップすることはあまりなさそうです。地球が温暖化しているのかどうかはよく分かりませんが、地球の自然がより良くなっているとは言えそうにないし、今後４０年、現状維持（が、できたとして）に苦労するのは明らかでしょう。つまりは、<strong>「２０５０年に地球環境は悪化している」と大きな声で叫ぶことより、もっと小さな声で短期の予測と検証を積み重ねたほうが現実的であるというより意味があるのじゃないか</strong>と思います。</p>
<p>但し、ここで書いていることは、目標の設定を軽んじているわけではないので誤解なきよう。</p>
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		<title>２０１０年から２０１１年への渡し舟（４）　局地的有名人とは？</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3817</link>
		<comments>http://milano.metrocs.jp/archives/3817#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 31 Dec 2010 20:37:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>
		<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[古い雑誌を整理していると、随分と読み残している記事が多いのに気がつきます。そうすると、捨てる前にちょっとは読んでしまおうと思ってしまう。そして読んだ、少し前の週刊文春です。林真理子が既に自分のことを知らない若い人が多いこ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>古い雑誌を整理していると、随分と読み残している記事が多いのに気がつきます。そうすると、捨てる前にちょっとは読んでしまおうと思ってしまう。そして読んだ、少し前の週刊文春です。林真理子が既に自分のことを知らない若い人が多いことに気づいたとのエッセーがありました。「かつての有名人」はそこで複雑な思いに駆られるわけですが、今や「かつての有名人」のように全ての人が知っていることが少なくなっています。佐藤栄作の時代は皆が５－６代前の総理大臣も言えて外務大臣や大蔵大臣の名前がすぐ出てこないことは、社会人として失格だったでしょう。しかし、<strong>菅首相と小泉首相の間の何人かの首相の名前と在任期間を言えなくても、あるいは、その時々の外務大臣や財務大臣の名前が言えなくても全然恥ずかしくない</strong>でしょう。</p>
<p>これは政治の世界がコロコロと変わっているからだけではありません。どんなにイチローが有名であろうと、長嶋茂雄が国民的スターであったほどには多くの人の脳裏に焼きついた名前となっていないのです。スターが小粒になったとは言われます。しかし、それは小粒のタレントもあるかもしれないけど、<strong>小粒であるしかないようなシステムで社会が成立するようになったから</strong>だと思います。昔は一部のジャーナリストしか知らなかった俳優の私生活の一部を、FACEBOOKでは多くの人が当然のように知ってしまっています。情報がガラス張りになればなるほど、大粒である成立条件をどんどんと壊していきます。なにせ未知が小を大にする重要な要素であったのですから。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/galeria-21harry-potter_3tf.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3818" title="hp" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/galeria-21harry-potter_3tf-225x300.jpg" alt="" width="225" height="300" /></a></p>
<p>逆にちょっとした有名人は出来やすい。Twitterで何十万人というフォローワーを抱えている人の名前をみて、一般のTwitter以外の世界の多くの人がどれだけ知っているでしょうか。つまり、<strong>「有名人の局地化」が加速しています</strong>。Twitterの有名人は必ずしも他のＳＮＳで有名ではないかもしれないし、いわんやマスメディアのなかでは「市井の人」か「ポッと出」としか形容されません。ちょっとした有名人になるシステムは、マスメディア全盛の時代よりは明らかに揃っているのです。</p>
<p>そこで課題は、かつてのような有名人であることに今もメリットがあるか？「局地的有名人」であることが充分であるか？という問いにどう答えるかです。衆議院の小選挙区制で立候補するより、所属党の意向次第の比例代表制の方が「局地的有名人」であることは有効に作用するかもしれません。もちろんTwitterのセミナー講師で稼ぎまくるならTwitter有名人で充分でしょう。しかし、それでは比例代表区の推薦は得にくいでしょう。それには、マスメディアでの「局地有名人」であるほうが有利です。そして、マスメディアの「局地的有名人」はTwitterの有名人にはなりやすいけれど、その逆が同様にはなりにくいのが現実でしょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/Elisha-Cuthbert-147.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3819" title="ec" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/01/Elisha-Cuthbert-147-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>しかし、いずれにせよ、現代における有名人は長続きしません。ホリエモンが有名になったのは彼の日ごろの活動ではなく、ＴＶ局の買収劇や逮捕という事件での瞬間風速的な側面が強く、荒川静香という名前はトリノ冬季オリンピックで金メダルをとった数ヶ月が旬だったわけです。<strong>なにも不祥事も事件もなにもなく、またイベントで名前を挙げるということもなくーＷ杯でゴールを入れるー、恒常的に有名であることがあまりないのが現代であり、それがより強まっていると言える</strong>と思います。吉永小百合のような名前が再び出ることは至難です。</p>
<p>即ち、ブランドを考えるとき、局地的ブランドこそが優位性をもつのかどうか、をより真剣に考えるべきシーンに直面している。このことを更に意識しないといけない時代に突入しています。突き詰めれば、<strong>どのような「局地ブランド」を組み合わせるかに傾注すべき</strong>ということでしょう。</p>
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		<title>２０１０年から２０１１年への渡し舟（３）</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3812</link>
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		<pubDate>Thu, 30 Dec 2010 12:36:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>

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		<description><![CDATA[TIMEが「今年の人」にFACEBOOKのMark Zuckerberg を選んでいます。その記事を読みながら、クローズドな世界でありながら色々と覗き穴がセッティングしてあるところにヒットの要因があったのかなと想像したり [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>TIMEが「今年の人」にFACEBOOKのMark Zuckerberg を選んでいます。その記事を読みながら、<strong>クローズドな世界でありながら色々と覗き穴がセッティングしてあるところにヒットの要因があったのかなと想像</strong>したりしています。ぼくの周囲にいるヨーロッパ人の間では随分とFACEBOOKが生活の中に入っており、オフィスでひょいと後ろからＰＣを覗くとFACEBOOKの画面がでています。「なんだ、仕事してるのかよ」とも思いますが・・・。一方、日本の知人たちは「FACEBOOKの面白さはよく分からない」という人が多いです。１７０万人のアカウントの２０％以下しかアクティブではないという背景がよく分かります。</p>
<p>今年は日本でTwitterが一般に認知された年です。鳩山首相が年初にTwitterをはじめたのが、その大きな契機でしょう。ユーザーは１５００万人を超え、他のＳＮＳと比較しても圧倒的な普及を遂げました。ただ、これも皆が皆、使いこなしているわけではなく、「アカウントはもったけどどう使えばいいの？」という人は多いようです。一つ感じるのは、<strong>１年前よりも「１４０文字で何が言えるんだ？そんな短い文章でコミュニケーションが図れるはずがない」という批判がじょじょに減ってきた感</strong>はもちます。この批判のもとにあるのは、ポータルデバイスのＳＭＳは別の世界ですが、ネット特有の「癖」とも関連のあることで、基本的にネットは文字数制限のない世界であり、ブログも書きたいだけ書くのが当たり前という「馴れ」のうえに成立してきました。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/gondola_venezia.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3813" title="go" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/gondola_venezia-300x219.jpg" alt="" width="300" height="219" /></a></p>
<p>文字数制限は紙媒体ゆえにあるものだという考え方の反対側に位置するのがネットの文字数に対する「感度」であったと思います。が、Twitterの１４０文字に強い拒否感が出る人は、紙媒体信仰派をも多く含んでいたような気がします。しかし、この拒否感はネット全般に対する不信感があるので、この人たちをここでは除外しましょう。問題とするのは、ネットの世界に馴染んでいて文字数制限に違和感をもつ人たちです。ぼくが思うに、こういう人たちは、もともとメッセージを伝えることにさほど敏感ではなかったのではないかということです。</p>
<p><strong>メッセージとは何文字だったら伝えられるというものではありません</strong>。<strong>紙媒体で一番重要だった文字数制限とは、紙媒体がゆえに制限するだけでなく、メッセージとは常に制約条件のなかで成立することを確認させるものでした。人は君（ぼくのことだ！）のだらだらと書かれた文章に付き合うほど暇ではないし、コンパクトなメッセージほど理解への働きが強いという傾向もあります</strong>。そういうことをTwitterを通じて分かってきた人が多くなったのだろうか、とぼくは想像しています。しかも、TLに流れる他の人のメッセージとの共時性や、その人がどういう経緯でこういうことを語るのかが分かることで、コンテクストの重要性にも気づくことが促進されたとも言えそうです。Twitterの１４０文字は、それだけで独立された世界はあり得ないことを知らしめる契機になったかもしれないと思うのです。</p>
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		<title>２０１０年から２０１１年への渡し舟（２）</title>
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		<pubDate>Tue, 28 Dec 2010 12:00:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
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		<description><![CDATA[Ｆ１の開催国が中東へアジアに移行してきたことが、驚きとはならず当たり前の風景として展開されてきています。サッカーの世界のニュースも同様です。ヨーロッパと極東の日本の間にあった空白が、色とりどりのイベントで埋められいく・・ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>Ｆ１の開催国が中東へアジアに移行してきたことが、驚きとはならず当たり前の風景として展開されてきています。サッカーの世界のニュースも同様です。ヨーロッパと極東の日本の間にあった空白が、色とりどりのイベントで埋められいく・・・かつて学生時代、パンナムの世界一周便の飛行機で東京→香港→タイ→インド→バーレーン→英国と南回りで飛んできたことを思い出す・・・アジア・中東ベルト地帯が表舞台になってきています、表面上は。くどいようですが、あくまでも表面上です。</p>
<p>ヨーロッパの相対的地位の低下が２０１０年、特に強まったわけではありませんが、「もう自分たちの場所に潜在力のある大きなマーケットはあまりないよな」ということを、これまた街の隅々の人が口に出していうようになってきたとは言えるでしょう。今まではヨーロッパのなかでしか活動してこなかった人たちが、インドやアフリカに出かけるようになりました。しかし、Ｆ１やサッカーの例にあるように利権は自分の懐に入れたままです。表面上、中東やアジアが表舞台に出ることをやや顔を引きつらせながらも、虎視眈々とネタを探ってきた結果であり、ヨーロッパのもつ見えない資産の威力を中東やアジアも求めている結果です。<strong>日本が焦っているのは、ここに大きな要因があります。新興国が力を持つにあたって「利幅の大きい役得」をヨーロッパや米国に求めながら、さほど日本には求められていない、その差</strong>です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/vaporetto.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-3805" title="va" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/vaporetto.jpg" alt="" width="300" height="270" /></a></p>
<p>２０００年に入り数年間、ミラノで生まれた息子をみて通りを歩くイタリア人たちが「日本語とイタリア語を喋れていいね」とありきたりの言葉を残していきました。こちらが「いや、中国語のほうがいいかも」と答えると、「いや、いや、中国人はちゃんとディシプリンされていない連中だから、日本語のほうがいいんだよ」と外交辞令を含めて言い返してくるものでした。しかし、２００５年頃からは「そうね、中国語のほうが有利かもね」とはっきりと言われるようになりました。要するに、<strong>日本の地位低下が、同じように地位の低下を続けているヨーロッパの街角の隅々にいたるまで認識されてきた</strong>ということです。それは、今までよりはお洒落な中国人の経営する日本食レストランの増加と並行しています。食という「利幅の大きい役得」の源泉をみすみす取られてしまったのです。</p>
<p>日本人の板前さんたちは、「中国人は日本のオーセンティックな味を守らずに安上がりでやっていてずるい」と文句を言ってきましたが、中国人は「あんたたち、ナニ言ってるの？ローカルなお客さんが喜ぶ料理を提供してナニが悪い？」と答えます。<strong>２０１０年の日本の対世界の大きな変化の一つは、ここにあります。中国人の提供する日本料理のビジネスセンスは批判の対象とはならず、学ぶべきことではないかという認識がじょじょに広まりつつあること</strong>ではないかと思います。そして、遅まきながら、「利幅の大きい役得」とは何かを具体的に探りはじめたのが経済産業省が主導する横断的プロジェクトのクールジャパン事業でしょう。弱体化している民主党の成長戦略の一環であることが危うさを感じさせますが、「利幅の大きい役得」という軌道に入りこむことは必須であることは否定しがたいです。</p>
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		<title>２０１０年から２０１１年への渡し舟（１）</title>
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		<pubDate>Mon, 27 Dec 2010 12:08:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>
		<category><![CDATA[その他]]></category>

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		<description><![CDATA[年は強制的に変わるものです。しかし、今年のことは来年に上手く繋げたいし、来年になれば今年のことが滑らかに押し進んできたことを実感したいと思うものでしょう。ここに何か適当な言葉はないかなと思っていたら、ふと「渡し舟」という [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>年は強制的に変わるものです。しかし、今年のことは来年に上手く繋げたいし、来年になれば今年のことが滑らかに押し進んできたことを実感したいと思うものでしょう。ここに何か適当な言葉はないかなと思っていたら、ふと「渡し舟」という表現が思い浮びました。かつての渡し船は橋に変わり、多くは陸続きになっているのが現代社会ですが、年をまたぐには橋ではなく渡し舟の感覚が似合うのではと思ったのです。だいたい橋は往復イメージが強すぎる！</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/venezia2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3798" title="ve" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/venezia2-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>そう、どんなにあがいても往った年は繰り返さない。でもなんせ３６５日も共に過ごした年をおろそかにするなんて馬鹿なことは考えないほうがいい・・・というわけで、今年を振り返ってみようと思うわけです。まずは、世界全体の動きから。</p>
<p>特に何かのサイトや雑誌で振り返るのではなく、ぼく自身の記憶に残っている「感触」から言います。<strong>２００８年に突入した世界不況は、２０１０年において、２００８年末のマスメディアを騒がしたような状況には至りませんでしたが、その影響が世界の街角の隅々までいきわたったといえるでしょう</strong>。産業間の時差ー例えば自動車や電機と建設業の時差ーは２００９年に既になくなっています。２０１０年は、その時差のないなかでストラクチャーがもろに浮き彫りにされた年です。別の表現にすれば、換えるべきストラクチャーが明確になってきたということです。街の隅々とはこういうことです。<strong>アジアの新興国のことがこれだけ語られるのも、このストラクチャー変化の一表現</strong>とみるべきでしょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/Venezia.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3799" title="V" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/12/Venezia-300x223.jpg" alt="" width="300" height="223" /></a></p>
<p>ギリシャの破綻あるいはスペインやアイルランドの苦境の話し、あるいはドイツの回復基調は、それぞれ一緒のレベルで語ることができないかもしれませんが、言ってみれば<strong>輝かしい未来がある地域だけに自律的にあるのではなく、新しいストラクチャーとの組み合わせにしかありえない</strong>ことを認識させる現象の数々といえるでしょう。新興国の輸出先としての先進国という捉え方は既に古い地図であり、およそ先進国という表現自身、相当に色あせたものになっています。Ｇ８からＧ２０が象徴的です。もちろん現実としては大きなギャップが地域ごとにあるのですが、経済先進国は結局のところ「先行きが行き詰った国」です。しかし、開発途上国や新興国も「今後に将来があるように見えるが、その先に行けば行き詰るだろう国」でしかない、今のところ。</p>
<p>即ち、考え方や見方の見直しが非常に重要になっています。あれだけの厳しい労働に日々の糧を見出していた中国人移民の子供が、「もう、お金じゃないですよね」と語るのを聞き、世の中の価値観の変貌のスピードに驚きました。伝統は生きるが、伝統に生じる綻びを見逃せない・・・とことさら実感する年でした。</p>
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		<title>日曜日のミラノトリエンナーレ</title>
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		<pubDate>Sun, 03 Oct 2010 14:39:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>

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		<description><![CDATA[フォルクスワーゲンがアルファロメオを欲しがっているとか、それは冗談だとか色々と噂がありますが、アルファロメオのブランドイメージがフォルクスワーゲンにとってプラスになると考えるのはかなり妥当な考え方ではないかと思います。フ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>フォルクスワーゲンがアルファロメオを欲しがっているとか、それは冗談だとか色々と噂がありますが、アルファロメオのブランドイメージがフォルクスワーゲンにとってプラスになると考えるのはかなり妥当な考え方ではないかと思います。フォルクスワーゲンでは絶対感じられない柔らかをアルファロメオはもっている。ラテン的テイストが必要と思うなら、それはアルファロメオをおいて考えられない・・・というほどにアルファロメオには神話が盛りだくさんにあり、抜きがたいほどに歴史にはまり込んでいます。自動車の歴史だけでなく、いわば社会史にも。よって１００周年にあたり、ミラノのトリエンナーレで時代変遷を大枠で表現することがとても自然に見えます。無理がない。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/2010103.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3656" title="2010103" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/2010103-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>クルマを取り囲んで、その時代の新聞、アート、工業デザイン、アルファロメオが登場する映画の数々。これらを読み眺めながら、一度じっと見つめたクルマを再度チラチラ見るような仕掛けになっています。見学者の動きを観察していると新聞の記事をかなり熱心に読んでいる人が多い。日曜日の午前中とあって、わりと年配の人が多く、だから古い新聞に惹きつけられるのかもしれません。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/2010103-1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3657" title="2010103-1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/2010103-1-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>それにしても、<strong>古い新聞の威力は凄いなと思います。どんなに有名な陶器やプロダクトデザインよりも、其の時代への共感度がいっぺんに伝わっているようです</strong>。ムッソリーニが戦争をはじめたとき、新しいローマ教皇が選出されたとき、ベルリンの川をほぼ泳ぎきったときに東独から銃弾が体をつき抜けたとき、フォンターナ広場で爆弾が爆発したとき、モーロ首相が誘拐され殺害されたとき、政治汚職の一掃がはじまったとき・・・・<strong>あまりに暗い話題のほうが多いような気がしますが、シリアスなテーマほど人の心に残っている。そういう事実に向き合ったのだろうか</strong>と考えました。しかし、およそ一面を沢山割く話題は衝撃的事件のほうが多いということなのでしょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/2010ken3.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3658" title="2010ken3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/10/2010ken3-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>この展覧会を見終えてトリエンナーレの庭に出ると、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3198">あの望遠鏡のような筒がまだ残っていました。ミラノサローネ２０１０で書きましたが、これがありました</a>。</p>
<blockquote><p><span style="color: #333399;">天体望遠鏡のようなカタチをしたチューブが１０本あります。しかし、これを覗いても空が見えるわけではなく、その中に書かれている１０種類のメッセージを 一本一本覗きながら読んでいくのです。一度読み始めた人は、かなりの確率で次のメッセージを読み続けていきます。これは空から降ってきたメッセージではな いかと思わせる仕掛けがあることにだんだんと気づきます。</span></p></blockquote>
<p>息子が気に入って、やはり全部読んでいました。それも、この筒の中で声が反響するように、大声で。この様子を眺めながら、もう一度、それにしも・・と書きます。あのアルファロメオが、それぞれに暗雲が垂れ込める時代を生き抜いてきた。その強靭さを表現するために、あの新聞の記事がもつ暗さを生かしたのだろうかとやや穿ったことを考え始めました。そう思ってもおかしくないし、だいだい、トラブルが続く時代が長く続き、平和な時代は短い。だからこそ、その一瞬の輝きに目が奪われる。アルファロメオはその比ゆを担っているんだろうか・・・と思いながらセンピオーネ公園を散策しました。</p>
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		<title>篠原匡『おまんのモノサシ持ちよ！』を読む</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3619</link>
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		<pubDate>Thu, 02 Sep 2010 15:27:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[さまざまなデザイン]]></category>

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		<description><![CDATA[地方は切り捨て、東京の効率をマックスなレベルにもっていき国際競争力を高め、ハブ化するしかないだろうと語る人たちがいる。それが日本を救うための唯一の手段であると。そういうこともあるかもしれないけど、それを言うなら、まずは東 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>地方は切り捨て、東京の効率をマックスなレベルにもっていき国際競争力を高め、ハブ化するしかないだろうと語る人たちがいる。それが日本を救うための唯一の手段であると。そういうこともあるかもしれないけど、それを言うなら、まずは東京の発信内容が金太郎飴ではダメだ。東京が実力を発揮するということは、一方でさまざまな異物がぶつかり合った活性状態を用意しなければいけない。<strong>巨大化した東京で活動する人たちが、誰かに「右向け！」といわれたら不平も疑問も言わず黙って右を向くようであったらいけない。その逆でないと困る</strong>。だから、東京のハブ化にエネルギーを集中するなら、「反ハブ化」を強く唱える勢力も心地よく生きれる空間でないといけない。そうした目で東京をみたとき、さまざまな意見が流通するより、一方的な意見が多勢を占めることに息苦しさを感じない人たちが少なくないことに気づく。これは危ない。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/09/capalbio-big.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3622" title="p1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/09/capalbio-big-300x197.jpg" alt="" width="300" height="197" /></a></p>
<p>人は環境の産物で、同じところにいると、およそ同じような考えをもってくる。愚かな存在。が、そのほうが楽なのだ。いや、正確にいえば、楽と思う人が多い。ゆえに、この性質を助長するような要因を極力排除することが賢明である。東京以外の地方の「小東京化」は、東京の考え方をフォローしているという意味で危険。もともと、東京の考え方のバリエーションが貧弱なのだから、フォローするに値しないと強く思ったほうがいい。「そんなのナンボのものだ！」って。しかし、残念ながら、そう言いきれる人は少ない。言い切った人は目立つ。行動人はさらに注目を引く。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">「地域の差異が商品になり、地域の個性が観光につながる。つまり、地域の独自性が産業になるとオレは考えちゅう。確かに、３億円、５億円の産業は国から見れば小さなもの。でも、この目線があかん。３億円が１００個ある方が、１００億円が３つよりもずっと豊かやと思う」</span></p></blockquote>
<p>梅原真のせりふだ。<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3597">「ニッポンの風景をつくりなおせ」の梅原</a>。土佐のデザイナー。徹底して地方の視覚化されていない資産に目をむけ、それを世にコミュニケートしてきた。「ぽん酢しょうゆ　ゆずの村」「一本釣り、藁焼きたたき」「シブガキ男の石鹸」「島じゃあ常識　さざえカレー」・・・・・・。「ニッポンの風景をつくりなおせ」は梅原本人の本。本書は日経ビジネスオンラインに連載された記者のルポ。当然ながら視点の違いが現実を変えて見せる。梅原批判の声ものせている。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/09/171509573-7008d2d1-7598-4eef-bec4-145b3394900f.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3623" title="p2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/09/171509573-7008d2d1-7598-4eef-bec4-145b3394900f-267x300.jpg" alt="" width="267" height="300" /></a></p>
<p>この本を昨日、東京からミラノの飛行機のなかで読了した。雲の上を飛びながら考えた。この梅原のやってきたこと、実にイタリア的ではないかと思う。人のものさしではなく、自分のものさしをもつ。これがイタリアの教育だ。今、自分のいる場所にある歴史を調べ、そこでしかできない価値を見出し、それを他にコミュニケートしていくのが都市再生の基本。それも具体的な商品で。「反グローバル」「反環境破壊」というスローガンの戦いに熱中するのではなく、価値を可視化して経済化することで説得性を強めていく。この現実性がイタリアの都市復活のキーだった。ショーウィンドウに特産物を並べるだけでなく、これを作る職人が同じ場所に居を構え、その工房を見世物にするのではなく、金を生み出していく環境を確保していく。これが観光資源ともなっていく。</p>
<p>しかし、これはローカルをコミュニケートしていくうえでの定番でもある。よってロジックに差異はない。<strong>ただ、日本で弱い部分がある、根本的に。「自分のものさしをもつ」「差異を強みとして利用する」。この二つだ</strong>。「自分のものさしをもつ」ことがタイトルになるくらいに、日本では自分のものさしが欠けている。ひとのものさしを使うことに馴れきっている。差異があること自身を怖がる。この状態がある限り、結果として、地方の再生は中途半端だし、東京もグローバルハブになれきれない。<strong>たった二つなのだ。問題解決への道は。たった二つ、でも精神的に強くないともてない二つだ</strong>。</p>
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